打ち合わせ面談、ひと仕事、修士論文指導、出版スケジュール確認、セミナー「徳川光國、、」

9時半:京王永山で「こえラボ」の岡田社長と面談。「大全」と塾。

11時:大学でひと仕事。リレー講座11年間の学びのまとめ本、、。徒歩往復。

15時半:社会人大学院生の酒向さんの修士論文指導。「エンゲージメント」。本人から後でもらったメール「今まで授業でもお伝え頂いていた頂いていた点、改めて思い出すことができました。自分用のメモとして最後に付記します。・論文とはモデルを示すこと・モデルとは図解のこと・8割がた正しいと思える図解をつくること・実践知論文は特殊解としてその組織だけに通用すればよい・経営に一般解はないのに一般解から考えるから間違う」

17時:出版社:「平成ニッポン長寿者列伝」(仮題)は2月刊行。

18時半:セミナーに参加。本多忠夫(本多平八郎太忠勝の末裔)さんの「徳川光國の実像」。大名庭園1000カ所。上中下の江戸屋敷跡。大名庭園サミットを世界遺産に。江戸太郎、太田道灌徳川家康。公園と庭園。小石川後楽園。、、、。

20時:根岸さんと一緒に帰宅。「読書悠々」を贈呈。

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「名言との対話」12月9日。野坂昭如「小説とは話を大きくする作業だ。どれだけ嘘を大きくふくらませるかにかかっている」

野坂 昭如(のさか あきゆき、1930年昭和5年)10月10日 - 2015年平成27年)12月9日)は、日本の作家、歌手、作詞家、タレント、政治家。

生母と死別。親戚の養子。大空襲で養父を失い戦災孤児。妹は栄養失調で衰弱死。小大阪、神戸、東京で放浪。1950年早稲田大学仏文科入学するも中途退学。

1955年から三木鶏郎の冗談工房で活躍を始める。1963年、童謡「おもちゃのチャチャチャ」で日本レコード大賞作詞賞。1966年の小説第一作「エロ事師たち」が絶賛される。1967年「火垂るの墓」「アメリカひじき」で直木賞。1972年、「四畳半襖の下張」裁判で有罪(卑猥罪)。1983年参議院選挙で当選。同年、田中角栄の地元から衆議院選挙に立候補し落選。講談社エッセイ賞吉川英治文学賞泉鏡花賞なども受賞している。

飢餓恐怖症であり、牛の様に反芻できる技を持っていた。戦場を知らない、でも戦争がどんなものかは知っているという。戦争については最後まで書き続け、こだわり続け、悲惨さ訴え続けた。

宝塚歌劇団娘役で、シャンソン歌手で11歳年下の野坂曜子と結婚。その妻の手記「うそつき」を読んだ。2003年に脳梗塞を発症し、リハビリを続けながら執筆活動も続けた。闘病は12年続いた。「死んだふり」だと思ったが、最後は本当だった。

童心。純粋さ。道徳心。コンプレックス。思いやり。サービス精神。哀しみ。超真面目人間。潔癖症。優しさ。原罪意識。知的圧迫感。情の細やかさ。、、、。以上の人間像を美輪明宏が指摘しているのだが、妻は知的圧迫感、情の細やかさを加えている。

ある雑誌のインタビューで「今、逢いたい人は?」という質問に、「14歳の少年昭如に会いたい。会って励ましてやりたい。大丈夫だ、生きろ、と」と答えている。焼跡闇市派の面目躍如で、戦争の巻き込まれた少年時代の辛い日々が推察できる。

 「小心であるがゆえの妬み嫉み僻みの三位一体」と自分の弱点をひけらしてものを書いた。「僕は嘘つきである。年中嘘をついて生きてきた。そのため嘘と本当の境目が自分でも危なっかしい」。「小説とは話を大きくする作業だ。どれだけ嘘を大きくふくらませるかにかかっている」から向いていたわけだ。何でもやった人で、嘘や冗談も多く、波乱万丈の生涯であり、実像がつかみにくい。色紙には「三百六十五日、日々酔如泥」と書いていた。この人の名前と才能、常に世間を騒がせる行動はよくみていたが、今回「うそつき」を読んで、その原点である「哀しみ」をみる思いがした。うそつきの訳として「My Liar」と添えてあるのは泣かせる。妻は「生まれたその時から小説だった、彼の人生のページをめくるたびに、その1ページが小説だった」と語っている。この小説家は小説だけでなく、人生そのものが大いなる嘘でみちていたようである。

うそつき: 夫・野坂昭如との53年

うそつき: 夫・野坂昭如との53年

  • 作者:野坂 暘子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/10/17
  • メディア: 単行本