来年の「名言との対話」をどういうテーマにするか、検討中。
夕刻の会食の前に、神保町の古本屋をぶらぶらする。
『幕末維新大人名事典』(新人物往来社)
アマゾンで購入した本が届いた。
『全国版幕末維新人物事典』(歴史群像編集部編。学研)
同じく、『アジア人物史 アジアのかたちの完成』(集英社)
kindleUnlimittedで入手。
『超ビジュアル! 幕末維新人物大事典』(矢部健太郎監修。西東社)
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夕食は、KITTEの「久し路」で、JAL時代の仲間との食事会。
朝はヨガを1時間。
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「名言との対話」12月3日。種田山頭火「私にできることはたった二つしかない。酒を飲むこと、句をつくること」
種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。
山口県防府市出身。大地主の長男。10歳の時、母・フサが自殺し祖母の手で育てられる。15歳前後で俳句を詠むようになる。東京専門学校高等予科を経て、早稲田大学文学部文学科に入学。神経衰弱で退学し、実家へ帰郷。27歳、結婚。31歳、井泉水主宰の『層雲』に投稿句が掲載される。山頭火の俳号を使い始める。41歳、単身上京し関東大震災に遭遇。
42歳で得度し寺男になるが、43歳から西日本を旅し『層雲』に投稿する。50歳、山口市で、「其中庵」。54歳、雲水として山梨県、長野県、東北各地を旅する。56歳、山口県湯田温泉に「風来居」。翌年松山市に「一草庵」。享年57。
山頭火は、自由律句の萩原井泉水門下で、尾崎放哉と双璧をなす俳人である。
『種田山頭火 名作全集(電子版)』(種田山頭火文学研究会)を手にした。
一茶の鋭さと飄逸さを好んでいて、「ひとり住めばあをあをとして草」という句もある。旅の間の日記は実に興味深い。旅の間に書いている心情と句を交えながら読み進めた。
- 私はまた旅出でた。愚かな旅人として放浪するより外に私の行き方はないのだ。
- 「何と旅はおもしろい事がある!」
- 袈裟のかげに隠れる。嘘の経文を読む。貰いの技巧を弄する。市街を根気よく行乞う。入浴、雑談、横臥、漫読。物知り坊主。ホントウの苦労人はいい。あたたかい宿。入浴という享楽。酒のうまさを知る幸福と不幸。安宿の朝の面白さ。
- 「旅で出来る句は無理に作ったのでないから、平凡でも、その中に嫌味は少ない」。
- 「お天気はよすぎる一人ぼっち」「水の味も身にしむ秋となり」「年とれば故郷こひしいつくつくぼうし」「何とたくさんの墓がある墓がある」「秋寒く酔へない酒を飲んでゐる」「捨ててある扇子をひらけば不二の山」「
- 52歳の新年には、「ふりかえりみる過去は「あさましい」の一言で尽きる」とあるが、感情をいつわらないようにしていきてきたことがせめてものよろこびとし、「独慎」の文字を心の中の紙に書いている。自らを幸福な不幸人として「このみちやいくたりゆきしわれはけふゆく」と詠んでいる。
- 生きている間は感情を偽らずに生きること、死ぬときには「コロリ往生」を遂げることを念じている。
「酒を飲むこと、句をつくること」の後には、「飲んでは苦しみ、苦しんでは飲む、食ふや食はずで句作する、まことに阿保らしさのかぎりだ、業、業、業。」
山頭火は、57年の生涯で1万2千句を詠んでいる。この多さは、旅から旅の放浪生活を送ったからだろう。そして放哉と同じく、放浪と酒が欠かせない日々であった。
山頭火については、高校時代の古文の先生が研究家であったこと、そしていろいろな場面で名前に接してきたが、今回その姿をおぼろげながら知ることができた。日本各地を雲水としながら旅をし、そのときどきの人間的な感慨を自由律の句に表現する姿には、共感する人が多い。私もファンになった。