草柳文恵さんが9月の半ばに突然亡くなられて驚いたことをこのブログに記したことがある。遺された母上をお招きし少数の知人・優仁だけで「忍ぶ会」が麻布で開催され、私も出席した。招待状では「いつも慎ましく華やかだった」という言い方で故人を表現していた。
司会役は父親役を自任している野田一夫先生。19時から開会で20時から故人を偲ぶという予定だったそうだが、時間より早く皆さんが到着されて、最初から本番ということになった。大分県知事だった平松守彦さんの挨拶とお母様の挨拶。平松さんは「お父さんの草柳大蔵さんとは学徒出陣の仲間だった。文恵さんとは阿久悠や壇ふみさんらと同じ会で楽しくやっていた。今日は愉快にやりましょう」、お母様は「ああいう形で亡くなって、急に忙しくなって悲しんでいる暇などなくて、元気になった。これが娘の贈り物」というご挨拶。その後は、二つのテーブルで草柳文恵さんを偲んで歓談。
途中から寺島実郎さんも講演会場から駆けつけて私の隣に座った。寺島さんの隣は平松守彦さん、テーブルを挟んで向かい側は壇ふみさんと佐高信さんだった。寺島さんと佐高さんのやりとりは丁々発止で、傍らで聴いていて愉快だった。壇さんは大物たちと堂々と渡り合う。ちょうど、佐高さんの直近の著書「福澤諭吉伝説」(角川学芸出版)を読んでいるところだったこともあり、その本の話題や、中津在住の作家だった松下竜一を偲ぶ会のことなどを話題にいろいろと話をしてみた。
草柳文恵さんは、1986年まで19年にわたって東北放送で「お元気ですか」という月ー金の帯のラジオ番組を持っており、それは5000回にのぼったそうで、東北6県と新潟ではよく知られていた。
途中から抜けるため最初の挨拶にたった寺島さんは、「お父さんの草柳大蔵さんとは1987、8年頃にウッディ・アレンの店で食事をした。「満鉄調査部」はいい本だった。文恵さんとは91年にワシントンのジョージタウンで会っている。まだ30代だった。お花のように輝いていた。その後、新幹線の中でも会っている。惜しい方で、このような集まりをみると一つの徳を持った人だったと思う」と挨拶され、ワシントンで会うきっかけをつくった私の紹介も入れてくれた。
寺島さんが帰った後の席は、遅れてきたIBMの椎名武雄さんが座って、陽気で愉しい会話が続く。挨拶では「文恵さんはもの静か、もの憂げな美女だった」と印象を語る。文恵さんは交遊も広くて、オペラの佐藤しのぶさん、パソナの南部靖之さんらの顔もみえる。
旧知の湯布院の桑野和泉さん、料理の千葉真知子さん、仙台の尾形文子さん、近藤昌平さんらとも近況を交換した。
91年にJALがワシントン直行便を開設したとき、広報課長だった私は航空関係の識者、学者、評論家、メディアのツアーを企画したことがある。総勢で20人ほどのツアーだったが、いろいろな審議会などで委員として活動したり、指揮者へのインタビュアーをやってることもあり、質問が的確で鋭い。旅の途中で私も私生活に関する質問を受けたが、答えていると丸裸にされてしまうような気になった。仕事ができるのである。また誰もが感じるように、「容姿がいい」。スタイルとファッションが抜群で華やかな雰囲気にあふれている。そして、それにもまして「心がいい」。育ちの良さを感じさせる素直でまっすぐな性格で、さわやかだった。
ワシントンでの政府関係者を招いてのセミナーやウイリアズムズバーグの見物、ジョージタウンでのジャズ鑑賞など一連の旅では、食事時や写真撮影では文恵さんはいつも輪の中心にいた。大学の学者や航空評論の関川栄一郎先生や鍛冶壮一先生などもおり、いわゆるうるさ型も結構いたが、和やかな雰囲気が最後まで続いたのは文恵さんのおかげだった。事務局として大いに助かったものだ。帰国後、何回か一緒に食事をしたりして親しくしてもらった。
飛行機の中でパスポートを見せあったら、私より4つも下だったので驚いたら「私、デビューがはやかったから」との説明だった。ミス東京に選ばれたのは10代だったからずっと有名だった。当時、文恵さんは30代の後半にさしかかったところだった。
この偲ぶ会は、野田先生の発案、企画、進行だった。生前の写真、一枚のお母さんにあてた悲しい遺書、人選など、野田先生のやさしさを感じた「偲ぶ会」だった。