youtube『遅咲き偉人伝』の「東山魁夷」篇(41人目)をリリース。午後は、神保町の古本祭り。

youtube『遅咲き偉人伝』の「東山魁夷」篇をリリース。

遅咲き偉人伝39 東山 魁夷 (youtube.com)

東山魁夷「時が過ぎ去って行くのでは無く、私達が過ぎ去っていくのである。」

文章になっている言葉からもこの絵描きの豊富な教養を知ることができる。平生からの信条は「生かされている」であり、この風景画家は天の声に従って日本の風景を生涯にわたって描き続けた。

評価され無い時代も長く、途中で兵隊にとられたりして画家として世に出るのはずいぶんと遅かったとのことだ。長い準備期間を経て本製作に入ったようなものだと述懐しているが、人生という大きな舞台で大ぶりの絵を描くには、準備期間が大切ということを暗示している。善光寺の近くにある長野信濃美術館・東山魁夷館を訪問し、この風景画家の作品に深い印象を受けた。61歳でドイツ・オーストリアの旅にでるがこのときの心境を記した言葉に感銘を受けた「このまま安定した歩みを続けることは老いを意味し、心の躍動を失うのではないか。命の鼓動を取り戻すべきではないか」。

63歳で描くことを決心した唐招提寺障壁画では、鑑真和上との対話をする。山と海という二つの大きな主題である日本の風景を訪ね歩き、中国の風景を描く旅に出る。そして67歳で第一期完成、72歳で第二期を完成させる。

「無常と流転。流転とは生きているということ」という言葉も東山魁夷の言葉だ。常に流転し、変化し続け、いずれ散る命。その命と日本の優しく厳しい自然との交歓を描くという使命感を持った画家の透徹した人生観がここにある。

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「遅咲き偉人伝」で取り上げた人物:松本清張永田耕衣鈴木大拙宮脇俊三伊丹十三加藤廣グランマ・モーゼス。森光子。山口洋子佐藤忠良柴田トヨ。村野四郎。片岡球子。古川薫。川田龍吉。宇野千代葉室麟石井桃子白洲正子ゴッホセザンヌ壺井栄今西錦司宮尾登美子吉田茂渡辺京二石橋正二郎新藤兼人東山千栄子。小野寺百合子。原田マハタモリ戸田奈津子綾小路きみまろ樹木希林山本博。尾畑春夫。藤沢周平。松岡和子。伊能忠敬。以上40人。

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神保町。

  • 今日から始まった神保町の古本祭り。鹿島茂『聖人366日事典』(東京堂出版)。「守護聖人」というキーワード。
  • カレー「ボンディ」。13時過ぎから45分待ち。ものすごく混んでいる。

  • シェア書店「ほんまる」(今村翔吾オーナー)。4月27日オープン。さくら通り。

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関連する画像の詳細をご覧ください。建築界巨匠の創作の原点を知る「丹下健三が見た丹下健三」 | 2015年記事

「名言との対話」3月22日。丹下健三「機能的なものが美しいのではない。美しきもののみ機能的である」

 丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日 - 2005年(平成17年)3月22日)は日本の建築家、都市計画家。

広島県出身。丹下は東京帝大工学部建築学科には2年の浪人の後に入学しているし、一躍有名になった広島平和記念公園が完成した時には既に40歳になっており、早咲きの人ではなかったのは意外だった。丹下は膨大で優れた仕事を実現し、晩年に向けてしだいに重きをなしていく、遅咲きの人であったのだ。

丹下は大学院時代にかけて次々にコンペに入賞する。1946年には建築家の助教授になり、通称「丹下研究室」をつくる。「丹研」は、槇冬彦、磯崎新黒川紀章などの優れた人材を生んでいる。

新宿西口広場も設計した坂倉準三、東京文化会館東京都美術館紀伊国屋ビルなどを設計した前川國男(1905-1986)、ヴェネチアビエンナーレ、大学セミナーハウスを設計した吉阪隆正(1917-1980)20世紀最大の建築家・ル・コルビュジェの3大弟子である。前川 國男パリのル・コルビュジェの事務所に入所し、帰国後建築設計事務所をひらく。前川より10年後輩の丹下健三は、前川国男建築設計事務所に入っている。

51歳、新設の東大工学部都市工学部都市工学学科教授。61歳、定年退官し名誉教授。66歳、文化功労者。67歳、文化勲章。賞の受賞についてくる年金は東大から寄付を強要されて、丹下の懐に入らなかったという。

丹下の国内の作品。代々木国立屋内総合競技場。日本万国博覧会マスタープラン。草月会館赤坂プリンスホテル広島平和記念資料館・平和記念館。山梨文化会館。静岡新聞静岡放送東京支社。在日トルコ大使館。在日ブルガリア大使館。ハナエ・モリビル。愛媛県文化会館。兵庫県立歴史博物館。横浜市立美術館。そして威容を誇る新宿の都庁、お台場のフジテレビ、、、。

丹下の仕事は全世界にわたっている。サウジアラビア王国国王宮殿。ナイジェリア新首都計画。WHO本部計画。クエート国際空港。キングファイサル財団本部、、。

代表作の一つの広島平和記念資料館・平和記念館については、「桂離宮を現代の材料で表現してみたい」と語っている、(石本美由紀『出会い わが師わが道』(広島テレビ放送

 1950年代は、丹下は建築デザインだけでなく、文章を用いた建築理論においても日本の建築界をリードした。縄文と弥生の二項対立を丹下弁証法で高い次元の「合」にしていく。向かって左と右に対極的な形を置き、その中心を進んだ先に小さいがシンボリックな存在が見えるようにする。倉敷市庁舎は縄文的表現。香川県庁舎と倉吉市庁舎は縄文から弥生の過渡期のコンクリート作品。東京都庁舎は弥生的伝統の鉄による表現。

戦後日本の建築の歴史を眺めよう。第一世代は丹下健三(1913年生)。第二世代は槇冬彦(1928年生)、磯崎新(1931年生)、黒川紀章(1934年生)。強い時代だった。第三世代は安藤忠雄(1941年生)、伊藤豊雄(1941年生)で移行期。国際レースに出走するしかなくなった第四世代に坂茂妹島和世らとともに1954年生まれの隈研吾がいる。この世代は日本の弱さが明らかになった時代にいる。バブル崩壊後の1990年代に地方に関与せざるを得なくなった隈研吾は、その土地ならではの建築を深めて行った。

2015年に「丹下健三が見た丹下健三」展が青山のTOTOギャラリーで開催中でみてきた。写真をこよなく愛した丹下健三の1950年代に自らの作品を撮影した写真が並べてあった。1950年代は、丹下は建築デザインだけでなく、文章を用いた建築理論においても日本の建築界をリードしていた。丹下の36歳から46歳までの写真である。また、日本図書センターの自伝シリーズ『丹下健三--一本の鉛筆から』を読んでみた。

丹下健三は、日本の伝統を否定し、変革しつつ、しかも正しく受け継ぐことを信条としていた。実用品としてつくられた物には美があるというのは「民芸」の考えだが、丹下はそうではないという。「機能的なものが美しいのではない。美しきもののみ機能的である」。徹底して美を追究すると、自然に機能的にも優れたものができるという考え方だ。それが数々の建築作品を生んだのである。

機能的に優れた実用作品には「実用の美」があり、徹底的に美を追求した「芸術の美」は優れた機能を持つ。正反対のようにみえるが、同じことを違った面から語っているのではないか。