雑誌「イコール」の田原真人責任編集号が刊行された。田原さんは53歳、橘川さんを通じて知り合った私の同志。
トランスナショナルな言語マガジである。投稿者は世界中。言語は中国語、英語、韓国語、スペイン語、日本語。多言語で書かれた内容をORコードをスマホで読み取ると、AI翻訳で好きな言語で読めるというやり方でつくりあげている画期的な雑誌だ。
世界中、とくにアジア各地から、「アイデンティティ」をテーマとした次世代の論考を読むことができる。マレーシア系中国人、韓国系日本人・コリアンジャパニーズ・在日コリアン3世、日本語で語るアイヌの女性、越境するアイデンティティと名前、、、、、みな、自分とは何人か、つまり「アイデンティティ」の問題を考えているのだ。
トランスジェンダーの体験記本の紹介、AI翻訳が可能にしたトランスナショナル読書会。生成AIによって可能となる個別最適化学習、コロナが世界に何をしたか、、、、、。
このマガジンのテーマは「越境」である。ここには世界があり、たしかに未来がある。
ーーーーーーーーーーーーーーー
昼食:新宿で橘川さんと「ルミネ・イースト」7階でしゃぶしゃぶ。『図解の技術 大全』と久恒イコールの現段階の原稿を渡す。できたての田原イコールをもらう。紀伊国屋で森永卓郎『書いてはいけない』を購入。
午後:都庁で免許更新
夜:デメケンで松永さんと会話。『その後、アクティブ・シニア革命』編集会議。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「名言との対話」12月9日。石橋政嗣「世界唯一の被爆国であり、非武装憲法をもった国日本が、軍縮実現の先頭に立つことは権利であり、同時に義務だと思うものです」
石橋 政嗣(いしばし まさし、1924年10月6日 - 2019年12月9日)は、日本の政治家。享年95。
台北経済専門学校卒業。兵役から復員後、佐世保で進駐軍労働者となり、1947年日本進駐軍要員労働組合の佐世保支部書記長を経て1953年に長崎県労働組合評議会議長となる。
1955年左派社会党の衆議院議員に30歳で当選。外交、防衛問題の政策通として頭角を現し、党外交防衛政策委員長となり、66年自衛隊漸減に関する「石橋構想」を発表した。国会でも安保問題を中心に予算委員会の花形論客となった。党の総務局長、国際局長を経て、1970年、成田委員長のもとで党書記長に就任。 1977年 12月、成田執行部退陣に際し書記長を辞任。 1982年党副委員長。
左派ともよい関係を持ち、社会党内の左右両勢力の調整者の役割を果たす現実主義者であった。 1983~86年、日本社会党委員長として活躍する。 「ニュー社会党」への脱皮を呼びかけ、自衛隊の「違憲・合法論」を展開し、西欧型社会民主主義への路線転換をはかり、「新宣言」の採択にこぎつけ、「社会党はイデオロギーのくびきから解放されました」と発言した。1987~92年憲法擁護国民連合議長。 旧社会主義国が次々と崩壊する1990年に引退。社会党が社民党に党名を変更した1996年に離党している。
1980年に刊行した石橋の代表作『非武装中立論』(社会新書)は話題になった、以後、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘らと論戦を繰り広げる。その要旨は以下。
・保守回帰などと言われるのは一体なぜでしょうか。第一の原因が、野党の多極化にあることは言うまでもありません。、、、社会党、公明党、民社党、共産党、、、新自由クラブ、社民連、、、計6つになっているのです。、、、中道と称する部分がつっかい棒の役割を果たしはじめた、、、。
・アメリカは必ず日本を守ってくれるのかという問題につき当たることになります。
・世界唯一の被爆国であり、非武装憲法をもった国日本が、軍縮実現の先頭に立つことは権利であり、同時に義務だと思うものです。
・核戦争が起きれば勝者も敗者もない、、、どうして戦争を防ぐのかの方が格段に大切なこと、、、、憲法9条こそが戦争を防止し、人類を破滅から救い出す唯一の道だと確信する、、。
戦前の体験を持った戦中派の石橋は、右傾化への危機感を持っていた。「自由をしきりと口にする連中ほど自由を拘束しているのです」「だれの目にも軍国主義とわかるようなときになって、立ちあがれるなどと思わないでください」。外国に行って、「自由」という意味の言葉が新聞の一面にどのくらい出ていつかで、その国の自由度がわかると誰だったか、言っていたことを思い出した。つまり自由という言葉が多く出ている国には自由が乏しいのだ。だから石橋は軍国主義の兆しは芽のうちに摘むことが大事だというのであろう。私の20代から30代前半までは、野党第一党の社会党の書記長、委員長として自民党総理との丁々発止の国会論戦をよく知っている。石橋政嗣の好きな言葉は「唯一心」だ。「ただいっしん」と読む。そのとおりの人という印象だ。
明日は日本被爆団がノーベル平和賞を受ける日だ。核廃絶を訴えることは、日本の権利であり、義務であるという石橋の悲願を世界が受け入れたことになる。石橋はそれを見届けることはできなかったが、喜んでいるだろう。