世田谷文学館開館30周年記念「ドナルド・キーン展」を初日に訪問ーー新・代表的日本人と呼ぶにふさわしい人物

世田谷文学館開館30周年記念「ドナルド・キーン展」の初日に訪問。

現館長はロシア文学者の亀山郁夫。亀山はキーンを日本文学への「殉教者」と定義している。

以下、覚書。

師匠:角田柳作(日本思想史)。

友:永井道雄(後の文部大臣)。嶋中鵬二(後の「中央公論」社長)。

敵:夏目漱石を嫌いだった。

評価:近松西鶴芭蕉

出会い:アーサー・ウエーリ「The Tale of Genji」(源氏物語

できごと:太平洋戦争に従軍し、日本兵の「日記」を解読したこと。

ライフワーク:一人で書いた『日本文学史』全18巻。「未完のライフワークにだけはしたくない」。「私の価値判断を明記する」。源氏物語から入り、現代の同時代の作家たちとの交流を深め、ついに外国人でありながら日本文学史の全体を一人で書ききるという偉業を達成する。

ドナルド・キーンは、「仰ぎ見る師匠の存在」、「敵との切磋・友と琢磨」、「持続する志」、「怒涛の仕事量」、「修養・鍛錬・研鑽」、「飛翔する構想力」、「日本への回帰」など、私が提唱する「新・代表的日本人の7つの共通項」にすべてあてはまる人物だ。

司馬遼太郎は酒席で酔って、「明治時代の朝日新聞夏目漱石を雇うことで、よい新聞になった。今日の朝日新聞をよい新聞にする唯一の道は、ドナルド・キーンを雇うことである」と朝日新聞の幹部に言い放つ。その一週間後に客員編集員になった。

司馬遼太郎ドナルド・キーンの人物評が傑作だ。「精神の温度が高いのか、たえず知的な泡立ちがある。一つの事柄を考えるとき、とっさに脳内に肯定と否定の矛盾がおこるらしく、沸きあがった矛盾の気泡が、すぐさまユーモアでもって弾ける。その破裂音がこころよいのは、きっと陽気に“”弁証法“”が完結するからに違いない。いい芸術に接しているようなものである」。キーンも司馬を作家として高く評価しているが、その人物をさらに高く評価している。

キーンは、自分自身について「運」がよかったと語っている。その運に恵まれて未開拓のテーマを選択し、偶然の「縁」から優れた友人のネットワークを身に着け、そして96歳まで一筋の道に没頭する。優れた才能が一つのテーマを一生追い続けるとこれだけの業績をあげることができるという見本でもあると思った。

日本名:鬼怒鳴門(ドナルド)・黄犬(キーン)

2012年に日本国籍を取得。2011年の東日本大震災をきっかけとした帰化はキーンの人生の総仕上げである。

養子:キーン誠己(一般財団法人ドナルド・キーン記念財団代表理事

2階の会場の展示も工夫されていて見どころが多かった。また1階で放映されていた最晩年の英国ケンブリッジ大学を訪問した時の影像もよかった。近年、マンガを含め「日本」をテーマとしている「セタブン」の企画力は近年一段と向上している。

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朝のヨガ:1時間

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「名言との対話」11月15日。藤原てい流れる星は生きている

藤原てい(ふじわら てい、1918年11月6日 - 2016年11月15日)は、日本の作家。享年98。夫は作家の新田次郎(本名・藤原寛人)、数学者でエッセイストの藤原正彦は次男である。

「1945年の敗戦とともに満州(現・中国東北部)から日本まで、3人の子をかかえ、はるかな道のりをたどった著者の魂の記録。かつて100万人が体験した満州引き揚げをえがき、戦後の大ベストセラーとなった傑作ノンフィクション!」と紹介されている『流れる星は生きている』は、ベストセラーとなった。帰国後、遺書のつもりで書いた本である。

新京(現在の長春)から、奉天(現在の瀋陽)、宣川、平壌、開城、38度線、京城、釜山、そして博多、故郷の諏訪までの、1年余にわたる引き揚げの苦難の記録である。1945年8月9日から1946年9月12日の博多到着まで。満州北朝鮮南朝鮮。38度線でのソ連兵、越えてからのアメリカ兵、日本人の集団のなかでの日本人の善悪を含めた本質。

この名高い本を読みながら、途中何度も涙が出てきた。6歳と3歳と1カ月の3人の子どもを連れた逃避行の物語だ。以下、印象に残った記述から。

わたしの病気は子ども3人の死を意味する。子どもの肺炎。餓鬼。ジフテリア。ちくしょう! 貧富の階級。餓死。乳は出ない。いかなる残虐よりも、食べられないことを自覚させるほど大きな罪はない。生きるための戦争だ。けっしてどろぼうはしていない。温飯屋の女中。栄養失調。死ぬには変わりない、出発しよう。吐き気をもよおす貨車。左右に2人、背中に1人。しだいに男言葉になっていく。一歩あやまれば溺れて死ぬ。死んだ方が幸せ。下痢の連続。パンモゴラ(ご飯を食べなさい)。足の裏。這いながら病院へ。いざりのこじき女。個人主義と嫌悪感。飢え。きたない女。憎悪の目。幽霊の姿。もう死んでもいいんだ。もうこれ以上は生きられない。

新京の観象台に勤務する夫の藤原寛人は、後の作家・新田次郎で、次男の正彦は後に数学者でエッセイストとなる藤原正彦である。このベストセラー作家二人の本は私もよく読んでいるので、どうしてもこの二人、特にきかん坊の正彦の行動に目がいく。

引き揚げ者と、その時代の日本人に大いなる共感を呼び起こしたこの物語は、1949年9月18日に映画となった。また、1982年5月10日から7月2日にかけて、TBS「花王 愛の劇場」枠の昼ドラマとしてドラマ化された。主役は島かおりが務めた。

流れる星は生きている」は、金という人から教えてもらった歌の一番最後の言葉だ。「わたしの胸に生きている あなたの言った北の空 ごらんなさいね 今晩も 泣いて送ったあの空に 流れる星は生きている」。この悲しい歌を覚えてから日本へ帰り着くまで、心の中でうたい続けた。

結婚した当時、夫は「流星は姿はなくなるけれども、流星の持っていたエネルギーは何かに変換されて生きている、そうでしょう」と、やさしく語った。藤原ていはこのときから、流星とエネルギー不滅の法則とを結びつけるようになった。それが生きるエネルギーとなったのであろう。

こういった個人的なエピソードをもとに、「流れる星は生きている」という題名をつけたことに深く納得する。このタイトルには万感の思いが込められているのだ。藤原ていは、2016年に98歳という長寿で没している。