「水墨の風--雪舟」(出光美術館)

f:id:k-hisatune:20170711075515j:image

 雪舟(1420年生)は、岡山の総社に生まれ、宝福寺では「涙でネズミを描いたという伝説が生まれる。

青年期は京都で過ごす、修行をしたが、ずっと不遇であった。相国寺にいた画僧・周文の都ぶりの繊細な画風にあわなかった。

35才からは山内氏の山口で過ごす。師の師であった如拙の名をとって拙宗と名乗っていたが、38才では雪舟に変える。小京都・山口では絵の世界の中心人物となる。応仁の乱勃発の直後の48才から50才の約3年間は遣明使の一員として中国へ渡る。随行カメラマンのような役割の雪舟は北京では礼部という役所の壁を飾る絵を描いた。「唐土勝景図鑑」「国々人物図鑑」を描いている。

帰国後の日本は応仁の乱で荒れていた。一時豊後の府内(大分市)にいたが、山口に戻っている。当時の絵かきは各地の風景を描いたり、各地の僧たちとの交流をはかるなど情報部員という役割も持っていた。世の中を見て、聞いて、写すのが画僧の仕事であった。

雪舟は山口の大内家のスタッフであり、絵では大家であった。よくみるとこの雪舟は67才で名作「山水長巻図」(16m。冬の終わり、梅の花がほころぶ春、初夏の水辺、秋の村のにぎわい、凍てつく都、春を予感させる緑の木)を描いている。長大な画巻は山水経のようだ。74才で「破墨山水図」、77才で「えかだんぴず」、80才あたりでは最後の旅で「天橋立図」を描いた。この絵は地上で見たもののスケッチを組み合わせて、土地全体を見晴らす架空の視点で描いている。これら代表作は、67才以降の作品である。雪舟は意外なことに遅咲きの画家であった。

--------------

大学。

杉田先生:フットサル、、、。

会議:宮地、川手、杉田、高野。

「名言との対話」7月10日。今和次郎考現学は、時間的には考古学と対立し、空間的には民族学と対立するものであって、もっぱら現代の文化人の生活を対象として研究せんとするものである」

今 和次郎(こん わじろう、1888年明治21年)7月10日 - 1973年昭和48年)10月27日)は、民俗学研究者。

今和次郎は、「考現学」の創始者である。最近、〇〇考現学というような言葉がメディアで出てくるが、そのきかっけとなった学問である。何となく新しい感じの、ややいかがわしい感じの言葉という印象があったが、これは考古学を仮想敵とした概念だった。古いこと(昔のこと)を考えるのではなく、今現在を考える学問である。
今和次郎は、13歳年上の日本民俗学の父・柳田国男から「君の目がいいよ。俺と一緒に旅行して歩かんか」と誘われて、日本の民家を訪ねる旅を始める。柳田は新渡戸稲造らと一緒に民家研究の「白茅会」をつくって活動していた。この会には小説家の内田魯庵貴族院議員の細川護立、新渡戸稲造などがいた。東京美大出身の今和次郎は、この旅で盛んにスケッチをしてまわる。日本のほとんどの県に足を踏み入れている。これが後に民家研究の草分けとなる「日本の民家」(鈴木書店1922)に結実する。

1923年の関東大震災は様々な人の人生を変えていく。今和次郎の場合は日本の田舎を対象とした研究活動をしており、都会は大きすぎて手に負えなかったのだが、一面焼け野原と化した東京をみて研究対象を都市に変えるきっかけとなった。原始的な状態になってしまった東京の復興を細かく記録することにしたのである。人々の生活や風俗を克明に記録していく。これがきっかけとなって「考現学」が形をなしていく。
同時に今和次郎らは「バラック装飾社」を立ち上げて、日比谷講演公園内の開新食堂や東條書店など、震災後に次々に立ち上がるバラックに美しい装飾を施していく。

今和次郎採集講義」という企画展をパナソニック汐留ミュージアムでみた。「本所深川 男の欲しいもの」「帯の色調査」「蟻の歩き方」「丸ビルモダンガールズ散歩コース」「茶碗のワレ方」「おしめの文様」「東京場末女人の結髪」「女のあたま」「井の頭講演自殺者地図」、、、、など驚くべきテーマで上手な絵とイラストを描きまくっている。見ていてまことに楽しい。

今和次郎は、26歳で早稲田大学の講師になり、32歳で教授、40歳で結婚、71歳で定年退職、85歳で亡くなるまで教壇に立ち続けている。この人はジャンパー姿がトレードマークだった。この庶民的な姿で現場を歩いていったのだ。

1940年に描いた「新時代の生活方向  家庭の各員の生活マジノ線を防御しませう」という図が面白い。「家計」「主人」「主婦」「息子」「娘」「子供」「老人」「乳幼児」というタイトルで、それぞれが一枚の見事な図になっている。
今和次郎の仕事では、透視図や俯瞰図といったものに優れたものが多い。この人はせ図解的な仕事をした人である。

仮想敵は考古学と民族学、そして民俗学であった。 民俗学が村落を対象とし、その過去の風俗を追求しようとしたのに対し、考現学は都市を対象とし、その現在の風俗を観察しようとしたのであった。他の分野との違いを際立たせる視点とネーミングの素晴らしさが勝利の秘密である。