金閣寺「足利義満」考。銀閣寺「足利義政」考。清水寺「坂上田村麻呂」考、「大西良慶」考。

北山鹿苑寺臨済宗相国寺派)の舎利殿金閣」。きらびやかなたたずまい。

足利三代将軍義満の別荘北山殿を禅寺に改めた。金閣寺は1950年に焼失するが、1955年に再建。1987年に緊迫の張替え・化粧直し。


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足利義満(1358-1408)。室町幕府第三代将軍。義詮の子。応安元年(1368)将軍となる。同五年受衣。有力守護大名や朝廷を抑え、室町幕府権力を確立。応永元年(1394)一二月、将軍職を義持に譲る。同二年出家。京都の北山に山荘を造営し金閣寺鹿苑寺)を建て、同五年ここに移り、北山殿と称された。(日本国語大辞典

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東山慈照寺相国寺派)の観音殿「銀閣」。渋い味わい。

8代将軍義政(義満の孫)の別荘東山が前身。「わび・さび」の境地を追及。白砂の向月台、苔庭。近世的生活文化である東山文化の発祥地。

銀閣は第一層の心空殿は書院風、二層の潮音閣は唐様仏殿様式。閣上の鳳凰銀閣を守っている。


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足利義政(1436-1490)。室町幕府第八代将軍。義教の子。初名義成。文安六年(1449)四月、嘉吉三年(1443)義勝の早世以後空位であった将軍職を継承した。宝徳二年(1450)受衣、法名道禎。享徳二年(1453)義政と改名。妻は日野富子。応仁元年(1467)五月、いわゆる応仁の乱が起こり執政が乱れた。文明五年(1472)将軍職を義尚に譲る。京都の東山に山荘を造営し銀閣寺(慈照寺)、東求堂を建て、同一五年ここにうつり、東山殿と称された。同一七年出家。法名慈照院喜山道慶。(日本国語大辞典

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清水寺北法相宗の本山。平安京遷都以前からの創建で、1200年に及ぶ音羽山清水寺。「清水の舞台から飛び降りたつもりで」という言葉で有名。京都一ともいわれる人気で、日本人、外国人であふれていた。

坂上田村麻呂が創建し本願と位置付けられている。12年に及ぶ戦いで蝦夷アテルイを連れ帰った。

中興の祖は大西良慶。この人は107歳まで生きた名僧。


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坂上田村麻呂(758-811)。平安初期の武将。征夷大将軍。渡来人阿知使主の子孫。苅田麻呂の子。桓武・平城・嵯峨の三天皇に仕え、蝦夷平定や薬子の乱鎮定に功を立てる。京都清水寺を建立。能楽、操浄瑠璃、歌舞伎などにとりあげられている。(日本国語大辞典


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大西良慶「ゆっくりしいや」。大西 良慶(おおにし りょうけい、1875年明治8年)12月21日 - 1983年昭和58年)2月15日)は、北法相宗京都清水寺貫主を務めた。

15歳で得度し、奈良法隆寺などいくつもの寺で修行を積んだ後、39歳で京都清水寺の管長となった。1965年清水寺を本山とする北法相宗を設立、初代の管長に就任する。法相宗以外の諸宗にも造詣が深く、日本宗教者平和協議会会長など仏教界の要職を歴任した。入滅まで現役の貫主であった。

1976年鹿児島県に生まれて話題となった日本初の五つ子の名付け親である。1983年、107歳で天寿を全うした。当時の男性長寿日本一でもあった。

『ゆっくりしいや』(PHP)では、最後に、清水寺貫主森清範は「書画は人なり」と「春風を以て接し、秋霜を以て自ら粛む」という言葉で大西良慶を語っている。北法相清水寺宗務長の松本は、「ゆっくりしいや」との言葉は味わいのある人生訓として深い真理を秘める、と述べている。そしてインタビュアーの野々村は、「仏様である」との感想を語る。接する人たちに大きな影響を与える人である。それが長い年月にわたって続いたから、影響を受けた人は多く、またその影響は次の世代にも及ぶだろう。こういう人を「偉い人」と呼ぶのだ。

この本では、「ゆっくりしいや」以外にも、「人間、あまり偉くならんでもええやないか」「目で笑うのは上等、鼻で笑うのは下等、口で笑うのはあり合わせの笑い方、本当におかしかったら抱腹絶倒、ハラをかかえて笑う」などが印象に残った。

また、「平凡から非凡になるのは、 努力さえすればある程度の所まで行けるが、 それから再び平凡に戻るのが、難しい」という名言もある。自身は非凡になってそのまま精進を重ね続くのが習性となっており、、「ゆっくりしいや」と人に語るが、自身はゆっくりできない性分になっているのだろう。

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「名言との対話」3月6日。森山加代子「死んでいくのよ蝶のままで あなたに 抱かれて わたしは 蝶になる」

森山 加代子(もりやま かよこ、1942年3月23日 - 2019年3月6日)は、北海道函館市出身の日本の歌手

 札幌のジャズ喫茶でスカウトされ、1960年に「月影のナポリ」でデビュー。いきなり50万枚の大ヒットを飛ばし、同年のNHK紅白歌合戦に初出場。1961年発売の「じんじろげ」は強烈な歌詞とともに流行語にもなった。1962年「五匹の子豚とチャールストン」で3度目の紅白。

それ以降、低調だったが新潟で主演中の楽屋に水原弘が現れ、もう一度メジャーでやってみないかと励ました。このとき、いくつかの候補作から自身が選んだのが、「白い蝶のサンバ」である。1970年に発売した「白い蝶のサンバ」〈阿久悠作詞)は、サンバの軽快なリズムに乗せた歌詞「あなたに 抱かれて わたしは 蝶になる」が人気となり、ミリオンヒット。同年の紅白歌合戦に8年ぶり4度目の出場を果たした。

まだ新進作詞家としてデビューしたんばかりだった阿久悠の詩は、早口で歌う詩で、独特だった。この詩を採った森山加代子の選択眼もよかったのであろう。

最後のブログ更新(森山加代子オフィシャルブログ「Kayokos Room」)は2014年1月19日だった。

・「今年も皆様をハラハラドキドキさせながら、もう少し唄っていこうと思っています。もし歌う事が嫌になったら、皆様にお願いしますので『辞めても良いよ。』って云ってくださいネ」

・「皆様のおかげで、こんなに長い間唄って来れたのですから森山加代子は、いつ辞めても皆さんが納得して下さるのなら悔いはありません。楽しく笑顔で唄い続けられるまで頑張るつもりです」

夫の林正和さんは、本日2019年3月6日にインタビューに答えている。

「息を引き取る5分ほど前、私を見て『お父さん、ありがとう。迷惑かけたね』…と。それが最期の言葉でした」

あなたに抱かれてわたしは蝶になる あなたの胸あやしいくもの糸 はかないいのちさだめなの あなたに抱かれてわたしは蝶になる 涙をためくちづけ受けるのよ あふれる蜜に酔いながらおぼれるのよ 恋は心もいのちもしばり 死んで行くのよ蝶々のままで あなたに抱かれてわたしは蝶になる 気ままな夢忘れて苦しむの はかないいのち恋のため散らせるの
あなたに抱かれてわたしは蝶になる あなたの胸あやしいくもの糸 はかないいのちさだめなの あなたに抱かれてわたしは蝶になる ふるえる羽はげしい恋に灼く 二度とは空に帰れない夜に泣く 恋は心もいのちもしばり 死んで行くのよ蝶々のままで あなたに抱かれてわたしは蝶になる 朝日の中つつろな蝶は死ぬ はかないいのち恋の火を抱きしめて

この不思議な世界の歌詞を歌う森山加代子の姿は、はよく覚えている。「あなたに抱かれて蝶になる」「死んでいくのよ蝶のままで」という代表作「白い蝶のサンバ」の歌詞のとおり、森山加代子は78歳で生涯を閉じた。