クロネコヤマトの誤配、ようやく示談。

クロネコヤマトも誤配があるのですね。

クラウドファンディングで支援いただいた方への書籍の送付で誤配が起こりました。3月10日に発送し、ようやく4月3日に再送、明日4日に到着することになりました。

たまたま本人との接触があり、未到着の発生がわかり、対処が始まったのですが、やはり時間がかかりました。以下は、示談書。

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本田宗一郎の74歳時のインタビューをたまたま聴きました。聴き手は当時45歳の堺屋太一。以下、本田の言葉から。

上の人の小言がなかったから戦後の復興は成った。ホントは藤沢武夫が社長だ、友達。株式会社は株主と従業員のものだ。公私をはっきりする。適材適所ならば人は宝になる若い人が元気いっぱいでやらねば。海外進出はいちばんベルギーという難しい国から。好くと好かれる。納得を大事にする。政府にいわれたからやるというのはおかしいなあ。金は自分ですべて使う。

「人生は離陸に始まり着陸に終わる飛行だから、着陸がまずければ名パイロットにはならない」。「早くやめなきゃ」と67歳で退任した本田宗一郎は、。その後、全国行脚しお世話になった人たちに挨拶に回りました。出処進退の人です。

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深呼吸学部:途中から参加。

橘川さんの「参加型社会」へ向けての大構想を聴きました。

平野:クラブハウス。ラジオ。リモートコミュニケーションの進化という高度情報社会。ZOOMだからこそ。金が発生しないで短期間で友達がでるという社会。

田原:内発。社会を内包した私。教育も社会も変える。

(教祖。経典。教団。メディア。運動論。、、、、)

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「名言との対話」4月3日。松山幸雄「教育の眼目は泉を開発することであって、水槽をつくることではない」

松山 幸雄(まつやま ゆきお、1930年4月3日- )は、日本のジャーナリスト

朝日新聞社記者。政治部、ワシントン特派員、ニューヨーク支局長を経て1974-76年アメリカ総局長。論説委員編集委員、論説副主幹、1983年論説主幹、1985年取締役。

退任後は、ハーバード大学客員研究員、1993年共立女子大学教授。1976年ボーン・上田記念国際記者賞。1977年『日本診断』で吉野作造賞、1978年日本記者クラブ賞、1986年ベストメン、1986年『国際対話の時代』で石橋湛山賞受賞。

松山は新聞記者やジャーナリストがあがめられていた時代の有名な論客だったので、よく名前は聞いていた。SNSが出てきて、直接ある分野の専門家が提供する知識を目にすることになって、又聞きのジャーナリストの株が下がっている。もうずいぶん前に、書籍編集者から「記者の書いたものではもう読者は満足しません」というのを聞いたこともある。

さて、『勉縮のすすめ』(朝日文庫。1981年刊)を読んだ。10年余にわたりワシントンとニューヨークに駐在した松山が、政治外交という専門分野ではなく、特派員生活の副産物の教育にかかわる本をかいたのだが、当時はよく読まれた。

「権力を持ったら、機嫌をよくするのが最小限の義務であろう」は上司の心得。「出発前に大至急、日本各地を旅行して、日本の勉強をしておきなさい」は、外国特派員への向けた心得。そして、「教育の眼目は泉を開発することであって、水槽をつくることではない」という。

日本人は戦前、戦中の道徳教育にこりたせいもあって、戦後、教育の力点を、比較的無難な知育に集中させすぎた感があり、それが、日本人の弱点となっている。したがって、人間としての修養、訓練を積むことが国際的に活躍する条件であり、受験地獄はなくし、若者の良質のエネルギーを、もっと息の長い人間修養の方にまわそう、という提言である。

この本はもう40年前に書かれた本となったが、修養、道徳、徳育、などを忘れるなという点は、今も生き続けている警鐘となっているように思う。昨今の日本各層の不祥事をみるにつけ、この点が失敗していると感じる。「ウソは泥棒の始まり」「李下に冠を正さず」などという言葉は死語になった嫌いもあるが、人間として、職業人としての基礎部分なのだ。現在のリーダーたちのふるまいは教育界に与える悪影響はきわめて大きいと言わざるをえない。「知育、徳育、体育」ということが、自己教育も含めて「教育」における普遍的な眼目であることを改めて確認した。 

「勉縮」のすすめ (朝日文庫 ま 2-1)

「勉縮」のすすめ (朝日文庫 ま 2-1)

  • 作者:松山 幸雄
  • 発売日: 1981/07/01
  • メディア: 文庫