シェア書店「ほんまる」の「イコール」3編集長(橘川・久恒・田原)の棚を確認ーーー神田古本まつり

朝のヨガを終えて、「神田古本まつり」に妻と向かう。「読書日記」の本を2冊見つけた。

  • JAL広報部時代にお酒を飲んだことのある江國滋先生の『読書日記』100円。前の持ち主の「江國 42歳」という書きこみが初日の昭和51年10月7日(木)にあるのは面白い。10月12日の日記は3日目で「神保町に立ち寄って古本屋街を散歩、、、ランチョンで生ビール二杯と軽食」とある。パラパラとめくると、「禿筆」「国手」などの珍しい言葉もある。私の読んでいる『破れざる者たち』、『知的生活の方法』などの感想が書いてある。
  • 愛読しており、先日シェア書店「PASSAGE]でお会いした鹿島茂さんの『成功する読書日記』100円。「引用の習慣を続けていくと、その読書日記が、ひとりでに、オリジナルな名句名文句(アンソロジー)になっていくことです」。「自分の言葉で言い換えて、要約する」コント・ランデュで、語彙を豊かにすることができるとのこと。

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シェア書店「ほんまる」の「イコール」の3編集長の棚を確認。

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橘川幸夫「深呼吸書店」

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久恒啓一「アクティブ・シニア革命」

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田原真人「世界アジトネットワーク書店」

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昼食は『神田餃子屋』で、水餃子と焼き餃子を堪能。酎ハイを一杯。

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時代の要求を先取りして人を魅了し続けた赤瀬川原平 | 文春写真館 - 本の話

「名言との対話」10月26日。赤瀬川原平「自分は画家なので、文章だったら軽く書けると思った」

赤瀬川 原平(あかせがわ げんぺい、1937年3月27日 - 2014年10月26日)は、日本前衛美術家随筆家作家。享年77

純文学作家としては尾辻 克彦(おつじ かつひこ)というペンネームがある。尾辻は父方の親戚の苗字。克彦は画数が少ないため「原平」を採用。

横浜市生まれ。大分市で育つ。舞鶴高校から愛知県旭丘高校に転校。武蔵野美術学校油絵科に入学。1962年、25歳、ポスターカラーで描いた絵画「破壊の曲率」でシェル美術賞に入選。 千円札の表だけを一色で印刷」したものに手を加えたものを作品とし発表。1965年、28歳、通貨及証券模造取締法違反に問われ、起訴される。一審で「懲役3年、執行猶予1年、原銅版没収」の判決。上告ののち1970年、33歳、執行猶予つきの有罪確定。「千円札事件」と呼ばれる。

朝日ジャーナル』に連載した『櫻画報』では「櫻画報こそ新聞であり、この周りにある『雑誌状の物』は櫻画報の包み紙である」と主張。『朝日ジャーナル』に連載した『櫻画報』では「櫻画報こそ新聞であり、この周りにある『雑誌状の物』は櫻画報の包み紙である」と主張。34歳、最終回(1971年3月19日号)が問題になり、自主回収された。この事件で編集長が更迭された他、朝日新聞出版局では61名の人事異動が行われ、『朝日ジャーナル』自体も2週間にわたって休刊する。

編集者に勧められて純文学に取り組む。尾辻克彦の名で身辺小説「肌ざわり」を執筆し、1979年、42歳、中央公論新人賞を受賞。短編「父が消えた」で、1981年、44歳で第84回芥川賞を受賞。1983年、46歳、「雪野」で野間文芸新人賞を受賞した。

49歳では、マンホールの蓋、看板などを発見し考察する「路上観察学会」を創設。1987年、50歳、『東京路上探険記』は講談社エッセイ賞を受賞。1989年には、勅使河原宏と共同脚本を担当した映画『利休』で、日本アカデミー賞脚本賞を受賞。1993年、56歳、『仙人の桜、俗人の桜』で、JTB旅行文学大賞を受賞。1998年、61歳、『老人力』は筑摩書房はじまって以来最高のベストセラーとなり、「老人力」は同年の流行語大賞を受賞。翌年毎日新聞出版文化賞特別賞。物忘れを「老人力がついてきた」と赤瀬川はとポジティブにとらえていく。逆説の名人だ。 先輩画家の説明も「実は、内気なアバンギャルド」の安井曾太郎、「ロマンを吹き飛ばす乱暴力」の青木繁など独特である。「アバウトは健康にいい」は、常識を破る爽快なメッセージだ。

 以下、赤瀬川原平を巡る言葉。--公序良俗をからかう危険な前衛主義者。あらゆる思想信条を笑いのめす得体の知れない不謹慎、反体制ではなく無体制。諧謔に満ちた言語ゲームの遊戯者。永山則夫無知の涙』の装幀者。宮武外骨の「頓知」の復権の主張。

2011年、74歳で出した『個人美術館の楽しみ』を読んだ。「個人美術館というのは、一人の作家だけの美術館と、一人のコレクターによる美術館と、二通りの意味がある」。必要だから買うのではない、散在するのである。コレクターの愉しみとは、散在の爽快感にある。この本では46の個人美術館を紹介している。私はこのうちまだ20までは訪れていない。人物記念館の一つのジャンルとして全部訪問してみるか。「個人美術館の面白さはコレクターの熱情を見ることにもある」。確かにそうだ。しみじみと作家や蒐集家の人生を思うことにしたいものだ。

2014年に町田市民文学館で開催中の「尾辻克彦赤瀬川原平--文学と芸術の多面体」をみた。最終日なので人は多かったが、パンフレットが売り切れだったのは残念。美術家・赤瀬川原平は、芥川賞を取った作家を名乗る時は尾辻克彦となる。60歳、玉川学園にニラハウスを建てる。62歳、「老人力」が40万部のベストセラー。2014年10月77歳で没した。その時の企画展だ。赤瀬川の斬新な広告などの作品や考現学と称する作品群を観た。書斎の写真では、には大きな机があり、その周囲に椅子、ソファなどが置かれている。

「自分は画家なので、文章だったら軽く書けると思った」という赤瀬川は独特の文体でやすやすと芥川賞をさらったのだ。また、赤瀬川原平は、多くの「ナンセンス」で「ユーモラス」な組織の結成に関わっている。そのリストをみると目がくらみそうだ。恐るべき才能である。

池(内記『亡き人ヘノレクイエム』(みすず書房)を読んだとき、赤瀬川原平については「たえず、「素」(もと)に戻って考える人は、おのずと時流を突き破っており、こころならずも時の人になる。大いなる過激派の宿命というものだ」と紹介していた。絵画、文章、そして「路上観察学会」などの世間を騒がせるアイデアなど、まさに大いなる過激派であった。本人はあくまで「思想的変質者」であろうとした、その暴力的なエネルギーは生き続けている。