ミラノ五輪が終わる。今回もトップアスリートたちの名言が生まれた。
- アリサ・リウ「金メダルそのものは、
別にどうしても欲しかったわけじゃないんです。 私が本当に欲しかったのは、自分が思いきり表現できる『舞台』で、それはちゃんと手に入りました。 たとえ全部のジャンプで転んでたとしても、 このドレスを着てリンクに立ってたと思います」 - 平野歩夢「本当、生きるか死ぬかみたいな。そういう気持ちはどこかに覚悟して、挑んだつもりだった。最後決めきれなくて、納得した結果にはつながらなかったけど。今自分ができることは、この状態の中ですべて出し切れたのかな。これまでやってきたことは何ひとつ無駄ではないと思うので」「順位や点数は他人が決めること。自分が納得できる『高さ』と『形』を表現できたとき、初めて自分を許せる気がする。雪の上では、僕は誰よりも自由でいたい」「だれもやっていないことをやる。それが僕のルール。リスクを恐れていたら、新しい扉は開かない。僕はただ、自分の限界がどこにあるか知りたいだけ」「本当、生きてて良かったなって。ここで初めてやるトリックとかも後半出して、最後挑んでたので。無事に、怪我なく、こうやって体が無事に戻ってきてというか。それはすごい自分の中でホッとするところはある。まあ『生きててよかったな』って、そういう気持ちに今なれているようなところはある」
- 坂本花織「滑っているときは一人だけど、心の中にはずっとみんながいました。この拍手が聞こえた瞬間、ああ、頑張ってきてよかったなって。それだけで十分です」
- 鍵山優真「プレッシャーは敵じゃない。自分がここまで強くなった証拠。それさえも力に変えて、この4分間に僕の人生のすべてを置いていく」
- 高木美保「100分の1秒の差で泣く世界。でも、そのわずかな差を埋めるために捧げた日々こそが、私の財産。メダルの色以上に、その過程を誇りに思いたい」
- 三浦瑠来・木原龍一「一人では届かなかった場所。二人だから見られた景色。私たちの滑りを見て、誰かが『明日も頑張ろう』と思ってくれたら、それが一番の金メダルです」
- 伊藤有希「メダルは取ることはできなかったけど、今まで私がさせていただいた経験と、携わってくださった方々が、私にとっても金メダル以上に大切なものだったっていうことを感じた。幼い頃からの夢である『オリンピックで金メダルを取る』っていう夢は、達成できたんじゃないかな。今までのオリンピックで一番、空が綺麗に見えた気がする」
- 渡部暁斗「桜、咲いてましたね。満開だった。ここに来て季節外れの桜を、咲かすことはできなかったけど、最後の花びらの1枚が散っていくまで、皆さんに見ていただけた。最後に道半ば散っていった桜が、この先を行く若い選手たちの道標みたいなものになってくれたら本望」
- 吉村紗也香「ここまでみんながついてきてくれて、本当に感謝したい。日本のカーラーの皆さんの分も背負って戦って、結果はうまくいかなかったけど、皆さんが一生懸命応援してくれていることを知っていたので。結果として残せなかったのは本当に悔しいけど、この舞台でみんなと戦えて幸せな時間だった」
- 竹内智香「本当にお腹いっぱいというか、もう十分と思って終われて、本当に幸せな終わり方。(スノーボードは)教科書みたいな存在。世界中いろんなところに連れて行ってくれて、いろんなことを教えてくれて、たくさんの人たちに出会わせてもらった」
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ミラン五輪を詠んだ私の川柳
銀メダル 悔し嬉しの 交差点
神業の さらに上ゆく 人がいる
あげたいな 4位の人に レアメタル
冬五輪 夏五輪より ホットです
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八王子のファームヴィレッジ「磯沼牧場」で私たち夫婦と娘と孫の4人で遊んだ。



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2月22日。三浦環。高浜虚子。
宮武外骨「露骨正直天真爛漫、無遠慮」
三浦環「日本人は国内だけで威張り、日本のことしか考えないで、世界のこのことを忘れていたから、今度の戦争にも負けたのです」
木滑良久「鍛えられた研ぎすまされた直感が全て」
谷啓「60歳になっても、まだあんなことやっているということをやった方が 人の励みになる」
高浜虚子「春風や 闘志抱きて 丘に立つ」
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「新・代表的日本人」2月22 日。三浦環「日本人は国内だけで威張り、日本のことしか考えないで、世界のこのことを忘れていたから、今度の戦争にも負けたのです」
三浦環(みうら たまき、1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日)は、日本で初めて国際的な名声を得たオペラ歌手である。享年62。
東京都中央区生まれ。1903年、東京音楽学校在学中に奏楽堂で日本人による最初のオペラ公演を行う。卒業後は母校の助教授となる。1911年、帝国劇場歌劇部の主席歌手として迎えられる。1913年、三浦政太郎と再婚。翌年5月に渡欧し、ロンドンで演奏会を開き人気を博した。1915年、ロシアの名歌手ロージンとともにプッチーニ作曲『蝶々夫人』を歌い、大好評を得る。その歌声は作曲者プッチーニ自身から「わが夢」と激賞された。以後、欧米各国で20年間にわたり、きっちり2000回「蝶々さん」を演じた。
1935年に帰国。翌年、2001回目の『蝶々夫人』公演を歌舞伎座で開催した。以後、死去までの10年間は日本で演奏および教育活動を行った。三浦環は「マダム・バタフライ」と称され、世界に知られたオペラ歌手であった。
三浦環が「蝶々さん」に扮した姿の銅像は、プッチーニの銅像とともに長崎市のグラバー園に建っている。2006年にグラバー邸を訪問した際、私も見学した。
三浦環と親しい付き合いのあった吉本明光の『三浦環のプロフィール』を読んだ。吉本の評によれば、見栄を飾らず、直情径行で、そして天真爛漫な人であったという。
31歳から52歳までの20年間、ヨーロッパとアメリカでプリマドンナとして生活した、まさに国際人である。72歳まで歌うと言っていたが、晩年には「生きているうちだけは歌をうたい、皆さんに楽しんでいただきたいと考えています」と語っていた。
死の間際、外国人牧師が「あなたは幸福ですか」と尋ねたところ、三浦は英語で「幸福です。私は天国へ参ります」と答えた。それが最後の言葉となった。
三浦環という国際人は、太平洋戦争中の空襲も経験している。そして「日本人は国内だけで威張り、日本のことしか考えず、世界のことを忘れていたから、今度の戦争にも負けたのです」と喝破した。
三浦環が強く感じた日本人の内向きの性癖は、今も変わっていないように見える。
