『鷗外語録』からの3回目ーー永遠なる不平家。師はいたが主はいない。アフターファイブの時間割

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『鷗外語録』から3。「豊熟の時代」。50代前半。以下、共感するところ。

  • かなとこに身をはおきてん 槌揮う 汝が手力のおとろふまで        打ツモノハ、イツマデモさいづちナリ。打タルルモノハ、或は名刀トナルベシト自ラ彊ウス。(「賀古鶴所宛鴎外書簡」)
  • 役所から帰って来た時にはへとへとになってゐる。人は晩酌でもして愉快に翌朝まで寝るのであろう。それを僕はランプを細くして置いて、直ぐ起きる覚悟をして一寸寝る。十二時に目を醒ます。頭が少し回復してゐる。それから二時まで起きてゐる。(「追難?」)
  • 併し僕が口訳をするといふには、よその著述家と違って、自分で筆を持って訳する丈の時間が得られないのだから仕方がない。(?)
  • 公事果てて、同じ道を家に帰り、沐浴し、夕餉たうべて、文机にいむかふは、火ともし頃なり。是れ我が日ごとの業なり。かくて此点燈後しばしが程の時間こそは、我が為めにいと貴きものなれ。新なる書読むも此時なり。物書かんとて思を構ふるも此時なり。(「改訂水沫集序」)
  • 実は私自身ではまだ何一つ成功してゐるとは思はない。勿論今も何か成功しようとは心掛けてゐる。今からだと思ってゐる。それも空想に終るかも知れない。只ださう思ってゐる丈は事実である。(「私が十四歳の時」)
  • 足ることを知るといふことが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。(「妄想」)
  • 帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの跡に附いて行かふとは思はなかった。多くの師には逢ったが、一人の主には逢はなかったのである。(「妄想」)
  • 諸余小技見人嗤(私は長いこと、本職の余暇に、いろいろ文学活動もやってきたが、それをほめてくれる人はいなかった。(「?」)
  • 朱丹手磨研 閒房有至楽 足以送暮年(森林太郎拝草)

 

幻冬舎オンラインの連載の6回目。バブル・団塊ジュニア世代を襲う「早期退職募集!」のリアル | 富裕層向け資産防衛メディア | 幻冬舎ゴールドオンライン

ミロラボ。AIノベル。

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「名言との対話」10月11日。アート・ブレイキー「オレは黒人だぞ。一緒に写真に収まってもいいのか?」

アート・ブレイキー(Art Blakey、1919年10月11日 - 1990年10月16日)は、アメリカ合衆国ジャズドラマー

ブラシでの寄り添うようなプレイから激しく煽る「ナイアガラ・ロール」までの幅の広さが特徴的なドラミング奏法で知られ、ジャズ界に多大な影響を与えた。

1940年代後半からマイルス・デイオヴィスらと共演。1954年からジャズ・メッセンジャーを結成した。メンバーを入れ替えて「モーニン」が大ヒットする。ジャズ・メッセンジャーズのリーダーとして、様々なアルバムやコンサート等で活躍する。新人の発掘にも功績があった。

初来日以降、亡くなる直前まで何度も来日し、公演を行っている。日本公演では、日本人のジョージ川口らをジャズミュージシャンをゲストとして呼び込んでドラム合戦をしたり、ときには自分のバンドのレギュラーメンバーに加えることもあった。

4度結婚している。1人は日本人で、その子どもに「akashi」、「Kenji」、「Akira」という日本名をつけている。日本酒のファンでもあった。

また演奏している楽曲の中には、「Kyoto(京都)」「Ugetsu(雨月)」「On The Ginza(オン・ザ・ギンザ)」など、日本語のタイトルが付けられた楽曲もある。

2006年から始まったNHK美の壺」では、歴史的傑作「モーニン」がテーマ曲に使われている。アートブレキーの演奏するドラムの動画をいくつか見てみた。この軽やかな名曲は、「美の壺」のファンである私の耳に残っている。

1961年の初来日時、あるファンから記念写真を頼まれ驚く。アメリカではそういうことはなかった。「オレは黒人だぞ。一緒に写真に収まってもいいのか?」と問い、「そんなこと知ってます。ぜひ一緒に」といわれ、喜んで写真におさまった。

「私は今まで世界を旅してきたが、日本ほど私の心に強い印象を残してくれた国はない。それは演奏を聴く態度は勿論、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれたことだ。人間として! ヒューマンビーイングとして!」と語っている。

アメリカでも黒人差別が激しかった頃であり、アート・ブレイキーは一気に親日家になった。71歳で死去。

 

 

 

東京オリンピック(1964年)の日:人口論。家族のイベント。未来フェス。

秋の気持ちの良い日。10月10日は1964年の東京オリンピックの日だった。

古田隆彦『日本人はどこまで減るか』(幻冬舎新書)を読了しました。

午後:都営新宿線の大島で家族のイベント。

夜:全国未来フェス準備会。

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11月3日。朝から晩まで1人5分のプレゼンが延々と続くという未来フェスの全国版。

和歌山未来フェス。石岡未来フェス。ソーシャルスポーツ未来フェス。図書館未来フェス。仏教未来フェス。外国人未来フェス。家族未来フェス。

私は「知研未来フェス」という枠をもらった。知研と図解塾で10人ほど。知的生産、ライフワーク、図解塾をテーマとし、選んでもらうようにしようか。

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「名言との対話」10月10日。琴ケ濱貞雄「内掛け」

琴ヶ濵 貞雄(ことがはま さだお、1927年10月10日 - 1981年6月7日)は、大相撲力士である。

香川県観音寺市出身。1950年代から1960年代にかけて活躍した。最高位は東大関

四股名は、同郷で兄弟子であり後に師匠となる琴錦と、浜辺がある故郷の観音寺に因んでつけている。同部屋の若ノ花との猛稽古、荒稽古は有名だった。二所ノ関部屋は猛稽古で横綱玉錦以来の伝統だ。朝の稽古は、序の口から順番にするのが決まりだったが、琴ケ濱と若ノ花の兄弟弟子は、土俵のそばに寝て、午前2時から稽古をしたというエピソードがある。弟子たちからは「鬼」と恐れられた。あだ名は「南海の黒豹」。兄弟子の琴錦が独立して佐渡ヶ嶽部屋を創設し、移籍する。

琴ケ濱といえば「内掛け」だ。きっかけは左足の負傷で、かばうために左足を浮かせ気味にとることになり、内掛けを得意技にしたのである。何が幸いするかわからない。

技能賞の常連で、「内掛け賞」とも言われた。横綱栃錦からは内掛けを含め3個の金星をあげている。関脇で好成績をおさめ大関昇進に何度か迫ったが、1958年にようやく実現した。病や負傷で横綱はなれなかった。引退後は、尾車親方として琴桜を鍛えて横綱に昇進させている。琴風、琴将菊、琴勇輝、琴欧州琴ノ若など、「琴」のついた名前で活躍している力士は多い。これも猛稽古という伝統の賜物だろう。

切れ味鋭い内掛けで相手があざやかに仰向けに倒れる姿には子ども時代の私もテレビでみた記憶がある。腰を使って廻しを切り、相手が再度取ろうと手を伸ばし腰を浮かしたところで左足を飛ばし鎌で刈り払うように仕留める。天下一品、伝家の宝刀というにふさわしい技である。

大相撲の四股名のつけ方も興味深い。もともとは醜名で、たくましいという意味だったが、四股を踏むことから四股名となった。

山、川、海、島など日本の自然に由来する四股名が多いように感じる。この際、少し調べてみた。自然。郷里。本名。恩人。無病息災。古典文学。著名人。架空。師匠。母校。タニマチなどが四股名の由来である。

栴檀は双葉より芳しからとった双葉山。筑波嶺の 峰より落つる男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる(百人一首)からとった男女川。荘子逍遥遊よりとった大鵬論語衛霊公よりとった大受上杉景勝からとった貴景勝。中国古典からの鳳、大麒麟千代の山北の富士千代の富士と受け継ぐ四股名双葉山-羽黒山双羽黒埼玉栄高校から豪栄道。タニマチの出版社からの開隆山。神社の人名からの貴源治貴公俊琴欧洲把瑠都などは出身地。大鵬の影響で白鵬旭天鵬大鵬部屋以外でも「鵬」の付く四股名が増える。日本のシンボルである富士山にあやかって「富士」の字を付ける力士も多い。照ノ富士は戦後6人目の「富士」がつく横綱である。宇田川、明歩谷、輪島、北尾、長谷川、保志、蜂谷、高安、石浦、などは本名。部屋で引き継がれている名もある。栃。若。玉。旭。千代。佐田。浪。風。桜。里。豊。武蔵。、、、四股名のつけかたは実に興味深いが、これくらいにしておこう。

琴ケ濱の相撲人生ををながめて思うことは、一芸、得意技があることの大事さだ。内掛けで大関をつかみ、内掛けで長く記憶に残った力士である。左足の欠点を唯一無二の個性という利点に変えた点も見習いたい点だ。また、猛稽古、荒稽古も、恵まれない体格を補うためのものだった。欠点を長所に変えることもできるのである。

 

 

 

 

 

 

 

森鴎外の「あきらめの哲学」

吉野俊彦『鴎外語録』(大和出版)の2回目。

「あきらめの哲学ーー40代の男の生き方」から。

 

鴎外が書いた本文は名文である。その真意は吉野が訳した意訳で了解できるのだが、抜き書きは鴎外の文章にすることにした。令和を生きている私には明治の鴎外のような学識はないし、漢字も拾えないが、鴎外自身が述べる心情を理解するのには原文の方がしっくりくる気がする。妹、母、友人に出した書簡や、友人のために書いた序文などにも聞くべき言葉がある。

  • 若しそのひと余力あり、その公余の業士人の所為恥じざるものあるとき、尚そを悪しざまに言ふものあらば、おのれは言ふものの本意故らに余力あるものを中傷するにありとなさん。(「心頭語」)
  • 凡そ人生のき欲、文芸詞芸より淡なるはなし。さればこそ古の武夫の国風を好めるもの、我には許せと曰ひ、人亦これに許して塁となさざりしなれ。、、その単に文章ありといふ以て罪を獲るものは、今の世に始まる。(「心頭語」)
  • 予は実に副はざる名誉を博して幸福とするものではない。(「鴎外漁史とは誰ぞ」)
  • いかなる境界にありても平気にて、出来る丈の事は決して廃せず、一日は一日丈進み行くやう心掛くるときは、心も穏になり申者に候。小生なども其積にて、日々勉学いたし候。(喜美子は妹。「小金井喜美子宛書簡」)
  • 小生なども我は有力の人物なり。然るにてきせられ居るを苦にせず屈せぬは、忠義なる菅公が君を怨まぬと同じく、名誉なりと思はば思はるべく候。(峰子は母。「森峰子宛鴎外書簡」)
  • 人の歌の生涯も、進むときがある。低回してゐるときがある。退くときがある。然其人が凡庸でない限は、低回しても退いても、丁度鵞鳥が翼をおさめて、更に高く遠く蜚ぶ支度をするやうなもので、又大いに進むのである。(「與謝野寛著相聞への序」)
  • 私の心持を何といふ詞で言ひあらわしたら好いかと云うと、Resignationだと云って宜しいやうです。(「あきらめの哲学」と吉野は訳した。「予が立場」)

resignationを辞書で引くと、放棄、服従、甘受、覚悟、諦め、観念という訳がでてくる。運命を甘受し、覚悟を決めて、諦めて生きていこう、という心持だったと理解しよう。「諦め」を吉野俊彦は「あきらめ」とひらがなにしている。漢字で表すよりも明るい感じがある。この点はもっと深掘りしてみたい。

次は鴎外の50代の言葉を拾うつもり。

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朝:ヨガ1時間。

午後:iphone13proを購入。

夜:ZOOMでの深呼吸学部の時間。

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「名言との対話」。10月9日。高英男「雪の降る町を 雪の降る町を、、」

高 英男(こう ひでお、本名:吉田 英男、1918年10月9日 - 2009年5月4日)は、樺太(現・サハリン)出身の日本の歌手、俳優。

芸名の高は、王子製紙創立者の一人だった実家の姓だ。樺太で11歳まで育つ。東京では、武蔵野音楽学校を経て日大へ転学し、タンゴのバンドを組む。

戦後、NHKオーディションに合格。24年初リサイタル。26年パリのソルボンヌ大学に留学し、27年帰国。28年画家・中原淳一が訳詞した「枯葉」でレコードデビュー。日本初の男性シャンソン歌手といわれ、叙情歌「雪の降る町を」など大ヒットした。

画家でファッションデザイナーの大御所であった中原淳一の妻との縁で中原と知り合う。中原は「メイクを教える時、そのグループの中で、ほっそりと面長の青年に前に出てもらった。痩せた精気のないこの青年の顔が、(略)おとぎの国の王子に変身する」と出会いを語っている。

「それいゆ」や「ひまわり」という少女雑誌で活躍する中原は高英男の顔をキャンバスとして自由に化粧を施したのだ。中原の絵は2013年の昭和館での展覧会や、別冊太陽の中原の特集でよく知っているが、高英男の不思議な印象の源を初めて知った。中原淳一に目をかけられ、「シャンソン歌手第一号」となる。男性宝塚を意識した舞台化粧も中原の提案だった。

留学や仕事でパリとは縁が深く、日本とフランスで活躍した。日本のシャンソン音楽普及の第一人者である。フランスでも活躍。独自のムードを醸し出す歌手・俳優として知られた。 1953年から1961年までで、紅白歌合戦には7回出場している。

1952年のレコードの「枯葉」、「ロマンス」、1954年の「雪の降る町を」を聞いてみた。高音の澄んだ声で、語るように歌う。「枯葉」の訳詩は中原淳一だった。

生涯に約4000回のワンマンショーを行い、2007年までパリ祭に出演、2008年の末までステージに立つなど、最晩年まで活動を続けている。高英男は随分と昔の歌手だと思っていたが、生きていれば102歳になる。最近まで歌っていたのだ。病気が多かったのだが、90歳で亡くなるまで歌い続けた、永六輔は「歌が命を支えている」という至言を残している。

「ゆうきの ふる まちをー、ゆうきの ふる まちを、、」という高英男の歌声は私の耳にまだ残っている。歌の命は長い。歌を歌った人の命もまた長い。

 

 

 

本:吉野俊彦『鴎外語録』から1。ラジオ:加藤秀俊『九十歳のラブレター』、俵万智『未来のサイズ』。人:弟と。

吉野俊彦『鴎外語録』(大和出版)1「青春の激情と挫折ー二十代・三十代の男の生き方」から。鴎外の全著作から人間の生きがいに関連したものを中心に編んだ本。

  • 始終何か更にしたい事、する筈の事があるように思ってゐる。併しそのしたい事、する筈の事はなんだかわからない。或時は何物かが幻影の如くに浮んでも、捕捉することの出来ないういちに消えてしまふ。(『カズイスチカ』
  • 舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる。此役が即ち生だとは考えられない。(『妄想』)
  • 漢学者のいふ酔生夢死というやうな生涯をおくってしまふのが残念である。(『妄想』)
  • 現在は過去と未来との間に劃した一線である。此線の上に生活がなくては、生活はどこにもあにのである。(『青年』)
  • そのうちに夏目金之助君が小説を書きだした。金井君は非常な興味を以て讀んだ。そして技ヨウを感じた。(『ヰタセクスアリス』)
  • 世間の人は性欲の虎を放し飼いにして、どうかすると、其背に騎って、滅亡の谷に墜ちる。自分は性欲の虎を馴らして抑へてゐる。(中略)只馴らしてある丈で、虎の怖るべき威は衰へてはゐないのである。(『ヰタセクスアリス』)
  • 余は我志を貫き我道を行はんと欲す。吾舌は尚在り。未だ嘗て爛れざるなり。我筆は猶ほ在り。未だ嘗て禿せざるなり。(『敢て天下の医師に告ぐ』)
  • 然れども軍職の身に在るを以て、稿を属するは、大抵夜間、若くは大祭日日曜日にして家に在り客に接せざる際に於てす。(中略)世或は余其職を曠しくして、縦ままに述作に耽ると謂ふ。冤も亦甚しきかな。(『即興詩人例言』

吉野は「本書に引続き第二、第三の「鴎外語録」の執筆を続けてゆく積りであり、それが私の老年の生きがいでもある」と市川市東菅野の二号書庫で書いた「まえがき」に記している。

木下杢太郎は鷗外の文業を「テーベス百門の大都」と形容した。ルクソール神殿や死者の谷があるエジプトの古都テーベのこと。

吉野の現代語の翻訳ではなく、できるだけ原文を採用してみた。鴎外の吐息が聴こえる気がした。今日は20代・30代の読者に焦点を絞った言葉だが、まだまだ続編がある。

NHKラジオアーカイブスを2本。

加藤秀俊。90歳。妻との日々をつづった『九十歳のラブレター』。65年間の二人三脚。昭和から平成に至る“世相史”にもなっている。

俵万智

7年ぶりの第7歌集『未来のサイズ』(角川書店)が超空賞と詩歌文学鑑賞を同時受賞。牧水短歌甲子園(宮崎県日向市)が縁で、宮崎県に住んでいる。

  制服は未来のサイズ入学の子もどの子も未来着ている

  第二波の予感の中に暮らせどもサーフボードを持たぬ人類

  トランプの絵札のように集まって我ら画面に密を楽しむ

  自己責任、非正規雇用、生産性 寅さんだったら何をいうかな

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第二波の予感の中に暮らせどもサーフボードを持たぬ人類
第二波の予感の中に暮らせどもサーフボードを持たぬ人類

弟との飲み会。町田にて。

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「名言との対話」10月8日。村上輝久「いい音ってなんだろう」

村上輝久(1929年10月8日〜 )は、ピアノ調律師

1948年ヤマハ株式会社(当時日本楽器製造株式会社)入社以来、ピアノ調律一筋の生涯だ。1965年に来日した、ミケランジェリの奏でる音に魅せられ、1966年から1970年まで、ヨーロッパへ研究に出かけ、ミケランジェリをはじめ、リヒテル、シフラ等の専属調律師として、世界二六カ国をまわる。1967年ドイツの新聞紙上で「すべてのピアノを『ストラディバリウス』に変える東洋の魔術師ムラカミ」と報じられた。1980年ヤマハピアノテクニカルアカデミーを設立、初代所長に就任する。

ピアノがイタリアのフィレンツェで誕生してから300年、日本で作り始めてから100年経った。ピアノは幅広い音域と豊かな表現力があり、「楽器の王様」といわれる。ピアノ調律師の仕事は、調律、整調。整音の3つだ。音程・音階を合わせる「調律」、タッチを整える「整調」、音色・音量全体のバランスを整える「整音」の三つの作業がある。

約8000 ある部品に木材や羊毛、皮革など天然素材をふんだんに使った自然楽器であり、温度、湿度の変化、ゆるみなどが相俟ってなどで、音程やタッチが変化する。その微妙な狂いを正常な状態に戻し、演奏者にとって最高の状態になるように手直しをするのがピアノ調律師の仕事である。

演奏家とピアノと調律師は三位一体の間柄にある」ともいわれるほど、調律師の役割は大きい。日本には1 万人ほどのピアノ調律師がいる。少子化の影響などで、新しくピアノを購入する家が減っており、調律師の数も減少しているという。

「大事なのは、ピアニストと言葉を交わし、その端々から相手の心の中を想像し、彼らが求める音を冷静に具現化する能力です」。「人間を読む力」。「肝心なのは忍耐と好奇心」。「自分で何かを生み出す力は、泥まみれになってようやく獲得するものである」ということなのだ」

村上輝久『いい音ってなんだろう』(ショパン)を楽しく読んだ。

「いい音」を求め続け、巨匠の下で修行を重ね、本場ヨーロッパで一流調律師として認められた。その後、夢であったヤマハピアノテクニカルアカデミーを設立する。ここでは「全人教育」を理想としている。技術教育だけでなく、音楽芸術論や音楽美学、一般教養など音楽に関わる周辺知識の授業に力を入れている。

世界28カ国、国内は全県を踏破する出歩きの人生だった。マジシャンと呼ばれたり、「すべてのピアノをストラディバリウスに変える東洋の魔術師」と新聞で絶賛を受けたり、調律師冥利につきる人生だ。日記をつけていたので、記述は詳細にわたっている。

「好奇心と幸運と健康」が村上輝久のピアノ調律師の生涯を支えた。確かにこの本の中には「運」「幸運」という言葉が頻繁に出てくる。前向きの性格が幸運を呼び込んだのだろう。

この本は「いい音ってなんだろう」というテーマを生涯をかけて追い続けた人の軌跡だ。単純だが、本質的な問いへの答えを探し続けた職人人生である。励まされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

田原真人・玄道優子のZOOM対談「MIROを使った社会的コミュニケーションのこれから」。

読まねばならない本が増え続けています。

・吉野俊彦『鴎外語録』(大和出版)。

・古田隆彦『日本人はどこまで減るか』(幻冬舎新書

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ZOOM対談「MIROを使った社会的コミュニケーションのこれから」(田原真人・玄道優子)に参加しました。そろそろMIROの世界に入っていこうか。

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「名言との対話」10月7日。ピストン堀口「拳闘こそ我が命」

ピストン堀口(ピストンほりぐち、1914年(大正3年)10月7日 - 1950年(昭和25年)10月24日)は、日本のプロボクサー。本名の堀口恒男。

栃木県真岡市出身。。元日本フェザー級・東洋フェザー級および日本ミドル級チャンピオンにるなど、「拳聖」と呼ばれた。デビューから5引き分けを挟んで47連勝という驚異的な記録を残す。太平洋戦争の影響もあり世界王座に挑戦する機会には恵まれなかった。

栃木県真岡で生まれ真岡中学で学んでいる。2012年に亡き母と祖父・大野清吉(1886年生)が校長を務めていた旧制・大田原中学(現・大田原高校)と旧制・真岡中学校(現・真岡高校)を訪問したことある。子ども時代に祖母から祖父の教え子であったピストン堀口の名前を聞いた記憶がある。人物として優れていたと聞いた。

山崎光夫『ラッシュの王者』(文芸春秋)を読んだ。この著者には2013年に会っている。神保町で本を数冊買って三省堂のカフェに落ち着くと、隣の席の人から「あっ。久恒先生」と声がかかる。東洋経済新報社の中村さんだった。向かい側の人物を紹介していただく。新しい本「開花の人」(資生堂の創業者の伝記)の著者で本日見本を渡しているところだった。人物の伝記なども手がけている作家だった。人物記念館の旅のことを話すと「塙保己一」「北里柴三郎」「大隈重信」の記念館に行ったことがあるかと質問があり、いずれも訪ねているとお答えした。山崎さんの書いた北里の伝記など私も読んでいる。帰って調べてみると、「サイレント・サウスポー」と「ジェンナーの遺言」で二度直木賞候補にあがっている作家だった。伝記作家という面もある先達なのでいろいろと教えを乞いたいものだ。以上をブログに書いている。

48連勝・82KO勝の総理大臣の名前以上に有名だったピストン堀口の活躍は、この本でもあますところなく紹介されている。その強さの秘密を描いたところに共感した。生涯で180回近く戦うが、KO負けはないというタフネスだ。

休みなく打ち続ける左右の連打はピストンのようにみえたという。連打が始まると「わっしょい、わっしょい」の大合唱が起こる。防御をしないで攻めまくるスタイルだ。皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る。日本の伝統的な武術の考えを引いている。

堀口の連勝中には、相撲界では双葉山が69連勝という不滅の記録を更新中だった。スポーツ界はこの二人の連勝にわいていた。

死後40年以上経って、段ボール箱2杯分の「日記」類が発見された。1968年から1945年までの日記である。そして「戦ひのあと」と記された大学ノート、吉川英治宮本武蔵」から1年半かけて感激した部分の抜き書きノートが2冊。几帳面、綿密、筆まめ。文字のパンチを繰り出す。日記には「反省と精進」の精神が貫かれている。「どこの世界に行っても必ずひとかどの男になる」といわれたこともうなづける。

・一体自分はなんの為に生きて居るんだらう?、、昔の武道の達人のやうな人が好きだ。あの神秘的な精神がたまらなく好きだ。、、、き日本一は申すにおよばず、きっと世界チャンピオンにならなくては。

・自分の理想である武士道精神にもとづく拳闘家として、くゆることなき、一日、一日を送り得たか!?

・今年こそ出来得るかぎりの努力をして日記をつけたく思ふ。そして十年後に十年後、幸ひにして生き得られたら老後の楽しみの一つにしたい。

・結局戦ひは攻撃だ。勝つためには攻めて攻めて攻めかねば駄目だ。丁度、志那攻略皇軍の様に。

1937年1月27日。初めて負けるが、セコンドからの抗議で判定は覆る。勝利だったとすれば連勝記録は1939年までの62となる。

1938年には日記は2冊になる。それは出産・育児日記だった。克明な記述で育児書としても通用するほどの内容だった。

1939年1月、双葉山安芸ノ海に敗れ連勝は69でストップする。1月20日の日記には「肉体的不調」と推量している。実は双葉山満州、朝鮮、北支の巡業でアミーバ赤痢にかかり、33貫あった体重は27貫に減り、体力は回復していなかったのである。堀口の見立て通りだった。

「日記」とは何かをこの書で教えられた。将来を期待された将棋の山田道美九段は36歳で亡くなるまで日記を書いている。王貞治は連続試合出場の世界記録を持つルー・ゲーリッグを尊敬していた。枕元にノートを置き、思いついたことをメモする。それがスランプからの「立ち直りのヒントになるかもしれない」という考えだった。日本初の金メダリスト・織田幹夫は一日も欠かさず日記をつけ、50冊以上の量がある。

そしてピストン堀口は強かった時代ほど綿密に日記をつけている。試合が終わった当日の夜に自戒し、次へ向けての闘志を奮い立たせている。日記は自己浄化の行為だ。それは会津八一の「日々、新面目あるべし」のための行為なのだろう。

「日記をあれだけ綿密につけられるのは、それだけでただ者でないひとつの証拠です」と郡司信夫は語っている。何かを続ける継続力が事を成すエネルギーになる。継続力が人物を鍛えるのだ。逆にいうと、継続しているとひとかどの人物になる可能性があるということになる。私もそのことを信じていこう。

1950年、列車にはねられ36歳の若さで事故死する。堀口には残念ながら老後の懐古の楽しみはなかった。子や孫が引き継いだ茅ケ崎の道場にはピストン堀口の書「拳闘こそ我が命」の額がある。墓碑銘には「拳闘こそ我が命」が刻まれている。

 

 

図解1000本ノックを開始ーー「脳汗」「短距離競争」「個性」「魅力と魔力」「多様性」「共犯関係」「苦しく楽しい」「民主主義の技術」

図解塾3期の2回目。

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以下、塾生たちの反応。

  • 久恒先生、図解塾のみなさん、今回もありがとうございました。図解の1,000本ノックが始まり、2~3行の短い文章を短時間に図解にし、即発表&講評。今回は3本のお題がありましたが、いずれも十人十色の図解が発表され、図解に正解はないんだということや、その違いが作成者の職業や性格、体験などの違いからくるものなんだというのが明確に出るんだと実感できました。正に、先生がおっしゃった「図解は、あらゆるものを『自分から見たもの』として表すことが重要。」ということを、図解塾のみなさんが自然に実行されてました。これからの図解ノックで、自分には無い発想から出てくる図解をたくさん拝見できるのを楽しみにするとともに、私自身、自分の図解の進化をめざすことで、ワクワクした気持ちで取り組めそうです。よろしくお願いします。
  • 久恒先生、皆様 本日もお疲れさまでした。本日は「図解ノック」で脳汗かく時間を過ごしました、今迄の「日本文化」「選挙」といった課題を「長距離走」に例えると、前回/今回のような、シンプルな文章を読み込み規定時間内に図解して各自が説明し合うという、言わば「短距離走」的なお題により、的確な構図の閃きが重要で、これには変化とか関係性といった表現すべき対象に応じて図形や配置を使い分けるといった基本ルールが重要。これに加え、見せる相手に対して効果的に合意を取り付ける為の「アイコン」がキーとなってくる、という事が今回の学びであったなと思った次第です。「企業と顧客の関係性」の課題においては、両者の間に様々な矢印のバリエーションがあったり、説明の為配置されたワードを的確に選ぶ事により図解をより生かすことができる。個性に満ちた皆様の多様な表現を「良いとこ取り」する事でより良いものができるなという「発展性」を実感した次第です。このお題につきましては、文章にあった「お金」という言葉はあえて「対価」に置き換える事により、より広がりが出てくる。インフラに例えられるような基本的なサービスに対する明解な「コスト」に直結するケースもあれば、魅力的な商品に対し(難解に)生ずる「プレミア」が付加された「プライス」にすり替わるケースもあり、そういった場面の差を包含した言葉選びが、見せる相手の合意をより効果的に得る為の重要なエッセンスであり、こういう細部に至る気配りが自然にできる為にも、この道場でさらに経験を重ねていきたいと思います。次回もよろしくお願いいたします。
  • 本日もありがとうございました。遅れての参加で申し訳ありませんでした。今日の千本ノックの課題、最初あまりに単純で、自分のをさっさと書きながら、きっと皆同じだろうと予想していたところ、あまりのバラエティにただただ驚くばかりでした。図解は個性や考え方がはっきり表れるすごい力をもっていると改めて感心しました。
  • 久恒先生、皆さま、本日10/06の図解塾3期第1回も、有難うございました。今回から始まった、図解1000本ノック。短い比較的シンプルな文章を短い時間で図解する、「比較的シンプル」な図解のハズ、なのに、参加者9名の図解は似て非なる、なんだか共通のところもある、個性(とその背景としての経験や価値観)が立ち現れてくる、不思議。図解の魅力と魔力が詰まったライブの学びの時間でした。(動画鑑賞を否定しませんが)動画で後から観ているだけでは味わえない刺激がありますね。力丸さんがおっしゃっておられたように、みなさんの図解を観ていると、自分単独では生まれない気づき、気が付かない視点が立ち現れてきます。図解は、多様性と融和を「実装する」優しくて易しい(でも、奥はとんでもなく深い)ツールだなということを改めて実感します。今回も学びと、印象的な言葉が多かったですが、図解をすると「共犯」関係になる、という久恒先生の言葉もよかったです。「仲間」や「友達」ではなく「共犯」関係です。正解のない、というところも含めて、たまらない魅力。是非、みなさん、図解塾へ。尽きない学びの共犯関係へようこそ。
  • 本日もありがとうございました。1000本ノックが始まり、ワクワクしています。「考えることは楽しい。考えることは苦しい。」その通りだと思いました。行間や文章外の全体像をどう捉え、付加して図に表すかという視点をもっと磨いていきたいです。同じテーマで皆さんの様々な視点の図を拝見できることはほんとに刺激になります。次回もどうぞよろしくお願い致します。
  • 本日はありがとうございました!非常にお久しぶりになってしまいドキドキ。少々お腹も痛くなりましたが(笑)、あっという間と思うほど充実した時間でした!みなさまの個性が図に現れていて、その方の背景を思い描いたりして面白かったです。自分では思い付かない図を見せていただき思考の幅が広がりました。短い時間で描いていく、図解千本ノックいいですね(*^^*)また次回も楽しみにしております。みなさまありがとうございました!
  • 本日も先生、皆さまお疲れ様でございました。図解の千本ノックおもしろかったです。自分から見たことしか図解にはできませんでしたが、みなさんのさまざまな図解をみて、気づかなかった方向からの考え方や、箇所に気づけ、数行の文章には、いろいろな情報が見え隠れしていることの、再確認もできました。図解は個性がでる。それを表現できるのが図解。なるほどでした。また、次回も楽しみにしております。本日はありがとうございました。
  • 本日も楽しい講義、時間をありがとうございました。みなさま大変お疲れさまでした。図を作ることだけではなく、自分の描いた図を表現するということの大切さ、有効性をとみに感じた回でした。議論(個の主張)ではなく、民主主義(個々の主張と相互理解)は「図」から起こるということに納得感がありました。他者の描いた図から、新たなインスピレーションや気づき、また、自身に欠けている視点、そのヒントなどが得られるのも、図をただ描くだけでなく「表現しあう」ことから生まれることを毎回実感できています。まさしく「個性」の出会う瞬間、その場です。次回の講義も図解1000本ノックに期待しています。

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「名言との対話」10月6日。佐藤忠男「撮影所は学校だった」

佐藤 忠男(さとう ただお、1930年10月6日 - )は、日本の映画評論家、編集者。

新潟県生まれ。工場で働きながら『映画評論』の読書投稿欄に映画評を投稿。また、1954年に『思想の科学』に大衆映画論「任侠について」を投稿し、鶴見俊輔の絶賛をうける。1956年刊行の初の著書『日本の映画』でキネマ旬報賞を受賞。1957年に『映画評論』の編集部員になるよう誘われ、上京する。「映画評論」「思想の科学」の編集長をへてフリー。演劇、芸能、教育の分野でも評論活動をおこなっている。
日本映画学校校長(1996年~2011年)、日本映画大学映画学部教授、日本映画大学学長(2011年~2017年)などを歴任した。

1996年に紫綬褒章を受章。その他に、勲四等旭日小綬章芸術選奨文部大臣賞、韓国王冠文化勲章(韓国)、レジオンドヌール勲章シュヴァリエ芸術文化勲章シュヴァリエ(フランス)等を受賞。第7回川喜多賞を、妻の佐藤久子とともに受賞。2019年、文化功労者

佐藤忠男『独学でよかった』(中日映画社)を読んだ。副題は「読書と私の人生」だ。

「映画というものは森羅万象を写し出すものである」。「映画評論家はそれにコメントを加える」。「これは恐るべき仕事である」。「現代の聖職ともいえるのではないか」。

「映画は古今東西のことをなんでも描くし、その範囲は近年急速に拡大するいっぽうである」。「たとえ浅く薄くでも、それほど広い範囲の知識を求めつづけなければならない立場というのはありがたいものだ」。私にも映画鑑賞を趣味とする友人、知人がいる。今更ながら、高い教養を持つ彼らは世の中のことを映画で勉強していたことに気がついた。今からでも遅くない。もっと映画をみることにしよう。

佐藤は自身に学歴が乏しいせいか、映画監督たちの学歴を調べていて興味深い。溝口健二は小学校だけ。衣笠貞之助島津保次郎は小学校のと英語塾。成瀬巳喜男は工手学校。新藤兼人は小学校高等科卒。内田吐夢は中2で学校を追放。市川崑は中学3年中退。旧制中学卒は、村田実、伊藤大輔伊丹万作マキノ雅弘小津安二郎山中貞雄豊田四郎吉村公三郎、黒、田坂具隆旧制高校

昭和10年代からは大学出が珍しくなくなる。今井正(大学中退)、山本薩夫。戦後には人気が出て、今村昌平山田洋次大島渚など一流大学出の秀才が当たり前になっていく。

日本映画の最高峰は、溝口健二(小学校)、小津安二郎(旧制中学)、黒澤明(旧制中学)という3人が不動の巨匠である。佐藤は学歴無用論に立つわけではないが、撮影所は学校だったというのが結論だ。仕事そのものが学びであり、研究だった。私も企業も学校だと思う。仕事とは実にありがたいものなのだ。

今村昌平は2年制の横浜放送映画専門学院を起ち上げた。それが3年制の日本映画学校になり、2011年に4年制の日本映画大学になる。このプロジェクトの成功の鍵は、第一線の監督、技術者をそろえて、まるで撮影所のような学校をつくったことにあると後にこの学校を引き受けた佐藤は総括している。監督だけでなく、技術者、評論家まで含めた映画人には広い知識を持つ教養人、深い人間観察眼を持った人間の研究家という資質が必要である。

映画は作り手の人間性と教養が最も厳しく問われる。創立者今村昌平は「個々の人間観察をなし遂げる為にこの学校はある」と書いている。独自の哲学や体系化された世界観を持つ人格を誕生させることが目的であり、本物の映画作りを教えるこの学校からは映画に関わる人物・人材が続出している。

佐藤忠男は映画文化の発展のはじまりから、読書という武器と自ら鍛えた眼力で、映画文化の同伴者として走ってきた。これは幸運であった。映画という分野を息せき切って走り続けた独学の人・佐藤忠男という人格の成立過程と、そこで得た見識は興味深い。そしてこの独学者は研究者を続けながら、最後は学校での人作りに精を出している。独学の凄みを感じさせてくれる生き方だ。

 

 

 

 
 
 
 

真鍋淑郎。吉野彰。森信三。野村克也。渡部昇一。山本益博。都美術館の「ゴッホ」展。

今日の収穫。

  • 本日ノーベル物理学賞受賞が報道された真鍋淑郎(90歳)さん。「自分がノーベル賞をいただけると思っていなかった。びっくりしている」「今は日本や世界中で洪水や干ばつなどいろんなことが起こっている。そういうことに対してみんなが認識してくれたのがとてもうれしい」
  • 吉野彰さん(2019年ノーベル化学賞受賞)「私の履歴書」(10月4日)「考古学での発掘の手法と思考法:遺跡は少しずつ堀りすすめ出土品から論理的に全体像をつかむ。研究も同様で、よいデータだけでなく悪いデータもあえて取らないと、横に潜む宝物を見逃してしまう」。「歴史学:過去から現在までの大きな流れから未来を予測する思考法は、後のリチウムイオン電池の研究で糧になった」。
  • 致知」11月号から。森信三「一すじの道をあゆみて留まらず命の限りつらぬかむとす」。野村克也「若い頃の一時期、自分が好きな対象に溺れるほどに熱中するのは、絶対に必要なこと。その中でカンであれ、何であれ、一流の基礎が養われる」。渡部昇一「寝食を忘れるという言葉がある。大きな事をなしとげるにはそのくらいの覚悟がなくてはならないということだ」。山本益博「成功者は若い頃に寝る間も惜しんで一つのことに打ち込み、その総数が1万時間を超えている」

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東京都美術館の「ゴッホ」展。

ゴッホの生涯の作品を順番に観るという貴重なチャンスだった。37歳で亡くなるのだが、晩年の作品がやはりいい。

美術館という形で永遠のコレクションを残したヘレーネ・クレラー=ミュラーの生涯を知った。

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「名言との対話」10月5日。清水鳩子「 相手を動かすのは、数字、データ」

清水鳩子(1924年10月5日〜2020年11月14日)は、消費者運動家。

福井県生まれ。主婦連合会創設に参画し、戦後の消費者運動の一翼を担った。主婦連合会の事務局長、副会長、会長を務めた後に、主婦会館の館長として活躍する。

「清水鳩子さんに聞く 日本の消費者運動史」(日本女子大の細川幸一)という無料配布のPDFを見つけた。以下、そのインタビューを参考に、清水鳩子の軌跡を追う。

6歳の時、父親が病死。生計をたてなければならない。母親は保母学校に通い、保母の資格をとり、鳩子の叔母の奥むめお(1895‐1997)が運営していた婦人セツルメントで保母の仕事を始める。鳩子はセツルの施設で育った。

大東亜戦争を経験した清水は「二度と再び戦争をやってはいけない。家族が死ぬ。子どもを女性一人で育てる苦労」があるとし、保母をやめたあとの社会事業大学の学生時代には、奥むめお参議院議員選挙応援に全国を駆け回っている。その思いを主婦連(主婦連合会)の運動にぶつけていく。不良マッチ追放運動から始まった主婦連のシンボルは「しゃもじとエプロン」だ。それは「豊かな食料をよそう主婦の願い」「たたかいとる意の、めし取る心」を示しているとのことだ。

「明治時代の女性は発想が自由です。(女は選挙演説を聞きにも行けない時代でしたので)奥先生はお兄さんのマントと帽子をかぶって演説を聞きに行って、女だとわかってしまってお巡りさんに引っ張り出されたと言っていました」。奧先生もそうだし、うちの母もそうですが、明治の教育は考え方が自由です」。「お国のために何でも言うとおり一生懸命にやるのが「いい子」で、それが当たり前だと思ってずっと教育を受けてきているから、今でも明治の人がうらやましいです」。「明治時代に生まれたかった」といっていたとの証言もある。戦争へ向かう昭和時代は女性の地位と意識は後退していたというのである。このことは初めて知った。

「私は専門家ではない、消費者の声の代弁者なのだから」とみんなの意見を聞くことを大事にしていた清水は米価審議会の委員の時、アメリカに視察に行く機会があった。行きたいところはどこでもいいというので、消費者関連施設を見たい、米国の農家を見たい、ホテルではなくて農家に⺠泊したいと要望を出した。アメリカの農村女性の生活ぶりと、アメリカの農業実態を具体的に知りたいと強く要請したら、希望は100%叶えられた。この経験はアメリカという国を見直すことになった。

現在の四谷の主婦会館の土地は、平凡社下中弥三郎社長から安く買ったものだ。募金をしたところ、目標額600万円だったが、建設資金1億2千万円が集まった。建て替えのときは清水が会⻑のときであったのだが、企業の人が寄付をくれた。当時から応援してくれる人が多くいたのである。

このインタビューで重要なポイントは二つあった。

「組織の存続を考えるとき、年齢的に若返りさえすれば良いというものではありません。主婦連の会⻑たるもの、主婦連の生い立ちを十分に理解し、創設者の思いを引き継ぎつつ、新たな時代に備えて理論武装しなくてはならない。ただ○○反対と主張したってだめ。また政治(政党)との付き合い方も熟知していなければいけない。ここの政党の機関誌に主婦連の写真や意見が掲載されたら、組織内外・社会へどのような影響があるのかということまで考えないと」。組織の大小にかかわらず、歴史感覚と地理感覚というトップが持つべき心得を説いている。

「私たちは、いま、政治に何を望むか。議論するべきなのです。原点に戻る。「台所の声を政治に」 口先で論理的に批判することは簡単ですが、データをもとに相手(行政や政治家)を説得することが大切。 相手を動かすのは「数字」「データ」。最近の消費者運動に欠けているところです。自分たちの足でデータを集める、これが大事。「下手な評論家」になってはいけない。「大勢の消費者が言っている」これだけではだめ。 貧しい人が苦しんでいるなら、その貧しい人のデータをもってかなくてはだめ」。感情的、総花的、評論家的な批判ではなく、女性が苦手な数字、データを駆使せよという助言である。これはいつの時代にも通用する科学的な考え方だ。

歴史感覚、地理認識、科学的精神を強調した上で、「理屈よりもハート、スマートさよりも熱意、その視点が現代の消費者運動にこそ必要」というメッセ―ジを後輩たちに残した清水鳩子は、コロナ禍の最中である2020年11月14日に96歳で死去した。