第31回『心の健康会議』シンポジウム「生涯学習社会を生きる児童・生徒を考えるーーー人生における子ども時代に寄り添う臨床心理士」の報告が掲載された『臨床心理士報』が届いた。
2024年3月3日に北九州ソレイユホールで開催されたビッグイベント。私はシンポジストとして登壇した。
私の発言「100年人生における子ども時代ーライフデザインの観点から考える」。独自のフィールドワーク2つ。人物記念館の旅と名言との対話。人生100年時代。人生観を変えよう。ライフをデザインする時代。公人、私人、個人。玄孫、来孫を目にする時代。親や先生が子供から見られている。子供の問題というより、大人の問題ではないのか。ヒントは、母親の影響力と先生の影響力。モデルはどこにいるのか。近現代の代表的日本人の中にいる。7つの共通項。偉い人。一廉の人物。人物伝。人生100年の生き方のモデルは日本にある。」「出会い。自分づくり。いじめ、非登校」
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『アクティブ・シニア革命』編集ミーティング(デザイン・DTP関係)のZoomの要約。
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「名言との対話」10月3日。河西昌枝「勝つためにみんなが 一つの目標に向かってやった 青春時代に命懸けでやったことが その後の人生の大きな宝物」
河西 昌枝(かさい まさえ、結婚後の姓は中村、1933年7月14日 - 2013年10月3日)は、女子バレーボール選手。享年80。
山梨県立巨摩高等学校 から バレーボール選手として、日紡関ヶ原 、 日紡足利 、そして伝説の日紡貝塚へ。河西は『東洋の魔女』の主将として1962年世界選手権優勝、1964年東京五輪でコーチ兼キャプテンとして金メダルの獲得に大いに貢献した。
当時の監督の大松博文は「鬼の大松」と呼ばれるほど徹底したスパルタ式のトレーニングで知られており、根性バレーで徹底的に鍛えた。選手たちは「回転レシーブ」という武器で拾って拾って拾いまくるバレースタイルを身に着けた。このときのことを、目に見えない積み重ねでいつかできるようになる、と敢闘精神にあふれた河西は後に語っている。チームメートたちは「オリンピックが終わったら、婿は世話をする」という大松監督の言葉に安心して励んだ。
174㎝の河西はオリンピック終了後の1965年1月に日紡を退社し、5月に佐藤栄作総理の取り計らいで2歳年上の自衛官(172cm)と結婚した。大松監督の仲立ちで結婚したのは6人中4人であり約束は守られたのである。そして河西はママさんバレーの指導者となった。2003年3月には日本バレーボール協会の女子強化委員長に就任し、 2004年アテネ五輪では全日本女子チームの団長を務めた。2008年にはバレーボール殿堂入りを果たした。
河西のことを調べるのに、『時代を創った女たち』の中村昌枝の章を読んだ。この本はNHK「ラジオ深夜便」のインタビューをまとめたものだ。各界で抜群の功績を挙げている女性の発言もついでに堪能した。
志村ふくみ「日本人の精神の根本には色がある」。森下洋子「一日一日の積み重ねがすべて」。樋口久子「座右の銘は平常心」。山田満知子「リンクの冷たい空気は、私の体の一部なんです」。今井通子「物事って、始めてしまえば思っていた以上のことができてしまうんですね」、、、。
「あの程度の相手なら必ず勝ちます」とは、ソ連戦で第一セットを落とした時に河西が監督に語った言葉だ。優勝にはチームの中心にこういう冷静なリーダーの存在が必要だった。
東京オリンピックの女子バレー優勝決定戦は、家族全員で見た記憶がある。一喜一憂し、興奮してみた。 NHK[あの人に会いたい」では、「勝つためにみんなが 一つの目標に向かってやった 青春時代に命懸けでやったことが その後の人生の大きな宝物」と語っており、さわやかな印象だった。