朝はヨガ教室で心身を整える。少し汗をかいた。
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『臨床心理士報』への寄稿の依頼。3月3日の「第31回心の健康会議」シンポジウムの内容の加筆修正。
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日経新聞から。
- 本庶佑「わたしの履歴書」:生涯で650本の論文。指導を受けた西塚泰美教授はあと3年生きていたらノーベル賞をもらっていた。(ノーベル賞級の業績があったが、寿命が届かなかった人も多い)
- 吉田ルイ子が5月30日に死去。享年89。JAL時代に接触があった。
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新宿で橘川さんと昼食をとりながら打合せ。
表紙。「RADAR」と「書評」。「個人史」。
新宿スクエアビル「すし山」
珈琲「凡」
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NHKBSで「伝説のコンサート 美空ひばり」を堪能した伝説のステージ「不死鳥コンサート」の復帰公演を堪能。
体調不良を感じさせず、「悲しい酒」、「人生一路」、「ひばりの佐渡情話」、「港町十三番地」など40曲を歌いあげた。見事だった。
ひばりは肝臓の病で療養していたが、1988年(51歳)には東京ドームのこけら落しという大舞台で、5万5千人のファンを集めた復活コンサートを大成功させた。翌1989年6月24日に永眠。享年は52。
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「名言との対話」6月8日。青木定雄「常識的なことをしっかりやることが、これが革命なんです」
青木 定雄(あおき さだお(通名)、1928年6月23日 - 2017年6月8日)は、日本の実業家。在日韓国人1世。MKタクシー創業者。享年88。
15歳で韓国から渡日。23歳立命館大学中退。32歳、ミナミタクシー創業。41歳、MKシステム(コストカットで浮いた利潤の83%を乗務員に還元。銀行支店長並の給与を目指す)を採用。49歳、桂タクシーを吸収しMKタクシー(ミナミMとカツラK)を設立。66歳、代表取締役会長を退任。73歳、経営破綻した3つの信用組合の事業を引き継いだ韓国系近畿産業信用組合の代表理事会長に就任。青木定雄は交通と金融の革命児となった。
『人が動く 韓流MKタクシー青木定雄の成功哲学』(ふくろう出版)を読んだ。
1972年、急病・急用・出産対応の深夜ステーション。1975年、学士ドライバー採用。1978年、救急タクシー(赤十字の救急員資格)。1983年、身体障害者割引制度。1992年、全車両禁煙。1995年、阪神・淡路大震災に救援無償タクシー派遣。2割が英語で観光案内。ライセンスがあればサービス料として10万の追加収入、ライセンス獲得者のうち年間5人をイギリス留学、20万円の追加収入。動く情報デパート。待合室。運賃値下げで運輸省を提訴し勝訴、、。「教育がすべてなんです」という青木定雄は、月に9回の社員向けセミナーを実施。大学教授やお寺の管長などが講義するなど、自身の講義も含め教育に全精力を傾けた。
MK精神とは奉仕と親切の精神であり、人本主義を標榜する世直し企業を一代で創業した。結果的に、日本のタクシー業界を一段階グレードアップした。京都のタクシーではトップ。全国で9番。「エレガント・カンパニー」。いい商品、いいサービス。9位。日経流通新聞の「商品ブランド」では、3位。、、というように社会的評価も高かった。MKタクシーの斬新な経営改革は、メディアで大きな話題になった。東京への進出時には街で見かけて、私も試したことがある。
奇抜なアイデアではなく、消費者からみて当たり前の常識を実現するために、自らの企業で徹底して工夫を重ね、実現していったという印象が深い。それが社内の意識を改革し、さらに業界と地域を越えて波及していき、世直しが実現しているという思いが青木定雄にはあった。
経営手法や評価には、嫉妬も含めて賛否両論、そして毀誉褒貶があるのは当然だが、「経営は一つの総合芸術である」と考えた交通の革命児、風雲児であったことは間違いない。