企業ミュージアム探訪ー「容器文化ミュージアム」。昼は横浜でJAL時代の仲間との同窓会。

「容器文化ミュージアム」という不思議なミュージアムは大崎フォレストビルの1階にある。

「容器包装」とは何か。「中身をまもる」(微生物、酸素、光から)。「使いやすく片づけやすい」「伝える」(色やデザインを用いて)。

壁面の「人と容器の物語」は容器の歴史から現在までの歴史、そして未来の容器なども展示されている。

「容器」の開発に貢献した人物として高崎達之助の名前があった。東洋製缶の創業者だ。このフォレストビルには、「製缶」関係の企業が多く入っていることに納得。

以下に見るように高崎は日本経済界の重鎮で、中国とのLT貿易に名前を残す大物だ。その出発は缶詰事業を製缶と缶詰の二つに分けたことで、事業を飛躍的に拡大した人である。高崎がつくった東洋製缶が主体となって、この「製缶文化ミュージアム」が生まれたのだろう。

「名言との対話」高崎達之助「競争者が多くいることはいいことだ。自分がどんなに勉強しているか本当に批評してくれるのは、競争者以外にはない。」

高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年2月7日 - 1964年2月24日)は、日本政治家実業家満州重工業開発株式会社総裁電源開発初代総裁、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任した。

1955年のアジア・アフリカ会議バンドン会議)には鳩山首相の代理で日本政府代表として出席し、ネルーナセル周恩来などと親交を深めた。1956年には日比賠償協定の首席全権として日比国交正常化の実現にあたった。1958年には第2次岸内閣通商産業大臣に就任し、全ての会社の重役を辞任。同年、日ソ漁業交渉の政府代表となり、北方領土付近の漁の安全操業のために尽力した。1962年中華人民共和国を訪問。廖承志との間で日中総合貿易(LT貿易)に関する覚え書きに調印した。死去に際して、親交の深かった周恩来は「このような人物は二度と現れまい」と哀悼の言葉を述べた。経済人として大成した高崎は、政治の世界でも戦後のアジアを中心とした外交でも重要な役割を果たしている。

「事業の目的は第一に人類の将来を幸福ならしめるものでなければならぬ。第二に事業というものは営利を目的とすべきではない。自分が働いて奉仕の精神を発揮するということが、モダン・マーチャント・スピリットだ」

通常の会話では競争相手のことをライバルというが、本来の意味は同等もしくはそれ以上の実力を持つ競争相手の事だ。日本語では好敵手という意味合いである。実力が明らかに上の人はさらに上の人物をライバル視する。この言葉は少し下の人が少し上の人を意識する言葉のようだ。さて、日中のLT貿易で名前が残っている高崎達之助の冒頭の言葉は、競争者を歓迎する言葉だ。確かに自分の実力を本当に知ってくれる同じ分野でしのぎを削る競争者である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

横浜でJAL時代の仲間との飲み会。環、浅山。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月6日。菊池寛「私は頼まれて物を言ふことに飽いた」

菊池 寛(きくち かん、1888年明治21年)12月26日 - 1948年昭和23年)3月6日)は、小説家劇作家ジャーナリスト

香川県高松市出身。この人は学歴的にはずいぶんと回り道をした人だった。東京高等師範明治大学早稲田大学、一高などを中退。28歳でようやく京都帝国大学を卒業。
28歳「父帰る」、32歳「真珠夫人」で流行作家になった。35歳、文藝春秋社設立。47歳芥川賞と直木賞創設。51歳菊池寛賞創設。55歳大映社長、満州文藝春秋社長。59歳公職追放、死去。

芥川「菊池と一っしょにいると何時も兄貴と一しょにいるような心持がする」。芥川龍之介の河童忌に詠んだ俳句が目についた。「河童忌や 集まる人も やや老いぬ」。

その菊池寛自身の遺書には「私はさせる才分無くして文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思います」とある。

2013年に香川県高松市の記念館を訪問した。芥川賞直木賞の全受賞者の名前と写真が並んでいた。日本の文学界の巨匠だらけで実に壮観だ。この賞が与えた影響力を改めて感じてしまった。

菊池寛の言葉。「日本精神というのは外来のあらゆる文化の思想を包容して、しかも本来の真面目を失わないところに存する」「日常生活が小説を書くための修業なのだ」

菊池寛賞は、日本文化の向上に貢献した人・団体に与えられる賞で、宮崎駿イチロー曽野綾子桂三枝新藤兼人高野悦子安藤忠雄いわさきちひろ、近藤誠などの名前がみえた。

井上ひさしは「菊池寛という人はどうやら、生活の場ではグータラでものぐさ、勉強や仕事になると別人のごとく勤勉というタイプだった」と喝破している。

2022年3月に松本清張菊池寛の文学」(1987年10月31日。江藤淳と同じイベントでの講演)をオーディブルで聞いた。ーー菊池寛の文学は「貧乏」と「醜男」であることが源である。逆境と貧乏と学校の相次ぐ中退。書斎派の漱石を嫌悪。人生派のリアリズムに大きな価値。本物の感動を与える作品。松本清張「たった一本の代表作、人口に膾炙した作品があるかが作家の価値を決める」。「坊っちゃん」の漱石と鴎外、「金色夜叉」の尾崎紅葉、、。

文芸春秋創刊の辞では「私は頼まれて物を言ふことに飽いた。自分で考えていることを、読者や編集者に気兼ねなしに、自由な心持で言って見たい。」そして、「文芸春秋は、左傾でも右傾でもない、もっと自由な知識階級的な立場でいつまでもつづけて行くつもりである」とも述べている。文春はその遺志を長く守っている。

文藝春秋 創刊100周年記念の新年特別号』を2021年末に手にした。『文芸春秋』は大正12年1月30日に第3種郵便物認可を受けている。その1923年から100年近く刊行が続いている菊池寛が発行した総合雑誌だ。「創刊100周年記念特別号」は2023年2月号まで14冊続く、その第1号だそうだ。記念特別号が1年以上続くという大がかりなこの企画は、この100年を総ざらいするものになるだろう。毎号、楽しみにしたい。

「文春」を買うと、いつも読む項がある。各界で成功したいろいろな学校の同級生たちが登場する「同級生交歓」。トップが阿川弘之立花隆藤原正彦と続いている「巻頭随筆」。経済界の人事情報を明かす「丸の内コンフィデンシャル」。官僚社会の人事を説明する「霞が関コンフィデンシャル」。最近亡くなった人物を悼む「蓋棺録」。「巻頭随筆」のトリは、いつもローマに住む塩野七生だ。

1年後の2023年1月号。「101人の輝ける日本人」。昭和天皇から池田理代子まで。物故者が中心だが、現役も選ばれている。私の「名言との対話」では物故者はほとんど取り上げている。未だなのは数人だ。当然のことながら、存命中の人はまだである。人選の基準が不透明な気がする。以下、読むべきところ。保阪正康「平成の天皇皇后 両陛下大いに語る」。林真理子「私は日大をこう変える」。内館牧子「集まれ! 老害の人」。鹿島茂菊池寛アンド・カンパニー」13。「続100年後まで読み継ぎたい100冊」

出版には、書き手と読者とをつなぐ編集者という職が存在している。誰の役割が面白いかと考えると、特に雑誌の場合は、執筆者よりも編集者の方が断然面白い。私にも経験があるが、一つの新しい世界を創造する愉しみである。長く続いている文芸春秋社と、才能を発掘する芥川賞直木賞ををつくったジャーナリスト・菊池寛の功績は偉大である。

 

「遅咲き偉人伝」はセザンヌ「絵を描きながら死にたい」。昼は横浜中華街で今年最初の兄弟会。

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」。前回はゴッホ、今回はセザンヌ

https://youtu.be/ROxRNQMucvQch?v=ROxRNQMucvQ

今日の昼は横浜中華街で「兄弟会」。順海閣。4時間。

ものすごい人出だった。コロナの鎮静、春休みということもあるのだろう。ほかの人のFBでも、どこも人出が多かったようだ。

母の3回忌の日程調整:5月28日。中津、福岡。最近亡くなった東原さんの話題。、、、、。妹「楽しかったねーー。兄弟会が一番楽しいーー」。弟「だね、言いたいこと言えて、楽しかった。お母さんがいるとまたいじってもっと楽しかっただろう」(以上、LINEから)。次回は中津で。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月5日。歌川国芳「「西洋画は真の画なり。世は常にこれに倣わんと欲すれども得ず嘆息の至りなり

歌川 国芳(うたがわ くによし、寛政9年11月15日1798年1月1日) - 文久元年3月5日1861年4月14日))は、江戸時代末期の浮世絵師

歌川国芳は、北斎、広重と同じ江戸後期を生きた浮世絵師。広重とは同年生まれ。日本橋染物屋に生まれ、10代で歌川豊国の弟子となったが、30代で人気絵師になるという遅咲きだった。

2010年に府中美術館で開催された「歌川国芳--奇と笑いの木版画」展。では、以下の印象を書いている。歌川国芳(1797-1861年)は、北斎、広重と同じ江戸後期を生きた浮世絵師。この企画展はある人物が収集した二千数百点の絵から選んだというがどういう人物か興味が湧く。日本橋染物屋に生まれ、10代で歌川豊国の弟子となり、30代で人気絵師になるという遅咲き。

2011年に浮世絵専門の太田美術館で「破天荒の浮世絵師 歌川国芳」展を観たことがある。国芳は63歳で亡くなるが、年譜を見ると48-52歳の間が最も仕事が活発だ。

2017年に府中美術館で「歌川国芳 21世紀の絵画力」展。最初の企画展から7年経ってこちらの構えも違っているせいか、国芳の現代的なスタイルに感銘を受けた。歌川国芳は、豊国門下で、兄弟子は国貞(三代豊国)。41歳の頃、河鍋暁斎が7歳で入門している。国芳の画風を暁斎が展開したのだ。「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年も弟子であり、その画系は芳年年方清方深水という風に昭和期にまで続いている。

老中水野忠邦による天保の改革では、質素倹約、風紀粛清の号令の元、浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受けるが、国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。国芳を要注意人物と徹底的に幕府からマークされている。

武者絵の国芳」と言われたが、武者絵以外にも役者絵、美人画、名所絵など様々な作品を世に残している。西洋画に注目してその写実技法を取り入れ、リアリティの強い作品を生んだ。「相馬の古内裏」という作品に描かれている巨大なガイコツは「西洋の解剖学の書物を研究した成果」と言われている。ユーモアに富み、気骨のある、そして進取の気象に富んだ痛快な人物像が浮かんでくる。

以上は、2017年の記述である。以下、2017年の府中市美術館「歌川国芳 21世紀の絵画力」展の詳細を書く。

混んでいたが、この美術館はじっくりと観賞できるように、入場制限をしながら人を順次入れていく。あせらずにじっくりと観ることができた。「これぞ国芳!」決定版とあるだけあって、量と質とも充実していた。

2010年に府中美術館で開催された「歌川国芳--奇と笑いの木版画」展も見ている。10代で歌川豊国の弟子となり、30代で人気絵師になるという遅咲きの人という薄い印象しかなかったが、7年経ってこちらの構えも違っているせいか、国芳の現代的なスタイルに感銘を受けた。 国芳が人気だそうだ。何が現代人に響くのか。「かわいいもの」に人気がでる今に合っている。特に「猫」は猫ブームの現代人の心とつながる。

歌川国芳は、豊国門下で、兄弟子は国貞(三代豊国)。41歳の頃、河鍋暁斎が7歳で入門している。国芳の画風を暁斎が展開したのだ。

私は美術館などの企画展では必ず厚い「公式図録」を買うことにしている。その図録もずいぶんとたまってきた。今回の「国芳」展の図録は、今まで手にした中で、もっとも力が入ったものだった。通常は、最初と最後に若干の論考があり、後は絵画作品を並べて終わりというものが多いが、今回は全く違う。説明文が実に多いのだ。企画展を企画した人たちの意気込みを強烈に感じさせる。おざなりの企画展ではなかった。美術王国・日本でもこのようなスタイルが浸透してくれば、さらに日本人の芸術鑑賞力はアップするだろう。

「相馬の古内裏」

f:id:k-hisatune:20170511065451j:image

「近江の国の勇婦お兼」

f:id:k-hisatune:20170511065456j:image

西洋の本「イソップ物語」の挿絵をもとに描いた銅版画。

 「みかけはこはゐがとんだいいひとだ」

f:id:k-hisatune:20170511065536j:image

 男たちの裸身が重なり合って人間の顔となる。だまし絵。

歌川国芳歌川広重は同年生まれ。この年、蔦屋重三郎が48歳で没。15歳、歌川豊国に入門。31歳、水滸伝の武者絵シリーズでデビュー。35歳、洋風表現を取り入れた風景版画を多数発表。40歳、滝沢馬琴の70歳の賀に出席。41歳、河鍋暁斎が7歳で入門。46歳、艶本の取り締まりで罰金。47歳、天保の改革を批判したと評判・回収。48歳、北斎に面会。54歳、風刺画が発禁処分。月岡芳年が入門。57歳、「評判記に「豊国にかほ(似顔)、国芳むしゃ(武者)、広重めいしょ(名所)」と掲載。59歳、中風。60歳、最初の妻没。65歳、没。

30代でのデビューは、当時としては遅咲きだ。この国芳の生きた65年間の絵描きたち等の人生と作品がからまってくる。国芳の20代では、山東京伝56歳で没。杉田玄白85歳で没。司馬江漢72歳で没。初代豊国57歳で没。30代では、大槻玄沢71歳で没。酒井抱一68歳で没。40代では、谷文晁78歳で没。柳亭種彦60歳で没。間宮林蔵65歳(?)で没。50代では、渓斎英泉58歳で没。葛飾北斎90歳で没。高野長英47歳で自殺。60代では、歌川広重62歳で没。まるでドラマティックな絵巻物のようだ。

以下、国芳の人と作品をとりあげる。

まず「人物」。江戸っ子の気性。極端な巻き舌。職人気質。逸話が多い。無鉄砲。尻軽。猫好き。気分屋。反骨。ユーモア。人間味のある花形絵師・浮世絵画工。

「作品」。「水滸伝」でデビュー。武者絵というジャンルをメジャーにした。西洋語法の写実主義に基づく有名人の肖像の錦絵。劇画の祖。今日の漫画・戯画の軽妙さ。リアル。自由闊達。遊び。おちゃらけ,戯れごと。笑いと共感。東西芸術の不完全な融合。

 北斎没後の1850年の浮世絵師ランキングのトップは国貞「出藍」(初代豊国を超えた)、広重「真景」(風景画)、国芳「狂筆」(おかしな絵)とある。彼らは日本の近代の浮世絵を代表する画家である。

 

 

 

 

企業ミュージアム訪問:「味の素食の文化センター」ーー池田菊苗・鈴木三郎助

「味の素食の文化センター」は、味の素株式会社の研修センターの中にある。高輪プリンスの隣である。「食は文化なり」を旗印に1989年創立された。

  • 「食の文化ライブラリー」:図書4万5千冊。雑誌50タイトル。貴重書(明治ー昭和30年代)2800冊。映像資料360作品。
  • 「食文化展示室」では「常設展示」で、江戸から明治にかけての日本の食生活を知ることができる。

  現在の味の素は1兆円を超す企業で営業利益も1000億円を超える優良企業だ。「味の素グループ」ASVレポート2022統合報告書を入手。

  • 注目すべき目がトレンド「世界で65歳以上の人口15億人」「食糧生産の増産の必要+50%(2012年対比2050年まで)「21世紀末までの平均気温+4.8度C」。
  • ウェルビーイングは「心身が健康で、充実・幸せを実感できる状態」と定義。
  • 36の国・地域で事業を展開。生産工場は24の国・地域で120(日本43・海外77)

 映像で創業時の二人の人物の「味の素」の開発物語をみた。

 港区ミュージアムネットワークマップを入手。これは便利。まだ未訪問のミュージアムにいくことにしよう。

北里柴三郎記念館(白金高輪)。福沢諭吉記念慶應義塾史展示館(三田)。赤十字情報プラザ(御成門)。泉岳寺赤穂義士記念館(泉岳寺)。TOTOギャラリー・間(乃木坂)。虎屋赤坂ギャラリー(赤坂見附)。明治学院歴史資料館(白金高輪)。

ヤマトグループ歴史館コロネコヤマトミュージアム(品川)。ニコンミュージアム(品川)ヨックモックミュージアム(表参道)。紅ミュージアム(表参道)。

ーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月4日。成瀬仁蔵「聴くことを多くし、語ることを少なくし、行うことをに力を注ぐべし」

 成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、1858年8月2日(安政5年6月23日) - 1919年(大正8年)3月4日)は、明治から大正のキリスト教牧師(プロテスタント)であり、日本近代における女子高等教育の開拓者の1人であり、日本女子大学日本女子大学校)の創設者として知られる。

 29歳新潟女学校校長、36歳梅花女学校校長。42歳日本女子大学校初代校長。成瀬は女子教育一筋の人生を全うしている。

『女子教育』という著作によって多くの賛同者を得る。そして影響力のある大物をこの事業に引き入れていく。伊藤博文西園寺公望大隈重信渋沢栄一大倉喜八郎嘉納治五郎伊沢修二、、、、、。津田梅子の女子英学塾、吉岡弥生の東京女子医学校、成瀬の日本女子大と同時期に女子の高等教育機関が設立されている。前二つは小規模であったが、日本女子大は、1901年に家政、国文、英文の3学部と付属高校という陣容で合計288名の大規模な学校として出発している。

「何か天下のことをしたい」「何か、国家的の事をしなくてはならぬ」

「吾が天職、教員にあらず、牧師にあらず、社会改良者なり、女子教導者なり、父母の相談相手也、創業者なり。、、」

「我目的は吾天職を終わるにあり。吾天職は婦人を高め徳に進ませ力と知識練達を予へアイデアルホームを造らせ人情を敦し、、、、理想的社会を造るにあり」

護国寺日本女子大成瀬記念館でみた「女子高等教育構想」という成瀬のつくった図が興味深い。家政学科・医学科・宗教学科とあるが、中核は人格教育であった。時に成瀬は42歳。60歳で逝去するまで、女子教育に専念した。「人として、婦人として、国民として教育する。「リベラル・アーツ重視」
後継者であり同志であった麻生正蔵の履歴朗読はこの人の全生涯の生き方をあますところなく語っている。「常に唯光明を見希望を見、、暗黒を見ず絶望を見ず前路を見て退路を見ず。、、、」

中嶌邦「成瀬仁蔵」(吉川弘文館人物叢書)を読了。

  • 「何か天下のことをしたい」「何か、国家的の事をしなくてはならぬ」
  • 「吾が天職、教員にあらず、牧師にあらず、社会改良者なり、女子教導者なり、父母の相談相手也、創業者なり。、、」
  • 「我目的は吾天職を終わるにあり。吾天職は婦人を高め徳に進ませ力と知識練達を予へアイデアルホームを造らせ人情を敦し、、、、理想的社会を造るにあり」

行うことは少なく、語ること多く、聴くことはしない。そういう人にはなりたくないものだ。大学の創設者・成瀬仁蔵のこの言葉を肝に命じたい。

成瀬仁蔵を支援した広岡浅子は1919年1月に逝去している。10歳ほど年下の成瀬仁蔵もその年の3月に60歳で卒している。近代の女子教育を切り拓いた二人の志は次世代に引き継がれていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うるう年」の2月29日は「名言との対話」の人選に苦労する。

「名言との対話」の難題の一つは、2月29日。

4年に1回の「うるう年」の日だ。対象者が4分に1になるので、人選に苦労する。

2月29日に亡くなった近代の人でさがすと、「山口喜一郎」という教育者がいた。まったく知らない人だが、とにかく調べて書くしかない。

f:id:k-hisatune:20230304065543j:image

ーーーーーーー

「名言との対話」2月29日。山口喜一郎「日本語だけで日本語を教えるという教授法」

日本語教育者。明治5年4月17日、石川県鳳至 (ふげし) 郡輪島村(現、輪島市)に生まれる。1887年(明治20)石川県尋常師範学校卒業後、同県や東京で国語教育ののち、外地での日本語教育に一貫して従事した。1897年からは台湾、1911年(明治44)からは朝鮮、1925年(大正14)からは旅順、奉天、1938年(昭和13)からは北京 (ペキン) (新民学院教授)、1944年からは大連と、日本語教育に携わり、とくに日本語だけによる直接法の指導理論と実践の確立に努めた。第二次世界大戦後は、話しことばの教育の開拓に力を注いだ。昭和27年2月29日死去。著書に『日本語教授法原論』(1943)、『話言葉とその教育』(1951)などがある。[古田東朔]。

以上は「日本百科全書」の記述である。「外地での日本語教育」と「台湾」という語を手がかりにこの人のことを考えてみよう。

私の知識の中では、伊沢修二という名前が浮かんだ。伊沢と山口は接点があるのではないかという手がかりが浮かぶ。

伊沢修二は明治時代の教育者であり、1894年の日清戦争で清から割譲を受けた台湾の総督府民生局学務部長だった。1895年に地元の子弟対象の学校をつくるなど、精神の日本化を推進した。「優勝劣敗の世界において、各国互に相戦う武器は教育より外にない」。台湾における教育は日本語によって行うとして、人材を募集した。その一人が山口喜一郎であったようだ。山口は伊沢より19歳年少。伊沢は1897年に貴族院議員となる。後は山口に託した。

台湾の日本化について、伊沢は「教育者が万斛の精神を費し、数千の骨を埋めて、始めて其実効を奏すべき」とし、土匪の脅威に立ち向かっていく。混和主義による弾力的な現実主義であった。命がけの仕事であった。台湾では日本語がいまなお盛んであるのも、伊沢修二の計画と実践の賜物だったのである。その実践にあたったのが山口だった。

山口はそれまでやっていた漢文による対話法に限界を感じ、グアン法(直接法)を試みた。日本語だけで日本語を教えるという教授法を編み出して成功する。今でも台湾では日本語を話す人がいるのは、こういった施策の賜物である。

松永典子(九大教授)の「日本占領下の東南アジアにおける日本語教育」によれば、日本の国力の進展と日本語教育は切り離すことはできない関係にあるとされ、マラヤや北ボルネオなどでの日本語教育を論じている。限定的ではあるが、多民族をつなぐ共通語であり、そのことが逆説的に民族意識を喚起したとも指摘している。

山口喜一郎は、台湾で4年過ごした後、朝鮮、満州の旅順、奉天、そして北京でも日本語教育に従事している。外地における日本語教育の貴重な人材だったのである。

梅棹忠夫は、外国人の日本語習得熱はいまでも高いが、問題は漢字であるという。漢字がネックとなって日本語が大きく広がらない。それが日本文明の発信力が弱い原因でもある。ローマ字にすれば、容易に話し言葉はできるようになるということで日本語のローマ字運動を推進していた。第二日本語をつくれ、そうすれば同音異義の多い日本語は訓読み中心のわかりやすい日本語になるという主張である。日本語の問題は、日本の浮沈にかかわる問題だということであった。

ーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月3日。下岡蓮杖「わしが今日あるのは前からの約束だ」

下岡 蓮杖(しもおか れんじょう、文政6年2月12日1823年3月24日) - 大正3年(1914年3月3日)は、日本写真師画家

下岡蓮杖は、勝海舟と同年に伊豆下田に生まれる。1837年、米艦が浦賀に入港し、幕府は下田に砲台を築く。このとき15才の蓮杖は足軽として採用され、下田砲台に勤務する。1838年、下田砲台の同心頭の紹介により江戸幕府御用奥絵師・狩野董川の門弟となり絵師の道に入る。蓮杖は島津藩下屋敷に参上した折、銀板写真を見て、写真は絵筆の及ばぬ妙技があることを知り、写真術の習得を志し師の門を去り、再び外国船と接する機会の多い浦賀平根山砲台の足軽となる。「写実というならば、いくら絵筆をもって苦心をしてもこれにはかなわない。何とかこの技法を学べないものか」と考える。
1846年、米艦二隻が浦賀久里浜に投錨。24歳の蓮杖は幕府の命により米艦を模写する。その後8年間外国船の入港のたびに艦体を図示し、資料を幕府に提出。
「父のいる浦賀へ外国船が必ずやって来る。ならば銀板鏡の術を学ぶことができるのでは」。1856年、アメリカ総領事としてタウンゼント・ハリスが下田に着任。玉泉寺を領事館とする。「もうこの実の中に芽が整っているではないか。こんな小さな蓮の実の中でも実った時からもう約束されているのだ、、、」」「わしが今日あるのは前からの約束だ。約束だ。わしは日本人として銀板鏡を作り出す約束があったんだ。、、、そうだ、銀板鏡の秘術を会得した暁には、号を蓮杖と改めよう」。
下田奉行所に勤務するようになった蓮杖は、ハリスの侍妾・お吉(唐人お吉)の手引きにより秘かにハリスの秘書兼通訳のヒュースケンに頼み、寝姿山の頂上付近で写真の原理を習う。その後、蓮杖は江戸に赴き、恩師・董川の家に寄寓する。

1859年、40歳の蓮杖は横浜に出て、米国人写真師ウンシンの写真器(暗函)、薬品一切を譲り受け、日本人最初の営業写真家となる。46歳のとき、横浜本町に写真館を新築、政府高官、力士、役者等が多数来館し、商売は盛況を極めた。また、蓮杖は製図師ピジンに石版術の伝授を乞い、徳川家康、富士山の図柄を印刷しtれ販売。濃淡を施したものとしては日本初の石版画である。

1869年、47歳の蓮杖は東京・横浜間の乗合馬車事業を開始するが、鉄道の開通によって廃業する。今も残る「馬車道」はその名残である。1872年、50歳の蓮杖はアメリカより優良種牛5頭を輸入し乳製品の販売も試みている。1874年、52歳の蓮杖はアメリカ人宣教師から洗礼を受け、熱心なキリスト教信者となる。1914年、浅草で92年の多彩な生涯を閉じる。

私は2010年に、下田湾を見下ろす寝姿山の頂上の平らなお花畑にある「蓮杖写真記念館」を訪問している。この写真記念館では、日本の写真機の歴史を見ることができる。「写実というならば、いくら絵筆をもって苦心をしてもこれにはかなわない。何とかこの技法を学べないものか」と思った蓮杖は、絵師を断念し、新しい分野である写真に取り組んでいく。後に「わしが今日あるのは前からの約束だ」と語った、日本最初の「写真師」、「日本商業写真の開祖」と呼ばれる下岡蓮杖は、幕末から開国期の激動期に、「写真術」をキーワードに数奇な、そして波乱の生涯を送った。

写真だけでなく、富士山の絵柄を石版画として販売した日本における「石版印刷業の祖」でもある。アメリカより優良種牛5頭を輸入し乳製品の販売など牛乳搾取業も試みている。東京・横浜間の乗合馬車営業の開祖でもある。今も残る「馬車道」はその名残である。

『写真伝来と下岡連城』(かなしん出版)という藤倉忠明という人の労作を読んだが、写真という分野にも情熱を賭けて人生を燃やした人物がいることがわかった。当時は、秋山真之、好古のような青年があらゆる分野で猛然と勉強した時期である。「自分が一日勉強を怠れば日本は一日遅れる」と真之は語っているが、この言葉は写真という新分野に挑んだ下岡連城にもあてはまる。そういう若い人たちの大きな山脈の中で、日本の文明開化が行われたということだろう。

下岡蓮杖は、多くの分野の挑戦者として一生を送った。若い頃から「この世の中には先生と呼ばれる多くの人がいる。、、自分の早く先生と呼ばれる人になりたい、、」と考えていた。先駆けることが先生への道であった。いつしか、自然にまわりの人たちが「先生」という尊称で呼ぶようになっただろう。

 

 

新宿「萬馬軒」「ディスクユニオン」。品川「味の素食の文化センター」。大崎「容器文化ミュージアム」。

新宿:橘川さんと昼食。「らんぶる」で打ち合わせ。萬馬軒でラーメン。

 

ディスクユニオン。『映画の名言 366日』(品川亮)と松村雄策『悲しい生活』(ロッキングオン)を購入。

 

企業ミュージアム訪問の再開。まず品川区から。

品川:味の素食の文化センター。味の素研修センターの中に設置されている。

創業時の二人の人物の「味の素」の開発物語をみた。現在の味の素は1兆円を超す企業で営業利益も1000億円を超える優良企業だ。

大崎:容器文化ミュージアム

大崎フォレストビルには、(株)日本総研とともに、「製缶」に縁のある企業が入居している。東洋製缶の創業者・高碕 達之助のことが説明されていた。この「容器」をテーマとするミュージアムは「缶」からヒントを得たものであることがわかった。創業の精神を大事にしていることがわかる。

高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年[1]2月7日[2] - 1964年2月24日[1])は、日本政治家実業家満洲重工業開発株式会社副総裁・第2代総裁電源開発初代総裁、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任。東洋製缶の創業者。

上は製缶期機。下は東洋製缶の看板。

 

ーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月2日。相馬黒光「波も風もないことだけで幸せとはいえないと思うんですよ。波も風もないのは、幸福でもなければ、不幸でもない。ただ何もなかっただけの話ですよ」

 相馬 黒光(そうま こっこう、1876年9月12日 - 1955年3月2日)は、夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家。

仙台生まれ。12歳でキリスト教の洗礼を受ける。裁縫学校、宮城女学校、横浜フェリス英和女学校と転校を繰り返し、明治女学校で学び、島崎藤村国木田独歩の影響を受けて文学に目覚める。黒光という珍しいペンネームは、溢れる才気を少し黒で隠しなさいという意味で女学校の恩師からもらったものだ。

卒業後、1897年に長野県のキリスト教徒の相馬愛蔵と結婚し安曇野に住むが、村風にあわず、夫とともに東京に出る。26歳と21歳だった。東京でパン屋「中村屋」を開業。1909年、新宿を本店とする。同郷の荻原守衛を中心に芸術家・文化人が集い、「中村屋サロン」と呼ばれる。1910年、荻原が中村屋の敷地内にアトリエを建築。柳宗悦も一時アトリエに住む。1911年、荻原のアトリエを中村屋に移築し、「碌山館」と命名した。

中村屋はゆっくり成長していった。愛蔵は世の中の仕事というものには、改善できる部分が必ずあるという考えで、一つずつ改良を重ねていく。私の好物でもあったクリームパンは中村屋の発明である。

中村屋サロンに集った人々のなかでも彫刻家の荻原守衛・碌山は二人にとって特別な人だった。特にアンビシャス・ガール黒光は弟のように接している。アメリカ、ヨーロッパで7年間の彫刻の修行をし、ロダンの弟子となった守衛は、亡くなるまでこの夫妻とともにあった。守衛の師匠はロダンであり、ロダンの師匠はミケランジェロである。

インド独立闘争の英雄、チャンドラ・ボース1897年1月23日 - 1945年8月18)を官憲からかくまったのも、この中村屋である。インド人の革命運動家は、日本の大アジア主義者を頼って日本にきた。遠山満、犬養毅らと交流した。日英同盟を結んでいた日本は国外追放命令を出すが、1915年12月1日から4か月、中村屋相馬愛蔵・黒光夫妻が「アトリエ」にかくまった。ボースは食事を運んでいた愛蔵・黒光の娘と結婚している。ボースは二人を「トウサン」「カアサン」と呼んだ。

 69歳時点で愛蔵は「中村屋の商売は人真似ではない。自己の独創をもって歩いてきている」と振り返っている。従業員の待遇や、働く環境を考えるこのとが、経営を安定させる道であり、商売を成功させる秘訣だ。経営の合理性の問題として語った。時代を先取りした珍しい経営者だった。

2014年に新しい新宿中村屋ビルが完成した。その真ん中の3階に新宿中村屋サロン美術館が開館した。2019年11月25日に「新宿中村屋サロン美術館」を訪問した。ここで購入した石川拓治『新宿井ベル・エポック:芸術と食を生んだ中村屋サロン』を読むと、この二人の軌跡がよくわかる。表紙は、荻原守衛の「女」だ。まさに、これは黒光そのものである。
019年12月4日に訪問した小川正子記念館ではハンセン病に尽くした女性の名が挙げてあった。吉岡弥生神谷美恵子らと並んで小川正子を支えた人々として相馬黒光の名があった。晩年の正子を勇気づけ、戦時中にバターや砂糖を贈っている。

 黒光に愛を感じていた夭折の彫刻家・荻原守衛の代表作のひとつに「女」がある。何かに捕らわれてるかのように、後ろで両手が結ばれ、そしてひざまずきながらも立ち上がろうとして、顏を天に向けている作品である。この「女」をみたとき、黒光は「これは私だ」と叫んだという。 

 「波も風もないことだけで幸せとはいえないと思うんですよ。波も風もないのは、幸福でもなければ、不幸でもない。ただ何もなかっただけの話ですよ」という黒光という女性の生涯は、束縛から逃れようとした波乱に富んだものだった。それは「才気」と「野心」にあふれる自らの性格がまき起こしたものであり、本人が望むものだったものだろう。

参考:石川拓治『新宿井ベル・エポック:芸術と食を生んだ中村屋サロン』

「幸福塾」は「ライフワーカー」の5回目ーー「全集」「偉人伝」「本物」「100年時代」「人新世(アントロポセン)」「勤めと務め」

f:id:k-hisatune:20230301220800j:imageクロッカス

「幸福塾。ラーフワーカーの5回目。

f:id:k-hisatune:20230228223232j:image

以下、塾生の学びから。

  • 久恒先生、みなさま、本日もおつかれさまです。本日幸福塾も盛りだくさんの内容であっという間の2時間でした。冒頭は「世界を知る力対談編」の話題から。「学び」をテーマに法政大名誉教授の田中優子氏と、元立教大教授の竹中千春氏と寺島先生との鼎談。田中氏はもともと作家志望だったが小説家石川淳の著作で「江戸文化」に衝撃を受けて以来、その道のオーソリティに。一方竹中氏は「非暴力」マハトマ・ガンジーのとの出会いがきっかけでそれ以来インド政治学オーソリティとなった経歴の持ち主。共通点は「全集」「偉人伝」を通じて出会った『ホンモノ』の存在。「学びの世界」における代表的な二人の研究者は、素直で貪欲な若き日にともに衝撃的な出会いを果たしていた。折しも2月28日にJAXAが発表した宇宙飛行士選抜試験結果の会見において、合格者である諏訪理さん、米田あゆさんも夫々幼き日に日本人宇宙飛行士との出会いを経ているとのこと。この『ホンモノとの出会い』という衝撃はそのヒトの生きる方向性を決定づけてしまう程のすごい力を持っているという事に改めて驚かされました。次に久恒先生のブログから、『二・二六事件』が話題に、果たしてこれは何だったのか…。当時日本のエリート集団であった陸軍将校の間では、士官学校出身者と陸軍大学出身者が夫々派閥を形成し互に対立関係にあったが、『尊王討奸』(そんのうとうかん=天皇を尊び外敵を撃退しようとする思想)を合言葉にしていた士官学校出身者らが当時の内閣閣僚自宅を襲撃し、高橋是清蔵相および斎藤実内相が夫々犠牲となった。当時の深刻な不景気に対し適切な対応をとらず汚職事件が横行する政府内閣に向けた青年将校によるクーデターであり、形は変われど現在暗躍する『闇バイト』なる暴力にこれに似た背景が無いか大変興味が湧きました。著名人の死亡記事からは、水田洋(市民運動家、享年103歳)、飯田亮(SECOM社長、享年89歳:運は使う程「付く」)、野見山譲二(画家、享年102歳:歳を忘れる)磯崎新(建築家、享年91歳)、豊田正一郎(トヨタ社長会長、享年97歳)、辻村寿三郎(人形師。享年89歳)…全員100歳前後、ほぼセンテナリアン。そして本日メインの『個人』『ライフワーカー』の紹介、①童門冬二、美濃部都知事のスピーチライター、組織の中の人間像。②浅川保、石橋湛山記念館開設、高校教師を務め後に湛山研究の道へ。③喬任和夫、小説家・サラリーマン兼業「良い上司に恵まれる確率2割!」納得!ダメなら自ら切り拓け!!。④須藤一郎、個人美術館、若い芸術家を援助。⑤山本冬彦、アートソムリエ、週末はギャラリー巡りクルマ・酒はやらない、「買うアート」年2回のボーナスで。⑥岡田泰三、「限定本」コレクター…当方「推し」は童門冬二先生。会社員が怒涛の仕事の合間に人知れず行う「癒しのルーティーン」(⇒一人になって歩き回る・喋りまくるなどの奇行)に『ヒト夫々のリフレッシュ』が有る事を以前著作で知り惹かれました。年度末、心身ともに疲労が蓄積気味ですが、子供らの卒業や先述の宇宙飛行士候補の誕生といった未来に向けた明るい話題に助けられ、またその中にきっかけとなる『ホンモノ』との出会いなる共通のストーリーを見出すことができ、ちょっと嬉しい学びとなりました。今回も有難うございました
  • 本日もどうもありがとうございました。「幸福塾」のおかげで、新聞記事やテレビ番組、Facebookなどで人生100年時代をはつらつと生きている方々、目立たなくてもライフワークに打ち込んでいる人、二足のわらじをはいたり遅咲きでも転身して活躍した方々の生き方について意識するようになりました。Evernoteに「人生100年時代」というタグをつけて記事などを保存しています。たまに見直して励まされます。今日の幸福塾の内容は、まさにそんな人たちでした。市民運動を続けて103歳まで生きた水田洋氏、102歳で個展を開き続ける画家の野見山暁治氏、90歳まで生きた日本に警備保障の一大業界をつくったセコムの飯田亮氏。91歳まで生きた建築家の磯崎新氏。97歳で亡くなったトヨタ自動車豊田章一郎氏、89歳まで生きた人形作家の辻村寿三郎氏。辻村氏については他の参加者の多くも印象に残ったとおっしゃってましたが、人形のモデルとなる人物を徹底的に調べるというその姿勢に心打たれました。 ライフワークについて取り上げられた人々からも、多くのことを学べました。美濃部都知事の秘書まで務めて退職後300冊の本を書き今も講演などをしている童門冬二氏からは組織の中の人間について。高校教師だった浅川保氏は偶然高校の100周年記念室での石橋湛山の著書と出会い、石橋湛山記念館にまで発展したこと。「会社は、意欲ある人にとってはふ卵器である」とした高任和夫氏。趣味が高じて美術館を建てた須藤一郎氏、アートソムリエの山本冬彦氏、限定本コレクターの岡田泰三など。深谷さんが紹介してくれた90歳の投資家のウォーレン・パフェットのことも、全く無縁の世界だっただけにいろいろと教えられました。次回も楽しみにしています。
  • 久恒先生、みなさま、今回もどうもありがとうございました。今回は、自分が保管していた古い文書データの中に見つけた『幸福の習慣』のことを少し紹介させていただきました。どこから引用したのか不明ですが、2011年10月16日発売の本の紹介文章をそのまま保管していました。幸福塾に参加して以来、活字で「幸福」を見つけるとちょっと立ち止まるようになりましたから、そのおかげで気づいた次第です。そこには、「世界150か国調査でわかった人生を価値あるものにする5つの要素」ということで、仕事の幸福(情熱を持って取り組む)、人間関係の幸福、経済的な幸福、身体的な幸福(心身共に健康で活き生活き)、地域社会の幸福(地域社会に貢献)の5つについて統計的に解説されているとあり、しかも、この5つが互いに関わり合うことで幸福(ウェル・ビーイング)を実施できるということです。10年以上前にこの本に興味を持ったことが自分でも驚きましたが、幸福塾でこれまで学んだことが載っているようなので、改めて読んでみたいと思いました。 これからも幸福塾に参加することで、ふだんの生活の中に自分の「幸福」を見つけながら、またご紹介いただいた人々をお手本にして「幸福」な時間を自ら作っていくことで楽しい人生にしたいと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、本日も幸福塾をありがとうございました。範囲を絞って、集中していくことがライフワーカーのコツなのではないかと思いました。これだと思えるものに出会えるのは、ご縁なのではないかと思った次第です。個人でも収集して美術館まで造ってしまう方がいるのは驚きでした。ボーナスで年二回の購入、積み重ねなのだと思った次第です。 自分はこれだと思えるものにまだ出会えていないので、幸福塾で知見を深めていくうちに何かに出会えるのではないかと、淡い期待を抱いています。50歳からの勉強法、なんだか気になったタイトルなので、早速発注しました。
  • 久恒先生、みなさま、本日の幸福塾ありがとうございました。今日は「ライフワーカー」ということで、会社員などの仕事を持ちながら、人生の後半にライフワークを持った「二刀流」の方々のご紹介でした。歴史小説家の童門冬二石橋湛山記念館の浅川保、経済企業小説の高任和夫、『世界一小さい美術館物語』の須藤一郎、週末ギャラリー巡りの山本冬彦、「限定本」コレクターの岡田泰三など、各氏のライフワークはそれぞれに魅力を感じました。特に惹かれたのは人物研究をテーマにした童門冬二氏。著書の一つに『50歳からの勉強法』があったので、人生後半ライフワーク作りのヒントがあるのではと思い、さっそく購入してみました(50歳はとうにすぎてしまいましたが)。また、組織と人間をテーマにした小説も、会社勤めを経て書かれたものには、「二刀流」ならではの共感溢れる場面がたくさん出てきそうで、読んでみたいと思いました。また、最近長寿を全うされた著名人、文化人の方々の紹介もありましたが、「人生100年時代」を改めて感じることができました。次回も楽しみにしています。ありがとうございました
  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。野見山暁治さんの102歳で個展をする。辻村寿三郎さんの、ありとあらゆるものを作りたくなる。という言葉。また、趣味を一つ極めて、コレクターとなり、美術館を開いてしまった、須藤一郎さんや山本冬彦さん、などのお話、楽しかったです。また紹介してくださった写真から、楽しそうなお顔ばかりで、充実されているのが感じられました。野見山暁治さんや、辻村寿三郎さん、の展覧会や、すどう美術館、神奈川県立近代美術館鎌倉別館へ、など、行ってみたいところが増えました。機会を作って訪れたいと思います。次回のお話も楽しみです。
f:id:k-hisatune:20230301220757j:image
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
「名言との対話」3月1日。中村是公「お前もよっぽど馬鹿だなあ」
中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、なかむら これきみ[1]1867年12月20日慶応3年11月25日) - 1927年昭和2年)3月1日)は、日本の官僚実業家政治家南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁鉄道院総裁、東京市長貴族院議員などを歴任した。
 
広島市出身。一高、東京帝大法科卒。一高時代に夏目漱石と親しくなった。台湾総督府に勤務し、民生長官であった後藤新平の知遇を得る。総務局長兼財政局長に抜擢される。この出会いは是公の将来を決定的にした。
台湾を9年で黒字の植民地に変えた後藤新平は、半官半民の国策会社・南満州鉄道(満鉄)の総裁に就任する。後藤は「御前8時の男でやろう」と考え、若い是公を副総裁に抜擢し、官庁、企業から30代の俊才を集めた。後藤は2年の後、逓信大臣になり内地に戻る。中村是公は満鉄の第2代総裁に就任し、後藤のアウトラインに沿って満鉄の基礎をつくった。満鉄の隆盛は「是公の敏腕によって作りだされたものであった」と菊池寛が述べている。
1913年に原敬内務大臣の干渉があり、総裁、副総裁らは満鉄を去る。
1917年に後藤内務大臣兼鉄道院総裁のひきで貴族院議員に勅選される。その後、是公は鉄道院副総裁に就任。1923年の関東大震災では、またしても後藤の推薦で東京市長となり、東京の復興に取り組んでいる。1926年に辞職。1927年に死去。享年60。
中村是公の生涯を追うと、常に「大ぶろしき」の後藤新平の存在がある。後藤のぶち上げた大構想を、地味ではあるが手堅くものにしていく役割だったのだ。
満鉄総裁時代に中村是公は渋谷に敷地3000坪の大邸宅を構えた。この邸宅は「羽沢ガーデン」と呼ばれ、各種の行事で親しまれた。私の師匠である野田一夫先生の三男の豊さんがここをレストランにして成功した。2005年頃に私も何度かこの重厚な満鉄総裁が過ごした部屋で野田先生と食事を摂った。その頃は「人物記念館の旅」を始めたころで、歴史や人物については無知だったが、今から思えば、この満鉄総裁が中村是公だったのである。豊さんは京都でもガーデンオリエンタルというレストランで話題になっている。竹内栖鳳(第一回の文化勲章横山大観と同時に受章した画家)の自宅をレストランとしたもので、いまや関西ではもっとも行きたい店のランキングで一位と日経新聞が報じていた。昔の広い日本家屋の雰囲気の中でテーブルと椅子で洋食を楽しむのは実に素敵である。庭に点在する別棟や離れなどもこのレストランの一部となっていて、結婚式場の披露宴場として人気が高い。2007年には京都大学の藤原勝紀先生(九大探検部の先輩)夫妻を招いて食事を堪能したことがある。
さて、この中村是公が「お前もよっぽど馬鹿だなあ」と言った相手は、夏目漱石だったのである。是公と漱石は大学予備門時代に一緒に住んでいた親友だった。是公がボート競技で優勝した賞金で漱石に『ハムレット』をプレゼントしている。是公は後に満鉄総裁時代に漱石満州に招いている。
漱石大阪朝日新聞の連載「永日小品」で是公のことを書いている。副題は「変化」である。「昔の中村は満鉄の総裁になった。昔の自分は小説家になった。満鉄の総裁とはどんな事をするものかまるで知らない。中村も自分の小説を未(いま)だかって一頁も読んだ事はなかろう」と書いている。
豪放磊落な是公は「べらんめえ総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼竜」などの異名を奉られている。後藤新平も部下たちが酒を飲みながら「うちの大将は」と話題にしたが、是公もそうだったのではないか。人間味を感じる綽名である。
漱石は生涯でふたりの親友を持った。一人は帝大で知り合った正岡子規であり、もう一人が中村是公であった。是公と漱石は、最後まで「俺、お前」の仲だったのだ。
 
 
 
 
「ぜこう」と「金ちゃん」
 
 
 
 
 
 
 
すべてのリアクション:
Someya Kanna
 
 

梅棹ゼミ「いま、『知的生産の技術』を読みなおす」第5回(最終回)ーー「かく」

「知的生産の技術」ゼミの第5回。次回は発表を予定。

以下、都築さんの報告。

ーーーーーー

深呼吸学部梅棹ゼミ「いま、『知的生産の技術』を読みなおす」第5回を終えました。今回は、「かく」という言葉でまとめられる、「7 ペンからタイプライターへ」「8 手紙」「9 日記と記録」「10 原稿」「11 文章」の5つの章を読みなおしました。参加者は5名でした。これまでどおり、はじめに都築の方から図解にしたものを使って説明し、意見交換などを行いました。
今回は、ページ数としては多かったのですが、「ペンからタイプライターへ」など、ツールや環境が現在とは全く違う部分が多くありました。しかし、その中で現在の私たちの知的生産につながるような気付きがありました。また、「日記」や「文章」などで参加者の体験や実践などについても出し合いました。
いくつか、重要だと思われたフレーズをひろってみます。
「形式を排して、真情吐露をとうとぶという風潮は、結果においては、手紙を一部才能人の独占物にしてしまった。」 「日記が続かないのは、日記のことを文学の問題としてかんがえる習慣があるからだろう。」「日記は、自分自身のための、業務報告である。」「日記というものは、時間を異にした『自分』という『他人』との文通である。」「ものごとは、記憶せずに記録する。」「人生をあゆんでいゆくうえで、すべての経験は進歩の材料である。」
参加者からは、日記については10年日記を30年間つけ続けたとか、Evernoteを使っているなどの実践の話も出ていました。文章については、自分の周りにいろんな素材のもとが漂っていてテーマを投げると結晶化するとか、アイディアを図で考えるようになってからまとまるのが早くなった、などが参加者から出ていました。
久恒先生から、野田一夫先生が2003年から2015年まで毎週800字の葉書を書いて送っていたという話や、本居宣長金子兜太阿久悠が長く日記を書き続けた話、日記は自分を浄化する機能があるという話などをうかがいました。

私の途中のメモから。

  • 日記と日誌。経験より体験。野田先生のラポールは晩年のモデル。自己浄化。日記は最高の財産。阿久悠は9700日。図読は究極の精読法・究極の速読法。
  • 何を発見したか。正書法ピカソ(絵画)。鈴木健二(原稿)。現代の論語。言文一致。

ーーーーーーーーー

俵万智「めっちゃ夢中 とことん得意 どこまでも 努力できれば プロフェッショナル」

ーーーーーーーーーーーーーー

明日の「幸福塾」の準備:「ライフワーク」。

ーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」2月28日。坪内逍遙「これのみはおほしたて得つほかの花はただ苗のみを植えすてしわれ」

 坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体坪內逍遙1859年6月22日安政6年5月22日) - 1935年昭和10年)2月28日)は、日本小説家評論家翻訳家劇作家

坪内逍遥は1859年に岐阜県美濃加茂市に生まれる。開成学校(東大)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身)に迎えられる。文学部創設、雑誌「早稲田文学」創刊、早稲田中学校長を歴任するなど、早稲田大学の発展に大きく貢献する。

この間、小説の分野では27歳のとき文学論『小説神髄』とその実践作『当世書生気質』などを発表。演劇界では文藝協会を設立し実践と理論を推進した。

「教育が本業」という逍遥は優れた感化力で熱心に教育にあたっている。会津八一なども逍遥に大きく深い影響を受けている。文学・演劇・舞踏・児童劇・美術・教育の多方面にわたって、革新的で先駆的な業績を遺している。また逍遥はシェークスピア全集の翻訳に終生専心して1935年2月28日に77歳で没した。逍遥は近代日本文化の偉大な開拓者だった。

2005年。早稲田大学の大隈講堂を背に歩いて行くと、創学の父・大隈重信銅像がある。朝倉文夫の作だ。下から見上げると大隈の像が紅葉を背景に空に映える。その少し前を右に折れると木立の向こうに、白い漆喰の壁とハーフティンバーの柱の英国風の古い洋館が目に入る。ロンドンにあったエリザベス朝時代のフォーチュン座を模した建物である。この建物は坪内博士の顕彰と演劇資料の消滅を防ぐため、坪内逍遥が『シェークスピア全集』全40巻の完訳を終えた古希(70歳)の1928年(昭和3年)に1500余の人の協賛を得て完成し、早稲田大学に寄贈されたものだ。450余坪のこの館事体も演劇史研究の資料でもある。正面の張り出し舞台では演劇が催されることもある。

一階は、演劇関係書籍の閲覧室・事務室・インフォメーションカウンターを挟んでシェークスピアの世界展示室と特別展示室がある。2階には「逍遥記念室」と2つの企画展示室と民族芸能室。3回は日本の演劇に関する古代から、中世、近世、近代、現代と続く歴史が展示されている。 

逍遥記念室に入る。逍遥の生涯を通じた多彩で豊かな活動に驚きを覚えるが、その目標は近代日本文化の創造にあった。革新と創造、理論と実践、和漢洋の調和、民衆の教化という考えが貫かれている。77歳で「新修シェークスピア全集」を完訳した際、「これのみはおほしたて得つほかの花はただ苗のみを植えすてしわれ」と読んだ。

ロシア風の黒い帽子を被り、メガネをかけ、白いヒゲ、コート、ステッキ、カバンを持つ在りし日の逍遥の写真に見入る。この写真は1927年(昭和2年)12月16日のシェークスピア最終講義時の写真である。愛用した原稿用紙には、真中に「逍遥用紙」と印刷されている。筆や硯、墨などが展示してあるが、隣の印、筆、朱肉などは弟子でもあった会津八一から助言を受けた。西洋文化に造詣の深い逍遥は、不思議なことに生涯英国を訪れることはなく、教え子たちの洋行のお土産であるシェークスピア人形や豆本などを大事にしていた。

翻訳の分野では、小説から戯曲へ関心が向かうが、その目的は国劇向上のための実演にあるとし、古語・現代語・方言語・漢語を駆使した自由訳を推進している。シェークスピアは、沙翁と書く。明治42年から大正12年にかけて発刊された20巻、対象15年から昭和3年にかけて発刊された20巻が展示されている。そして用語、文体の統一を目指したライフワーク『新修シェークスピア全集』も見ることができる。

幅広い分野にかかわりながら「教育者が本業」という自覚があった逍遥は、1896-1903年の間、早稲田中学の教頭、校長も歴任している。青少年教育・倫理を扱った実践倫理の講和や論考をまとめた『通俗倫理談』は逍遥の著作の中で最も多く読まれたものの一つだ。また論語バイブルなどを系統的に編纂した『中学修身訓』巻一の第一課には「悪と知らばすな 善と知らばなせ」とある。

教師のレベルに、「ただしゃべる・説明する・自らやってみせる・心に火をつける」という段階があるという外国人教育者の説があるが、教育者・坪内逍遙は「知識を与えるよりも感銘を与えよ。感銘せしむるよりも実践せしめよ」が基本的な考えだった。心に火をつけて、さらに実践をさせるまでの影響力を与えるのが真の教育者だという逍遙の言葉に納得する。

「演劇」面では、近松門左衛門鶴屋南北、錦絵の研究(歌舞伎の画証)、シェークスピアイプセンの研究、東西の劇場比較を行った。そして童話劇が娯楽本位だったことに対し、教育的要素に欠けていると批判し「家庭の芸術化」を掲げ、児童劇を提唱し、公演活動も行っている。

演劇研究実演団体として「文芸協会」を設立し、1909年には演劇研究所をつくり新時代の俳優の養成を行い、「ハムレット」「人形の家」などを上演した。新劇運動の先駆として松井須磨子澤田正二郎を生んだ。

またわが国の古典演劇の音楽性、舞踏性を踏まえた新しい国民的楽劇の樹立を目指し、ワーグナーの研究も行い、「新楽劇論」と「新曲浦島」を発表するなど新舞踏の向上発展に努めた。

劇作面では、演劇革新を志し、シェークスピア近松門左衛門の研究を行い、新史劇「桐一葉」等の新歌舞伎作品を発表、また近代戯曲「役の行者」、喜劇や翻訳劇を書いている。

文学の面では、少年時代に影響を受けた滝沢馬琴の勧善懲悪主義から写実・客観・心理主義を提唱した。上巻が原理・下巻が作法(小説技法)である『小説神髄』、それを実践した小説であり新時代の書生の生態を描いた『当世書生気質』を著した。「小説の主脳は人情なり 世態風俗これに次ぐ、、」と小説神髄で述べている。

「民俗芸能室」では、日本は舞台芸能と民俗芸能のなど芸能の豊かな国であり、双方が影響を与えあったとしている。歴史を展示している。清め・祓い・鎮魂のための芸能である神楽、田に関する芸能である田楽、盆踊り・獅子舞などの風流(ふりゅう)などの説明がある。

常設展示の「日本の演劇」では、古代、中世、近世、近代、現代と時代に沿って私たちの身近な演劇の歴史を展示している。古代では、伎楽、散楽、舞楽。中世では、田楽、延年、能・狂言。近世では、歌舞伎、人形浄瑠璃。近代では、新派、新劇、新国劇、喜劇、軽演劇、ストリップ、少女演劇、ミュージカル。現代では、古典芸能・商業演劇・新劇・小劇場の演劇など多種多様な演劇についての情報を提供している。

2階から3階の廊下には、シェークスピア演劇に関する資料や映像、実物などが展示されている。

最後に、1階で逍遥に関する書籍を求めたがない。わずかな販売品に『逍遥日記『』があった。明治20年の29歳から昭和10年の77歳まで書かれている。「逍遥日記」の大正5年から大正8年までの巻と、大正15年から昭和3年までの巻を購入する。大正5年は逍遥58歳。前年早大教授を辞任し、閑暇を得た逍遥は、創作、翻訳、研究の道に邁進した年である。年末には自分の将来の仕事の目標11ケ条を定め、着実に実行していく。大正7年には大隈候からの学長就任要請を辞絶している。この演劇博物館の開館式が行われた昭和3年10月27日の日記には「土 快晴 深沢来、揮毫依頼 一時より演博開館式了」と簡潔に記している。逍遥は謝辞として、約1時間に及ぶ名演説を行い、参列者に大きな感動を与えたという。

演劇博物館を出ると逍遥の像があった。シェークスピアを講義する逍遥の銅像である。台座には「むかしひと こゑもほからに たくうちて とかししおもわ みえきたるかも」という会津八一の筆の歌が刻まれてある。代歌人、書家とし屹立した存在であり、東洋美術史として独自の世界を切り拓いた会津八一は、逍遥の愛弟子である。この八一が「さすがに気廊の大きさ、学識の深さ、廣さ、燃ゆるばかりの熱意、行き届いた親切心、明確な道義心、かぞへ来ればかぞへつくせぬ偉さに、驕慢な私も、頭を下げたのは坪内先生であった。「私が五年間、早稲田で、すなほに辛抱していたのは。この先生一人居られたためであろう」と述べているのをみても、明治に生きた教育者としての逍遥の懐の深さを感じる。

坪内逍遥は、近代日本の偉大な開拓者であったと実感した訪問だった。77歳で『新修シェークスピア全集』を完訳した際、「これのみはおほしたて得つほかの花はただ苗のみを植えすてしわれ」と読んだ。日本文化の近代化のあらゆる方面に苗を植えようとしたのだ。その苗は「原型」であったのだろう。その原型が育っていったのである。