中川一郎記念館(広尾町)---「真実一路」「寒門に硬骨あり」

k-hisatune2008-11-07

「北海のヒグマ」との愛称で親しまれた異色の政治家・中川一郎の記念館を北海道十勝支庁広尾町に訪ねた。

注目していた政治家だったが、自由民主党総裁選に立候補して破れた後3か月もたたない1983年1月に、突如57歳で早世してそのニュースに驚きをもって接したことがある。

1925年(大正14年)に北海道に生まれた中川一郎は、十勝農業学校、宇都宮高等農林、九州帝国大学農学部(農業土木)で学び、父の悲願どおり北海道庁で役人生活を始めるが、酒の飲みっぷりがいいという理由で、北海道開発庁長官になった党人政治家・大野伴睦(1890-1964年)の秘書になり、大野を生涯の師とする。その後、緒方竹虎長官の秘書もつとめ、政治への志を持つ。12年間の役人生活を経て第30回総選挙に立候補し当選する。

以後、目鼻立ちのくっきりとした保守政治家として精力的な活動を行う。中尾栄一浜田幸一石原慎太郎渡辺美智雄らとともに31人で1973年に青嵐会を結成し、事実上のリーダーである代表世話人をつとめる。その後、1979年に自由革新同友会を22人の同志とともに結成、これが事実上の中川派の旗揚げとなる。この間、福田赳夫大蔵大臣から「有史以来の名政務次官」と言われるなど大蔵政務次官を二度つとめるなど手堅い手腕もみせる。福田赳夫総理のもとで農林水産大臣として日ソ漁業交渉をまとめ、そして科学技術庁長官(鈴木内閣)で原子力発電に力を入れている。

13人という小派閥を率いる中川一郎は、1982年10月16日自民党総裁選に立候補する。このとき立候補したのは、中曽根康弘河本敏夫、安部晋太郎と中川一郎の4人である。河本、安部、中川の反主流三派連合の成立で予備選実施を避けられないと判断した鈴木首相は、退陣を表明し中曽根行革長官を後継者に指名し、田中、鈴木、中曽根の主流三派は中曽根康弘候補に一本化する。結果は派閥の締め付けがあり予備選で安部にも及ばず4位となる。このときの中曽根総理誕生のドラマは私も社会人となっており鮮明に覚えている。そのときの風雲児が中川一郎だった。

率直、大胆、駆け引きのない人柄、というのが中川に対する人物評であるが、同志であった石原慎太郎は、中川の「魅力は結局可愛らしさだったと思う。」と評している。
中川一郎座右の銘は、「真実一路」である。親孝行でも有名だった。またよく歌う唄は「星影のワルツ」で「仕方がないんだ、君のため」の君を国に置き換えて歌っていた。北海道出身の横綱千代の富士の後援会長でもあった。

記念館から天馬街道を走ったところに「中川一郎農林水産大臣生誕の地」という碑が建っている。黒地に白抜きで書かれている字は広尾町長の泉耕冶氏の書いたもの。この碑の建立にあたって寄付をした人と名前が脇に書いてあった。5万円が11人、3万円が2人、2万円が3人、1万円が17人とあったから、合計で84万円になる。青い山々を遠くに眺め、小麦畑の美しい緑に囲まれた秋の風景は、中川の凛としたそして厳しい振舞いを感じさせる。

記念館は、紅葉の木々を従えて悠然と建っている。中川が和服を着て佇んでいるような印象であり、思わず居ずまいをただしたくなるような建物だった。

「資質衆に優れ、理解力、判断力は抜群。行動力に秀で、正邪を鮮やかに分別し、しかもこれが正しいと信じたことについては、千万人と雖もこれを排して進む気概の持ち主である。」「雲を呼ぶ飛竜であり、風にうそぶく猛虎そのものであった」(「福田赳夫

「抜群の知恵と力を持つ、いわば存在感の重い男である。加えて、人を魅了する陽気さと気さくな人柄で、どんな人にも信頼感を抱かせる、抱擁力(包容力?)の大きい政治家だった。」「親友中の親友だった」(安部晋太郎)

「折にふれて思い起こす度心の中をさざ波をたててよぎっていく、という相手は滅多にあるものではない」「あの巨きくもろく可愛かった、私の人生の中を通り過ぎていったひとりの懐かしい男」(石原慎太郎

中川一郎の後継者を争った長男・中川昭一と実力秘書だった鈴木宗男の二人が並んで中川一郎のことを偲んでいるいる文章を目にした。
中川昭一は、「「らしく生き抜いた」57年の10か月の親父の人生」というエッセイで、「「らしく生き抜いた」と私は思います。人間らしく、、、男らしく、、、夫らしく、、、父親らしく、、、政治家らしく、、そして中川一郎らしく自ら燃え尽きてしまった、、」「親父が好んで書いた言葉は、「真実一路」、「寒門に硬骨あり」、「雲去りて天一色」、「人事を尽くして天命を待つ」でした」とある。

鈴木宗男は、「この人のためなら、体をはろう、全てをかけよう」そんな気持ちでおつかえした14年間でした」「親孝行な人でした」「いつかおふくろに喜んでおらおうと思って、今日までがんばってきた」いつもこう話していたもんです」「本音を言う政治家として一時代を築いた中川一郎先生の姿こそ、私にとって最高のお手本であります」。そして「厳しい選挙戦の結果、ご子息は、中川一郎先生を上回る立派な成績で当選され、私もひきあげていただきました」とも語っている。

中川一郎は大学の先輩でもあり注目していたが、今回記念館でその残した言動を知るにつけ、一度会っておきたかったという思いのする人物だった。

総裁選前夜に、中川が糾弾している政敵・田中角栄とゴルフをしたとき、「池のコイははねてもよいが、砂利の上に落ちるとスルメになるぞ」と言ったと報道されて、この台詞は有名になった。