三島で開催された富士箱根伊豆国際学会の総会。

夕方、静岡県三島で開催された富士箱根伊豆国際学会の総会に出席。我々の仲間では、橘川さん、田原さん、都築さん、松永さをが駆けつけた。この学会では私は顧問を務めている。

終了後の懇談会では、乾杯の挨拶を頼まれた。30数年前に知研の仲間だった世古真一さんがいて、声がかかった。

その後は、学会会長の五條堀隆先生を囲む会と、深呼吸学部の友人の小林佳代さん(ももちゃん)の遺伝学研究所の博士課程入学を祝う会に出席した。ここでも10分近くのスピーチを要請された。

この学会を支えるリーダークラスの何人かに、この学会の進むべき方向や進め方について、飲みながらプロジェクトエンジニアリングについての私の考えを伝えることとなった。

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二次会は、私たち東京組と何人か女性で、五條堀先生を囲む会となった。

昼ごろ三島に着いて、佐野美術館を訪問したが、残念ながら休館日だった。堀文子展をやっていた。

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タクシーの運転手から勧められた、蕎麦屋で3色そばと日本酒を少し飲んでゆっくりする。

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三島大社の宝物館。

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プロレスマスクミュージアム

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「名言との対話」5月23日。熊井啓「家庭にトラブルがある人は良い仕事が出来ません」

熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)は、日本の映画監督。

 多くの監督作が『キネマ旬報』ベスト・テンに選出され、ベルリン国際映画祭ヴェネツィア国際映画祭の各賞を受賞した。日本を代表する社会派映画の巨匠である。

1964年、「帝銀事件・死刑囚」で映画監督デビューしてからは、「日本列島」(1965年)、「サンダカン八番娼館 望郷」(1974年)、「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」(1981年)、「日本の黒い夏 冤罪」(2001年)といった日本の近現代の社会問題や社会事件を主題とした作品をつくった。

職業的生命を賭けた「黒部の太陽」(1958年)は、空前のヒットとなった。高校生時代に石原裕次郎主演のこの映画をみたが、それは熊井啓の作品だったのだ。映画の批評がエネルギーになっていたようだ。山﨑豊子は「じかに日本人の魂に訴えて来る巨大な感動感」と言い、荻昌弘は「この映画がみつめようとしたのは、、、我々「人間」が、何かものを「作る」ことの意味--それであった」と熊井の真意を理解した発言をして、勇気をもらっている。

忍ぶ川」(1972年)、「天平の甍」(1980年)、「海と毒薬」(1986年)、「千利休 本覚坊遺文」(1989年)、「深い河」(1995年)、「愛する」(1997年)といった作品は、日本の文芸作品を原作とし、人間の生と死を見つめた作品である。

朱子がつくったと言われている「偶成」という漢詩がよく知られている。「少年老い易く 学成り難し 一寸の光陰 軽んず可からず 未だ覚めず池塘 春草の夢 階前の梧葉 已に秋声」。若者はアッという間に年をとり、しかし学問はなかなか完成しない。少しの時間でも軽々しく過ごしてはならない。池の堤の若草の上でまどろんだ春の日の夢がまだ覚めないうちに、階段の前の青桐の葉には、もう秋風の音が聞かれる。

 妻からは偽悪的で韜晦的でもあったとも評された熊井啓は、色紙を求められると「未覺池塘春草夢」と書いた。その夢とは映画をつくることであり、強じんな精神力をもって意気軒昂な姿でその夢を生涯持ち続けた。熊井啓は少年の志を持ち続け、実現した人である。

安曇野市豊科交流学習センター“きぼう”の中に、妻が寄贈した1600点以上の貴重な資料をもとに、その業績を顕彰するため、熊井啓記念館が2008年にできている。

熊井は「本はいくらでも買え、勉強のための出費は惜しむな」と後に作家となった妻・明子に語っていた。さらに、「家庭にトラブルがある人は良い仕事が出来ません」という言葉も紹介している。