旧聖蹟記念館で催中の「関根要太郎展」。
多摩大の近くにあるこの記念館は、何度か訪れてる。今回は、この建物を設計・建築した建築家・関根要太郎(1889年ー1959年)の企画展だ。2019年は、関根の生誕130年、没後60年にあたる。
建築家。設計した建造物は100棟を越している。設立者の田中光顕から「多摩聖蹟記念館」の設計者として任命された。完成させるのは1930年、関根が41歳のときだ。当初の構想からは縮小。建設後の支払いに大きな問題が起きた。田中は記念館の建設費の支払いで大倉工木(大成建設)から告訴されていた。最終的には岩崎小弥太の寄付でまかなった。開館式には浜口雄幸首相もかけつけ、立川飛行場から記念飛行が行われるなど華やかだった。
1910年、三橋建築事務所に入所。三橋四郎(1867-1915)は「和洋改良大建築学」4巻の大著を刊行した人。23-24歳。満州の奉天などの領事館の建設にあたる。貯めた金で東京高等工業学校(東工大)建築科に選科生として入学。卒業後は日本建築株式会社に就職。この会社は不動貯金銀行の営繕を担った。銀行建築では不動貯蓄銀行の支店を40余りを設計・監督。今まだ残っているのは函館、京都七条、姫路、下関。
1920年、関根建築事務所創立。1921年の函館の大火で建物を多数つくる。レジャー施設として成功した京王閣、多摩聖蹟記念館の建設。
1923年の関東大震災でが全焼するも、「信用と同情」により復活する。
1931年、不況と体調不良により、事務所を閉鎖。1934年、函館は再び大火、関根は被害調査を行っている。1959年、逝去。享年69。
私は2007年の夏に函館の元町を散策したことがある。函館ハリスト正教会。函館市公会堂。四天王像。旧イギリス領事館 ペリー提督来航記念碑 函館西高等学校(辻仁成、北島三郎)。そして評論家として名をなした亀井勝一郎の生誕の家があったことを思い出した。私の生徒・学生時代には亀井勝一郎の文章が試験によく出ていた。函館に現存する旧亀井喜一郎邸、とあるのは勝一郎の父の名前だったことがわかった。この旅行中に函館市市文学館をのぞいたことを思い出した。一階は函館ゆかりの文学者の展示コーナーだった。今東光(1898ー1977年)、今日出海(1903-1984年)、辻仁成(1959年生まれ)、亀井勝一郎(1907ー1966年)、井上光晴(1907-1966年)などの資料展示があった。二階は石川啄木の展示だった。亀井勝一郎の 「人生 邂逅し 開眼し 瞑目す」という名言が展示されていた。
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帰って一休みしてからジムへといくつもりだったが、国内ゴルフ最終戦で石川遼が劇的な逆転優勝を飾るのをみていたら逃してしまった。たくましくなったなあ。
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「名言との対話」12月8日。市川雄一「(細川連立政権が短命に終わった)主な原因は政治改革を成し遂げたことで結束する目標を失ったことだと思う」
市川 雄一(いちかわ ゆういち、1935年1月25日 - 2017年12月8日)は、日本の政治家。
衆議院議員、公明党国会対策委員長、公明党書記長、新進党政務会長、新進党副党首、公明党副代表、公明党常任顧問などを歴任した。
1976年12月5日、第34回衆議院議員総選挙において旧公明党公認で旧神奈川2区から立候補し、初当選(以後、連続9回当選)。公明党機関紙局長、公明党副書記長に就任する。1986年12月、公明党国会対策委員長に就任。1988年、国会で折衝を重ねた竹下内閣官房副長官の小沢一郎と意気投合し、後々まで盟友関係を結んでいく。1989年、公明党委員長の矢野絢也が明電工事件に関係したことにより、公明党執行部は総退陣し、公明党書記長に就任。1990年、第39回衆議院議員総選挙において公明党が議席数を減らすと、それまでの社会党との共闘志向を修正する。親交のある自民党幹事長の小沢との関係を強めた。
1993年8月9日から1994年4月28日までの細川連立政権は、各党書記長・代表幹事らの与党代表者会議によって行われ、新生党代表幹事小沢一郎と公明党書記長市川雄一の「一・一ライン」が中心となった。この政権のテーマは「政治改革」だった。連立政権側は、小選挙区、比例代表(全国単一)各250・2票制(小選挙区・比例各1票)の小選挙区比例代表並立制を主張。対する自民党は、小選挙区300・比例代表(都道府県単位)177・1票制を主張した。細川・河野洋平のトップ会談で小選挙区300、比例区200に修正された成立した。連立政権は8ヶ月で崩壊した。市川は「主な原因は政治改革を成し遂げたことで結束する目標を失ったことだと思う」「細川政権で与党の経験があるのは小沢さんぐらい。その経験を聞きながら、最初に政権運営の基本ルールで合意した。その意味では『小沢主導』だけど、強権でも何でもなかった。合目的なリアリストの一面と、政治はかくあるべしという革命児の魂が一人の人格の中に共存していた」と後に述懐している。その後、公明党は自民党との連立に動く。「細川政権は短命に終わりました。責任を感じてあれこれ弁明や論評を避け、沈黙を守った。政治にとって安定が重要で、10年近く政治の安定に貢献したと思う」。盟友だった小沢一郎は週刊エコノミストのインタビューで細川政権が短命に終わった理由を質問された際「素人が政権を取ったのだからしょうがない。イギリスの議会制民主主義だって定着するまで時間がかかっている」と答えている。それから2008年に民主党政権が誕生するが、2012年に自民党が政権に復帰する。
政権運営を担当できる二大政党制の確立という大構想は、平成時代の二度の政権交代を実現させたが、いまだ紆余曲折の中にある。市川雄一を追いながら、細川連立政権崩壊の原因を考えるいい機会を持った。市川雄一は「議会制民主主義には健全で強力な野党第1党の存在が不可欠です。二大政党育成という角度から見ると、民主党の失敗は痛い。だが、結論を出すにはまだ早い。二大政党的な競争がないと政治は堕落する。国民の復元力に期待したいと思います」と述べていて、希望を失ってはいなかった。やはり、結束する目標、共通のテーマの設定が大事なのだ。