午前は多摩:「立志人物伝」の授業。午後は九段:研究活性化センター運営委員会・大学戦略会議・大学運営会議。夜は品川:「立志人物論」の授業

「副学長日誌・志塾の風」171201

多摩

・0900:授業準備

・0930:杉本:本日の2つの会議の事前ブリーフィング

・10時40分:「立志人物伝」10回目の授業。本日のテーマは「飛翔する構想力」。後藤新平水戸光圀嘉納治五郎松下幸之助棟方志功

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九段

・13時50分:研究活性化センター運営委員会:選定された平成29年度私立大学研究ブランディング事業についての説明と意見交換。プロジェクト本部を立ち上げ実行へ。

・14時半:大学戦略会議:前回のテーマ「アクティブラーニング」の回答の報告。今回のテーマは「研究」。競争的資金。私立大学研究ブランディング事業。大いなる多摩学会、、、。

・15時半:大学運営会議:補正予算。2018年度予算編成方針。経営情報学部専任教員採用人事。規程の改定。研究ブランディング事業。2018年度人事。学長(大学連携。ジェロントロジー。シニアの参画型プラットフォーム。ライブビューイング、、)

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品川

・18時半-21時40分:「立志人物論」の授業6回目。本日のテーマは「修養・鍛錬・研鑽」。安岡正篤二宮尊徳野口英世新渡戸稲造サトウハチロー朝倉文夫本多静六。8人が受講。日本人4、中国人3、ロシア人1。以下、ブログへの感想の書き込み。

私の至らないところ、それを表現する言葉が新渡戸稲造にありました。ついつい自分に甘く現実から逃げて新しいことに飛びついたり、先のことを考えたりしてしまうが、「終生の業は、その日その日の義務を完了するより外にない」「事の成る成らぬは天に任し、自分はひとえにその日その日の務めを全うすれば足る」成功するかどうかは天に任す。自分はその日その日を全うするのみ。つまり、その日その日を全うすることが未来にも繋がるのだと思う。毎日毎日をもっと真剣に生きなくてはと改めて考えました。

野口英世は、私の母校日本医科大学の先輩です。日本医科大学出身の有名人のなかで1位です。彼が幼少期から苦労しハングリー精神が彼を世界的な医学研究に打ち込ませたのだと思います。また彼の転機は米国ロックフェラー医学研究所との出会いだと思います。私も米国メイヨークリニックに留学しましたが、医学的思考、医師としての生き方が変わりました。安岡正篤は、哲学者だとおもいます。人間としての生き方は最終的には人格形成、人間形成だとおもいます。彼の本は早急に読みたいと思いました。

本日の講義では新渡戸稲造が一番印象に残りました。特に女子教育について語った動画の内容は今の学生にきかせても何ら遜色のないものであり、また、理想をもつことの大切さを改めて痛感しました。この理想という言葉からは吉田松陰の「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし、故に夢なき者に成功なし」という言葉にもつながりました。渋沢栄一も同様の言葉を残しており、これまで学んできた偉人たちの言葉には多くの共通点があるように思いました。それをいくつかのカテゴリーに分けて自分なりに整理してみたいと思いました。あわせて新渡戸稲造の本も読んでみようと思います。

自己修養において, 受講生各自のイデオロギーロールモデルとなりうる偉人が数人登場した第6講であった。安岡正篤の思想・貢献や野口英世の偉業は表面的とはいえ理解しているつもりだが, 5千円の肖像であった新渡戸稲造の功績は今般初めて知ることになる。『一日一言』のように適宜内省し, 人生の鍛錬を重ねた彼の生涯は, 意外にも身近な暮らしでみる名言が多い。1800年代を生きた人たちは総体的に教養が深いため, 私もその時代に生まれ 弟子入りしたかった... 現北大の前身である札幌農学校出身者である彼からは, 思想に加え, 勤勉な姿勢×継続力を見習うことにする。早速「終生の業は, その日その日の義務を完了するより外にない」という訓えから, 明朝(土)科目の課題仕上げにとりかかる前に, 本科目の省察を大学院からの復路で行った。追伸: サトウハチローは, ルックスや生き方の意外性から, 聴き慣れた日本名童謡や軍歌の作詞に感動を覚えた。

今回では二宮尊徳さんが一番印象に残りました。彼は日本の復興事業を推進しました。その思想は戦前の日本の模範、倫理観となりました。また、面白いことは、亡くなる前に何も建てなくて、土を盛り揚げ、木を一本上置けばいいと望みました。しかし、客死した後弟子達がすぐ立派な神社を建てました、遺言と心からの尊敬している弟子の行動は矛盾です。最後は武士道は神道儒教と仏教の混合体という視点、私は複数の教を融合することを全然考えなかった、私にそれは新しい視点です。

朝倉 文夫さんの「『百』扱ったならば、卒業というか、入門というか、正しく一段階を得て、人生四十にして立った境地である。それからほんとうの途が発するのであるが、またそれで初めて一人前の域に入ったときでもあると思う」という言葉に非常に気になりました。意味について、よく考えました。結果として、「全ての終わりは本当の始めだ」という考え方が出てきました。私は主に二つの面から理解します。普通の生活で、さなざまなことに直面しなければならないです。簡単でも、厄介でも、最後まで必ず解決できます。しかし、これが終わりではなくて、次のことの始めです。人生の最後まで、ずっとこのように循環すると思います。もう一つ面は、愛情です。恋人関係から付き合い始まって、何年間、ひいては十数年を経ってきて、結婚します。つまり、恋人から夫婦へ行きます。これは恋の終わり、愛の始めです。我々が、するべきのことをやって、このように日々を過ごしていると考えます。

 

「名言との対話」12月1日。荻原守衛「愛は芸術なり。相克は美なり」

荻原碌山(おぎわら ろくざん、1879年明治12年12月1日 - 1910年明治43年4月22日)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。

1904年、フランスのパリでロダンの「考える人」をみて「人間を描くとはただその姿を写し取ることではなく、魂そのものを描くことなのだ」と気づかされ、彫刻を志す。1907年にはロダンに面会している。「女の胴」、「抗夫」などを制作。帰国し1908年には「文覚」で第二回文展に入選。1909年には「デスペア」を制作。1910年「女」は、絶望と希望が融合した作品だ。このシリーズは人妻への許されぬ恋の軌跡が宿っており、人々に感動を与えた。その女性は「胸はしめつけられて呼吸は止まり・・・自分を支えて立っていることが、出来ませんでした」と語っている。その年に荻原は30歳で急逝する。荻原の活躍は2年に過ぎないが、友人の高村光太郎は「日本の近代彫刻は荻原守衛から始まる」という説に賛同している。「同郷の作家・臼井吉見は『安曇野』で碌山らを描いている。

民間人30万人が設立に参加したと言われる長野県安曇野の夭折した彫刻家・荻原守衛美術館。そのシンボルである「碌山館」はキリスト教の教会堂を思わせる。高村光太郎が絶賛した「坑夫」、「文覚」が素晴らしい。荻原は「東洋のロダン」と呼ばれていたのもうなづける。

碌山は「蕾にして凋落せんも 亦面白し 天の命なれば 之又せん術なし 唯人事の限りを尽くして 待たんのみ 事業の如何にあらず 心事の高潔なり 涙の多量なり 以て満足す可きなり」と人生観を書いている。そして「愛は芸術なり。相克は美なり」という碌山の言葉も、彼の短い人生と彫刻シリーズ制作の軌跡を追うと、納得することができる。