学部運営委員会。イベントサイト「イマタマ」で連載を開始。

・杉田学部長:会議の打ち合わせ

・10時40分:学部運営委員会:入試の「質」対策とホームゼミのあり方が中心テーマで白熱。

・松本先生

・中村その子先生

・金先生・杉田先生

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13時:イベントサイト「イマタマ」を運営する「グッドライフ多摩」石原さんらが来訪。「イマタマ」のマガジンで連載を始めた「多摩人物記念館散歩」の打ち合わせ。記念館の紹介をし続けて、本にしてみようか、、、。

人物記念館 散歩 第1回 太宰治文学サロンと禅林寺 | イマ de × タマ マガジン

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「名言との対話(平成命日編)」6月20日早坂茂三「世間に媚びを売らず、背伸びせず、自分を深く耕して一芸を身につけ、淡々とわが道を進む」

 早坂 茂三(はやさか しげぞう、1930年6月25日 - 2004年6月20日)は、日本政治評論家

早稲田大学政経学部卒。東京タイムズの記者を経て、取材で知り合った大蔵大臣田中角栄の政務秘書となり、早坂は33歳から23年間疾走する。「オレは十年後に天下を盗る。お互い一生は1回だ。、、どうだ。天下を盗ろうじゃないか」が大蔵大臣だった田中角栄口説き文句だった。

12歳年下の早坂は、田中角栄という傑物と日本の政治のど真ん中で一緒に戦ってきた。その体験から生まれた深い人間観察は、角栄の死後もメディアを通じて角栄の残像を示してくれた。不世出の英雄・田中角栄語り部である。角栄は人を惹きつけてやまない磁力を持ち、早坂は人に惚れ続ける熱いエネルギーを持っていた。

角栄はゴルフでは一日最低2ラウンドまわる。4ラウンドの記録もある。角栄が歩く速さは百メートル20秒!という猛スピードだった。私もゴルファーの一人だから、その体力が尋常ならざるレベルだとわかる。

以下、角栄語録。「(役人)は法匪だ。、、だから俺が鳥になって、空から道を示してやるのさ」「ウソをつくな。すぐばれる。気の利いたこちを言うな。後が続かない。他人の悪口を言うな。嫌われる」。

自民党幹事長時代に母・フメは「おら家のアニは東京で何か悪いことをしているんじゃござんせんか」と語り、英国人ジャーナリストを感動させている。そういえば、私の叔父の一人が東京で活躍していたとき、その母親(隠居のおばさんと呼んでいた)は私に「週刊誌に出るようなことはするなよ、と伝えてくれ」と言っていた。洋の東西を問わず、母親は常に心配性なのだ。

写真屋、カメラマン、山本君、山ちゃんとだんだん呼び方が昇格していった山本皓一が撮った写真集『田中角栄全記録』の一枚が角栄の「遺影」となっていて、「カメラマンの本懐だ」と山本は言った。遺影に使われたのは冥利に尽きることだろう。よく知られている車椅子の角栄の写真を空から偶然に撮ったのも山本だ。この人とは私は日航時代に一緒に旅をしたことがある。

以下、早坂語録。「危機に直面したとき、トップがどんな決断をするか、見事にはらを据えられるか、それが組織の運命を決定する」。「自らを信じ、他人に頼らず、甘ったれず、痛手に耐えてやり過ごし、目的の実現を計る情熱と意志の持続である。そして実行だ」。

早坂の68歳のときの著書『男たちの履歴書』は、角栄自身と彼を巡る男たちの物語であるが、同時に早坂茂三の履歴書になっている。登場人物は、角栄の刎頸の友、入内島金一と細井宗一を始め、梅棹忠夫もでてくる。早坂の勧める『言集』ラ・ロシュフコー(角川文庫)も読むことにしよう。

早坂茂三の人生の軌跡を眺めると、「背伸びせず、自分を深く耕して一芸を身につけ」ることに邁進した人だったと思う。それは、自分をよく知りわきまえて、自分をよく知る人とともに歩んだ早坂という男の人生観と処世術である。深い共感を覚える。

 

 

 

石牟礼道子「祈るべき天とおもえど天の病む」瀬戸内寂聴「子を捨てしわれに母の日喪のごとく」

『俳句αあるふぁ』夏号で、石牟礼道子(1927年生)と瀬戸内寂聴(1922年生)の俳句が目に入った。共通するのは「子を捨てた」ことである。

小説、エッセイ、伝記、シナリオ、能、狂言、詩、短歌、俳句、、など文芸のあらゆるジャンルに優れた作品を書いたが、晩年に一番親しんだのは俳句である。以下、石牟礼道子句集『天』と全句集収録の句から。

・死におくれ死におくれして彼岸花

・祈るべき天とおもえど天の病む

・毒死列島身悶えしつつ野辺の花

・いかならむ命の色や花狂い

・さけがけて魔界の奥のさくらかな

・花ふぶき生死のはては知りざりき

彼岸花 棚田の空の炎上す

・あめつちの身ぶるいのごとき地震くる

・わが道は大河のごとし薄月夜

「わたくしは水俣病がなければ、自分がそこに生まれ育った世界をこれ程ふかぶかとのぞたであろうかと思う」

 

瀬戸内寂聴句集『ひとり』から。

・子を捨てしわれに母の日喪のごとく

・独りとはかくもすがしき雪こんこん

「死の間際に私に残るものは俳句だな、と今は思っております」

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「名言との対話(平成命日編)」6月19日。美川英二「交際費をたくさん使って一流の人達と一流の場所でたくさん会いなさい。そうすれば人を見極める力が養えるはずだ」

美川 英二(みかわ えいじ、1933年8月17日 - 1999年6月19日)は、日本のラグビー選手、実業家。横河電機社長。

慶応のラガーマンだった美川は、入社した横河電機でコストダウンによる利益捻出作戦=「新幹線発想法」などを打ち出す。この考え方は米国GEのウエルチ会長の目に留まり、GEグループのコストダウン活動の基本的考え方として採用され幹部学校のテキストにまで載っている。59歳で社長になるが、破綻した山一証券の中年層を20名採用している。ウェルチと親交があり、入院した際には、自筆の見舞状をファクスで送って、ウエルチがいたわった。家族主義の温情的な会社であった横河電機年俸制や実力本位の人事を導入した。雇用は守る、給与なども最高クラスを出しているが、厳しい社内改革も必要という考えだ。

美川が社長だった当時、社内ベンチャーとして起業したキューアンドエー社(地域密着型のパソコン販売店)の金川裕一が、「そこまで言うのなら、やってみろ」とゴーサインを出した時、社長の心得として言われて、後に身にしみた言葉である。

美川英二の言葉を眺めて思い出すのは、企業に勤務していた30代の頃、「会社の金と自分の時間を使っていい仕事をしろ」と語ってくれた人事労務担当の上司と、「金の使い方が足らん」と叱責された広報課長の上司の言葉だ。社内の現場の人たちの本音をくみ取る。社外の異業種の先頭を走る人々と会い世の中の動きを察知する。もう一つ、社外のビジネスマン勉強会にも参加し活動し、先輩の指導を受けて時代の最先端を切り拓いている講師陣からも刺激を受けた。そういう社内外の案内人の指導を得て、なんとか組織人としての仕事をこなすことができた。

美川の言うように、組織のトップになると一流の人との接触による鮮度の高い情報入手と人物の見極め、そしてトップのあり方への示唆が、直接・間接に業績に直結するようになる。美川英二の葬儀時の奥様は「英二は戦士の如く働いたと思います。最後だけは私の我侭をお願いして家族だけで過ごすことが許されました」とお礼の言葉を述べた。何か切ない気もする。

 

 

 

会議二つ--アクティブラーニングと入試「質」対策

 

大学

・10時40分:アクティブラーニング支援センター運営委員会:経営情報学部、グローバルスタディーズ学部、大学院の責任者・担当者。授業評価。図書館。ICT教育。

・12時半:入試「質」改善対策ミーティング:杉田学部長、金入試委員長と。

14時半:高野課長:出版会

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「名言との対話(平成命日編)」6月18日。山本直純「直純死すとも音楽死せず!」

山本 直純(やまもと なおずみ、1932年12月16日 - 2002年6月18日)は、日本作曲家指揮者

山本直純東京芸大の作曲科から指揮科に転じた。後輩の小澤征爾は後に「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ」と述懐している。大衆の中に音楽を通じて飛び込んでいく仕事をライフワークとしたが、それは大学指揮科在学中に眼を患い、視力の著しい低下から次々に新しいスコアを読み込み暗譜してコンサートに乗せることに不安を覚えるようになったからである。少年時代に読みふけった太田黒元雄『歌劇大観』の影響もある。

博学の山本の蘊蓄を聞いてみよう。「ギリシャ悲劇の出演者と観客の間に応援団がいる穴をオーケストラと言った。歌舞伎で効果音を出す下座である。その後、王侯貴族の使用人となった親衛隊がステージの上に登・第一バイオリンがなるコンサートマスターが臍である」「オーケストラを聴くのにいいのは、天井桟敷、左の真ん中、二階の前の左側」「比較的寿命の長い楽器は、ヴァイオリン、ピアノ、そしてオペラ歌手で、オペラ歌手は40、50を超えてから完成することも可能で、遅咲きの人も多い」「音楽ほどすばらしいものはない。その音楽を趣味にもった人間は幸福である。が、ひとたびそれを職業としたとき、それは音が苦となるからだ」「呼吸法の訓練にもなるフルートは結核などの病気にいいし、舌がよくまわるようになり、フルートの半分の長さのピッコロは牛若丸の横笛のようなものだ」私がいつか楽器を始めなら、ピッコロからにしようか。

大学在学中からテレビや映画の分野に積極的に進出し、ポピュラーからクラシックまで幅広く作曲活動を行うようになる。同時に、テレビなどを通したクラシック音楽の普及・大衆化に力を注いだ。山本直純を有名にしたのはテレビ番組「オーケストラがやって来た」である。1973年から10年間の人気番組で、音楽を全国の茶の間に届けた。私もこの番組で愉快なオジサンの姿を見、とをよく聞いたものだ。1982年から1998年までサントリー佐治敬三社長の後押しで行われた大阪城ホールの「1万人の第九」を成功させるなど、クラシックの大衆化に力を注いだ。

指揮者としての座右の銘は「名馬ムチいらず」。オーケストラが動きたいようにうまく乗ることが大事だという意味だ。先生の斎藤秀雄が言った指揮法として優れたアドバイスだ。斎藤秀雄小澤征爾岩城宏之尾高忠明らを育てた人だ。指揮についてのシステムを確立し、指揮法を後進に伝えた唯一の日本人だ。斎藤の父は斎藤秀三郎といい、日本の英和辞書を初めて編纂した人である。

「直純死すとも音楽死せず!」と叫んで指揮台からステンコロリと落ちて死にたいと願った山本直純は、急性心不全のため69歳で死去した。鹿児島県南種子町郷土館内に1998年に「山本直純音楽記念室」が開設された。墓石には上田敏の訳詩集タイトルの「海潮音」の文字が彫られている。

山本直純クラシック音楽の大衆化による人々の民度をあげ、幸福度をあげる仕事をライフワークにして、その道を迷うことなく歩んだようだ。確かに「直純死すとも音楽死せず」だ。山本直純は大衆に音楽に親しむきっかけを与えた影響力の大きい偉い人である。 

オーケストラがやって来た

オーケストラがやって来た

 

 

7月発刊の新刊の見本が届く。

7月発刊の久恒啓一編著『偉人の誕生日366名言集』(日本地域社会研究所)の見本が届いた。昨年の「命日編」とこの「誕生日編」で上下巻がそろった。

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今年毎日書いている「名言との対話(平成命日編)」で、なかなか人が見つからなかったため、抜けている日が4日あった。それを埋めることに着手。情報を集め、補完していこう。

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「名言との対話」6月17日。宿沢広朗「銀行が必要ないと言えば、ラグビーに賭ける覚悟はある。ただ、両方やっていないと、価値がないんじゃないかと思う」

宿沢 広朗(しゅくざわ ひろあき、1950年9月1日 - 2006年6月17日)は、埼玉県出身の元ラグビー選手、ラグビー日本代表監督。

埼玉県立熊谷高等学校ラグビーを始める。東大紛争により入試が中止されたため、早稲田大学政治経済学部へ進学した。早稲田時代は、160cmと小兵ながら、卓越したゲームコントロール、機敏なプレー、果敢なタックルで2年連日本一になるなど続黄金時代を牽引した。

卒業後は1973年に住友銀行(現・三井住友銀行)に入行し、1977年末より7年半ロンドン支店に駐在。帰国後は主に為替ディーリング畑で過ごし、取締役専務執行役員コーポレートアドバイザリー本部長を務め、本業においても優れた実績を残した。

この間、1994年早稲田大学ラグビー部の監督に就任し、支店長職と兼任した。毎週水曜日だけは定時に退社してグランドに駆けつけ、後は土日祝日を利用していた。1989年から1991年まで日本代表監督となった。ラグビーの用事は、基本的に土日祝日・有給休暇しか使わないという方針を貫いている。1989年5月28日秩父宮ラグビー場IRB(国際ラグビーボード)所属のスコットランドに、平尾誠一主将のチームで28-24で勝利した。そして第2回ラグビーワールドカップ(1991年)では、監督として日本代表の初勝利を得ている。「本当に必 要なことは絶対に勝てということより「どうやって」勝つのかを考えて指導することであり、具体的にかつ理論的に 頑張るのか指導すること」、これが宿沢監督の方針だった。

座右の銘は「努力は運を支配する」「勝つ事のみ善である」。講演会などで「戦略は大胆に、戦術は緻密に」「リーダーは選ぶものではなく、育てるもの」と自身の信条をよく述べていた。

宿沢の言葉は、ラグビー指導者にとどまらず、組織人としての教訓にも満ちている。

・いつも背伸びして、手を目いっぱい挙げ、その指先が届くかどうかのレベルにチャレンジする事だ。辛いけど、そうすれば自身が磨かれる、成長できる。

・会社員にとって『自分がやりたい事』と『人事や周囲の人たちがやらせたい事』は往々にして違う。仮に違っても、それはそれでチャンスだと思う。

・サラリーマンの醍醐味は『組織の長として自分の思うように組織を動かせる』事に尽きる。それを経験せずにサラリーマンを論ずることはできない。

日本の代表的銀行で出世を果たしながら、ラグビー監督としても大活躍するという二足の草鞋、いや現代流にいえば正真正銘の「二刀流」を見事に成功させた。宿沢は両方をギリギリまでやることに価値があると考えたのだ。この心構えとそれをやり遂げたのは見事だ。登山中に心筋梗塞を発症し55歳で急逝したが、そのまま突き進んでいたら、どのうような生涯を送っただろうかと同世代の英雄の姿を想像する。

 

  

TEST MATCH―宿沢広朗の「遺言」 (講談社+α文庫)

TEST MATCH―宿沢広朗の「遺言」 (講談社+α文庫)

 

 

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今年書いている「名言との対話(平成命日編)」で、抜けている日が4日ある。それを埋めることに着手した。未完。

 

「名言との対話」2月29日。鏡里喜代治「10番勝てない時だ

鏡里 喜代治(かがみさと きよじ、1923年4月30日 - 2004年2月29日)は、青森県三戸郡斗川村(現・青森県三戸郡三戸町)出身の元大相撲力士。第42代横綱

太鼓腹を活かした寄りが得意で、右四つで左上手を引きつけて、相手を太鼓腹に乗せて浮きあがらせ、悠然と寄り切っていくという取り口だった。69連勝の双葉山を師匠として直伝の野雲竜型の横綱土俵入りの見事なせり上がりは「動く錦絵」と称された。鏡里は生涯記録の幕内勝ち星のうち、実に40%は「寄り切り」だった。

横綱昇進後、不振が続いた鏡里は、場所前に「10勝できなければ引退する」と記者に語った。結果は9勝にとどまり、千秋楽をもって引退する。同じ場所に、三役時代からライバルだった筋肉質で八等身の吉葉山は9日目に引退している。吉葉山との取り組みは明治時代後期に「梅常陸時代」と呼ばれ、相撲黄金期を築いた梅ヶ谷藤太郎常陸山谷右エ門の対決を彷彿とさせた。

食生活と過激な運動習慣に影響で、一般的には相撲取りの寿命は短い。そのような中で横綱が60歳の還暦を迎えることはめでたいとし、赤い綱を締めて土表入りをすることになっている。近年では大鵬の例を思い出す。鏡里はリハビリ専念中であったため還暦土俵入りはしなかった。80歳で没したが、これは横綱としては梅ヶ谷の83歳、若乃花の82歳に次ぐ長寿であった。

1958年1月場所で不振だった鏡里へマスコミが横綱の責任とは具体的には何かと問い、「10勝勝てない時」に責任を果たせたとは言えないと回答。10勝にわずか1勝届かなかったため、潔く引退。 出処進退のきれいな有言実行の横綱だった。

 

 

「名言との対話」4月19日。高橋節郎「絵心、詩心、遊び心が芸術家の三大要素である」

髙橋 節郎(たかはし せつろう、新字体高橋 節郎旧字体高橋 節郞1914年大正3年)9月14日 - 2007年平成19年)4月19日)は、日本の芸家である。

当初は画家志望だったのだが、父が画家になることに反対し、やむなく東京美術学校では工芸科漆工部に入学する。日々漆という素材と格闘するうちに、漆の魅力に惹かれ、「漆で絵を描こう」と方向を定めていく。

初期の多彩な色漆による表現から、深い黒をベースに金と朱に移行し、そしてさらに黒と金のみの表現へと進んでいった。都市の情景や詩的人物をへて、独特の幻想世界へと広がっていく。化石、古墳、星座などがモチーフとなっていく。日本独特の工芸美と欧米の近代美の融合がテーマとなった。

漆は色を出すには大変難しく、かつ時間がかかる。漆黒の黒と蒔絵の金は、漆の世界にしかない美しさである。そして幅の広い塗料でもあり、高橋によれば「漆の世界は、ペンダントから日光東照宮まで」扱えるのだそうだ。しかし素材に引きずられることを戒めていた。作家にとって一番大切なのは、感性であり、さらに哲学や思想であると考えていた。

1976年に母校の東京芸大の教授に就任。感性と想像力の教育に力を注いだ。学生たちには幅広い読書をす勧めた。1990年には文化功労者に顕彰された。1999年には愛知県豊田市豊田市美術館・高橋節郎館が開館。工芸科の個人美術館は珍しく芹沢けい介、藤原啓、河井寛次郎などがあるが、漆芸作家は高橋節郎だけである。作家冥利に尽きると感謝し、自らの仕事を全部並べている。

絵心、詩心、に加えて、遊び心を芸術家に必要な要素とあげている。体や頭だけでなく、人間だけが持つ心を満足させる遊びを挙げているのはさすがである。芸術という至高の分野は遊びと密接な関係がありそうだ。

 

漆 高橋節郎黒と金の世界

漆 高橋節郎黒と金の世界

 

 

「名言との対話」6月14日。谷岡ヤスジ「「鼻血ブー」「アサー!」「オラオラオラ」」

谷岡 ヤスジ(たにおか ヤスジ、男性、1942年8月29日 - 1999年6月14日)は、日本漫画家

1970年、『週刊少年マガジン』に連載した『ヤスジのメッタメタガキ道講座』で大ブレイク。作品の中の「アサー!」、「鼻血ブー」は流行語となった。この作品は大学生時代によくみかけた。「全国的にアサー」「全国的にツギノアサー」「ユーガター」「ショーガツー」「「ヒルに近いアサー」「ポカポカ-」などで場面やその展開が一発でわかる。父と母との本音のコミュニケーションをとるガキ、普通の家族の日常風景、勉強を巡る父母とのイザコザ、先生の偽善を暴露する生徒、、、、。

ナンセンスギャグで人気が出た谷岡は、文芸春秋漫画賞をもらい、活躍が期待されたのだが、1999年に56歳で夭折する。

登場キャラクターは殺されてもすぐに復活するし、作風はエログロナンセンスであっても、谷岡の作品の底流に流れているのは、どうしようもない人間という存在にに対する深い愛情のように思える。

 

 ヤスジのメッタメタガキ道講座―もうひとつの「少年マガジン黄金時代」

 
 「名言との対話」4月4日。佐々木高明「照葉樹林文化論」
佐々木 高明(ささき こうめい、1929年11月17日 - 2013年4月4日)は、日本の民族学者。国立民族学博物館館長。
中尾佐助とともに、照葉樹林文化論を構築し、提唱した。マツ、スギを中心とした針葉樹ではなく、シイ、カシ、ブナ、クスノキなど光沢の強い深緑色の葉を持つ樹木に覆われた表面の照りが強い樹木で構成された樹林である。
ヒマラヤから西日本の広がる照葉樹林帯では、森によって育まれた共通の文化が誕生した。モチ、ナットウを食べ、茶を飲み、カイコや漆を利用する。高床吊り壁の家に住み、歌垣、山の神信仰医、そして山の中にあの世があると信じる。この文化のセンターは中国湖南省から雲南・北ビルマブータンに至る「東亜半月弧」であるとする。「外国の引用文献などではなく、自分で調査した結果にもづいて語れ」という京都学派の風土の中で生まれた理論の一つが梅棹忠夫の「文明の生態史観」と中尾・佐々木の「照葉樹林文化論」だった
日本の民族学では、明治以来、特に戦後は日本人のアイデンティティについての研究が盛んになり、この理論は学界だけでなく、広く受け入れれた。西欧文明は西アジアの半感想地帯の草原がルーツであり、東アジアの照葉樹林文化は、大和森の生み出した文化である、という理論である。
この佐々木らの理論は「文明の生態史観」とともに、西洋を相対化するという視点で、戦後の日本人に自信を持たせたのである。文明の生態史観は西洋と日本は親せきであるとしたが、照葉樹林文化論はアジア世界の中に日本を位置づけた。

 

照葉樹林文化とは何か―東アジアの森が生み出した文明 (中公新書)

照葉樹林文化とは何か―東アジアの森が生み出した文明 (中公新書)

 

 

 
 
 

 

 

 

インターゼミ(社会工学研究会):研究計画発表会を開催。

インターゼミ(社会工学研究会):研究計画発表会を開催。

 

サービス・エンターテイメント班「日本の消費の原女医と今後の展望」

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地域班「ソーシャル・キャピタルから紐解く持続可能な地域社会--若者が考える豊かな地域とは」

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 多摩学班「100年時代を幸せに過ごす社会システムの要件とは」

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AI班「くらしを助けるAIとしごとを取って代わるAI」

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アジア・ユーラシアダイナミズム班「モンゴル帝国の興隆と衰退--大英帝国との比較を通して」

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「名言との対話(平成命日編)」6月16日。住井すゑ「生きるとは創造すること」

住井 すゑ(すみい すえ、1902年1月7日 - 1997年6月16日)は、奈良県出身の小説家。享年95。

講談社の婦人記者を経て文筆活動に入り、小説・児童文学などを執筆する。小学館児童文化賞第1回受賞者。農民作家犬田との結婚後は、ともに農民文学運動を展開した。被差別部落の問題を描いた、未完の長編『橋のない川』が代表作である。

1944年の秋、住井すゑは「戦争には負ける」「降伏は遅くとも来年の初夏あたりだ」「天皇はラジオ放送で降伏を国民に告げる」「その後間もなく農地解放が行われる」とと予言し、頭の固まっている男達は反論したが、その予言通りに歴史が進行した。

・教育の要諦は「嘘を教えない、嘘をつかせないこと」

・ものを書くのは40歳からだ。人間は一年増しに賢くなる。知恵は自分から生まれ出るものだ。

・定年制は資本主義の落とし子であり、それを認めるから老後になってしまう。人間の天職は人間であることであり、人間ひとすじに生きている場合は、人間という思想を持っているから、生涯、現役なのだ。

・自分の一生は一番よかったと、自分で思えるように、毎日を人間らしく精一杯生きていきたい。

・芸能の中で最高のものが落語。能や歌舞伎は権力の側についている太鼓持ち的な芸。

6歳、小学2年生のときに『古事記』を読んで、「いつか新古事記をかいてやる」と決意する。それから50年間、材料をあたため、55歳で夫が亡くなった後、56歳から書き出す。それが『橋のない川』になったのだ。70歳過ぎまでの15、6年間で5000枚の原稿になっている。

橋のない川』は1部から7部まで刊行されたが、第8部は表題のみを残し作者のすゑが死去している。全編を通じて部落差別の理不尽さ並びに陰湿さが書かれており、水平社宣言をもって締めとしている。1969年 - 1970年と1992年の2度にわたって映画化された。野坂昭如日本書紀古事記もウソだということが、わかった。『橋のない川』が本当だ」と評価していいる。

天皇制批判であるから、書いているうちに殺されることも自覚していた住井すゑ本人は2000年時点で500万部売れていた『橋のない川』は長い未来にわたって千万冊は売れると予言している。現在既にに800万部を超えている。住井すゑは歴史を知る上で日本人には読む責任があると語っている。この予言もあたりそうだ。これは読まねばならない。

56歳からライフワークに本格的に取り組んだ住井すゑは、書くのが面白くて朝は寝ていられずに書きまくった。その時間が青春のときであった。長い準備期期間を過ごした後に、創造の喜びを手にし、古事記にかわる歴史を完成させたのだ。その勇気と気概に敬服する。 

住井すゑ 生きるとは創造すること (人生のエッセイ)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝は学部授業「ビジネス・コミュニケ-ション」で「図解広告」。夜は大学院授業「インサイト・コミュニケーション」で「図解文章法」。

夜の品川キャンパスでの大学院の3時間の授業「インサイトコミュニケーション」の5回目。テーマは「図解文章法」。講義。解説。演習1。演習2。グループ討議。

参考文献:久恒啓一『図で考えれば文章がうまくなる』(PHP研究所)と、久恒啓一『合意術』(日本経済新聞社)。

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 以下、受講生の感想。

・本日は図解を用いた文章作成を学びました。文章を先に書いてしまうと、ムダな表現や重複表現が生じたり、肝心な説明が抜けていたりすることが往々にしてありますが、先に図解で構成を考えることによって、文章のムダや重複が大分省けると思いました。本を書く際にもよく目次(構成)から作る、という作業があるかと思いますが、図解と目次の双方で考えおくと、より整理して文章化できると思いました。先日、ある説明会でプレゼン資料に基づいた説明を聞く機会がありましたが、口頭では説明しているのに、肝心のプレゼン資料には大事な項目の記載がありませんでした。文章も同じことで、文章を書く前に言いたいことを図表化して項目を予め整理することが必要だと思いました。また、数学の教科書も、章ごとの構成を図表化すれば、数式の理解が進みやすいと思いました。図表化して章ごとのつながりが分かれば、苦手意識が生まれにくくなりそうです。

 ・文章=内容×表現 (表現のノウハウ本は多いが、多くの人が知りたいのは内容の考え方) ・同じ図でも文章は人により異なる ・図解の使い手は翻訳家 ・論文は図解から
 ・部品をたくさん作る→関係性(矢印)で全体図に。今回はいつもと逆で図から文章を作る演習でした。シンプルに表現された図から多くの文章が書けることを実感しました。また、図があると内容はぶれないので、文章の繋げ方や表現に注力して作成することができました。

・先生の図解のおかげで短い時間の中で、論文に関する5冊の本の要点をおさえることができ、大変勉強になりました。図解の凄さを実感しました。授業では、図解から文章を作成しましたが、関連する内容を接続詞で繋いでいくことで、スラスラと文章を書くことができたので驚きました。1枚の図解に落とすことで、全体を俯瞰してながら、項目の整理やつながり、関連性について考えることが如何に重要かを理解できました。
修論にも活用できるよう、これからも図解の練習に励みます。来週も宜しくお願い致します。

・今日の授業はこれまでと違い図解から文章を作成しました。こんなに簡単に文章が書けるとは驚きでした。矢印は接続詞、この使い方やつながり、関係性を考えることにかなり気を遣いました。設計図があり、接続詞を学ぶとラクに修論が書ける図解がメッセージになるように、そのためにはメッセージとは何か、を明確にすること。短文かつ「が」の使い方に、まずは気を付けて図解のクセをつけていきたいと思います。

・今回はこれまでの講義とは逆の図解から文書を作成しましたが、図解の偉大さが実感できました。図解があれば文書を作成していても論理的に構成でき、文書を書くことが苦手であることを忘れる事ができました。また、接続詞(関係詞)の重要性が体感出来ました。修論を作成していく上でも貴重な手法を知ることが出来、後は練習あるのみです。次週も楽しみにしております。

文章読本の流れ、文章の書き方。今回の授業は、図解を見ながら文章を書く授業でした。この授業で気がついたことは、すべての図解を取り入れることは難しい。そのために自分がキーであると思う図解を強調する。文章の中に出てくる書物についての出典を明確にしておく。各章にストーリーを与え読みやすくする。長文は書かずに短文を繋げる。序論に主題を明確に記載し、結びで数行にまとめる。以上今回の文章作成で学びました。授業の回を重ねるごとに自分が成長していることを実感する講座です。

以下、留学生。

・今日の授業は図解から文章を作成しました。文章書き方はどんどん理解できるようになりました。論文書きはテーマが決めて、、論文の構造を考えることになります。又、論文で重要なのはメッセージだとわかりました。そうすれば論文がうまく書けるようになっていく理解できました。先生の授業では留学生の私にとって、知識ではなく、日本語も大変勉強になります。先生、ありがとうございました。

 ・今日の授業は先生から論文の作成方法の図解ついての授業をしていだだきました。本当にsurpuriseした。これは論文の作成に直接に役立つと思います。ますます先生の授業が好きなりました。私達のグループの韓国代表は私達の東亚联盟の感想を非常に上手く現していました。私の図解は初めより上手くなったと言われましたが、😩😭新しい図解をしましたので時間がかかりました。やはり日本語がまだ不得手の私が論文を書く時には、先生の本の役に立つと思います。明日、接続語など教えていただいた本『図で考えれば文章がうまくなる』を注文します。

・図から文章に転換することをやりました。凄く面白いです。勿論、難しいところもあります。図を読みながら、文章を書く時、最初で、どこから書いた方がいいですか、また、最後に、どうやってまとめますか。

・全体像の重要性について以前より感じました。中国でも、文章を書く前に、先に内容全体のアートラインを列ぶから文章を書くと言うテクニックがあります。今回、先生の授業を受けて全体像から文章に書く方法も勉強して、良い練習になりました。自分の論文にも実際に試してみます。しかし、文章から図表も、図表から文章も、どちらも簡単ではありませんと、再び分かりました。練習して、上手い図を書けるように頑張ります。

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午前と午後は多摩キャンパス。

・10時:橘川先生:児玉・高崎。桃原・西村。北田。、、、。いつものことながら仕掛けがすごいや。

・10時40分:ビジネスコミュニケーションの9回目の授業。「図解広告」を作成。

・山本さん:Tスタでのその子先生との録画日程。

 ・客員の河合先生と懇談:ドラマの歴史監修者の仕事などのひろがり。

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 「名言との対話」6月15日。酒井田柿右衛門「職人は不器用な人がいい」

14代目 酒井田 柿右衛門(14だいめ さかいだ かきえもん、1934年8月26日 - 2013年6月15日)は、有田焼を代表する陶芸家で、“酒井田柿右衛門”の14代襲名者。

 多摩美大で日本画を学ぶ。卒業後、父の13代柿右衛門に弟子入り。1982年、父の死を受け14代目を襲名。このとき48歳か49歳。 父と祖父が甦らせた「濁手」(にごして)の技法を学なんだ。この白は柿右衛門の特徴である「赤絵」がいちばん引き立つ生地であり柔らかい白みだ。14代は海外での展覧会は高い評価を得た。2001年に重要無形文化財「色絵磁器」の保持者(人間国宝)に認定された。

JR九州のクルーズトレイン「ななつ星in九州」の洗面所に使用されている洗面鉢が遺作となった。これは鉄道デザイナーの美戸岡悦史と一緒に実現したもので「14代酒井田柿右衛門JR九州の豪華列車」というテレビ番組で紹介され見たので親しみがある。柿右衛門については、根津美術館肥前磁器の華 伊万里 柿右衛門 鍋島」展で、そして渋谷の 財団法人戸栗美術館でも私も堪能した。

「綺麗ではありますが美しくはない」「ヨーロッパの方々というのは美しいと綺麗の区分が分からん」「美を生み出す技術というのは手にある」「やきものは底と口縁部がいちばん大事。器の品格は口縁の反りと高台の厚みにでる」

 柿右衛門様式の世界は膨大な深さと広さがある。それを継承させ、それが継承者の個性につながるのがいちばんいいと14代は言う。様式のなかで個性を出すということだ。色をながく保ち続けることには大変な苦労があるのだ。

 よく一緒に遊び回っていた親友の中島宏人間国宝)は、14代を襲名したら人が変わったように真面目になったと回想している。最初にやきものの原点である食器展を開催。窯の中を改革。きれいに整理して立て直し、仕事をしやすいように立派な工房にした。海外で数多くの展覧会を開催。「14代は柿右衛門を現代に甦らせ、柿右衛門様式をインターナショナルにした中興の祖」である。17世紀初めに、秀吉の朝鮮出兵で陶工を佐賀有田に連れ帰ったのが始まりで、1600年代前半から400年余もバトンを繋ぎ続けてきた柿右衛門というアイデンティティを取り戻した。後輩をたくさん育てた。そしてやきものの啓蒙運動を続けた人だ。

小さな湯呑み茶碗でも数十人の職人が要る。技術の連鎖、職人の連鎖が連なって小さな湯呑み茶碗を完成させる。一人前の職人になるには20歳からはじめて50歳になるくらいまで努力が必要であり、ロクロが一人前にひけるには少なくとも20-30年はかかるのだ。作家は自分自身の世界を築くことが目的であり、職人の修行とは違う。職人は不器用な人がいい。「作家先生になるのか、窯のオヤジになるのか」、は名窯に生まれた者への宿命の問いだ。器用な人はなかなか根気が続かない。不器用な人は修行という態度で一心で時間と労力を注ぐ。落語など伝統芸能の世界でも同じ言葉を聞く。不器用は一種の才能だ。

遺言:愛しき有田へ

遺言:愛しき有田へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見城徹『読書という荒野』(幻冬舎)。午後は湘南キャンパスで会議、リレー講座のライブビューイングをみる。

見城徹『読書という荒野』(幻冬舎)を読了。

見城徹の読書論に名を借りた編集者の仕事論・人生論。 

 1950年生まれ。廣済堂出版に入社し、「公文式算数の秘密」が38万部。角川書店で「野生時代」副編集長、「月刊カドカワ」編集長になり部数を30倍に。森村誠一人間の証明」、5本の直木賞作品、41歳で取締役編集部長。1993年、42歳で幻冬舎を設立。24年間で23冊のミリオンセラーを送り出す。五木寛之大河の一滴」、石原慎太郎「弟」天童荒太永遠の仔」、村上龍13歳のハローワーク」、渡辺和子「置かれた場所で咲きなさい」、、。

読書という荒野 (NewsPicks Book)

読書という荒野 (NewsPicks Book)

 

・人間と動物を分ける者は何か。それは「言葉を持っている」という点に尽きる。

・売れるコンテンツの条件は、オリジナリティがあること、極端であること、明解であること、癒着があること。

・人と会うときは、常に刺激的で新しい発見のある話、相手が思わず引き込まれるような話をしなければいけない。

・作家に依頼するときの基本は、今も昔も手紙である。、、その感想が、仕事をしている本人も気づいていないことを気づかせたり、次の仕事の示唆となるような刺激を与えたりしなければいけない。

・表現とは結局自己救済なのだから、自己救済のない中途半端に生きている人の元には優れた表現は生まれない。

・3人の大物と、きらめく新人3人をつかむこと

・自己検証、自己嫌悪、自己否定の三つがなければ、人間は進歩しない。

・格闘の末に、最後の最後、自己肯定して救いのない世界から立ち上がる。認識者から実践者になる。暗闘の中でジャンプする。人生を切り開く。読書はそのための最も有効な武器だ。

・文学は、、、過剰か欠落を抱えた人間からしか生まれない。

以下、推薦書。宮本輝「避暑地の猫」。百田尚樹「影法師」。東野圭吾白夜行」。宮部みゆき火車」。高村薫リヴィエラを撃て」。北方謙三「楊家将」「血涙」。恩田睦「蜜蜂と遠雷」。沢木耕太郎深夜特急」。ジッド「地の糧」。つかこうへい「蒲田行進曲」。

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湘南キャンパスに12時半過ぎに到着。

・早河課長:女子が多いので活気、、。

・野原課長:近況。

・学部運営委員会:安田学部長、渡辺学科長、堂下就職委員長、太田入試委員長、高橋教務委員長、橋詰学生委員長、清水事務長、押金教務課長:質の向上。離学率。AL入試。、、、。

・ライブビューイングによる「リレー講座」(多摩キャンパスから放映)に出席。ヤマトホールディングス株式会社の山内雅喜代表取締役社長「新たな価値を生み出すクロネコヤマトの満足創造経営~地域との連携~」。70名、うち学生20名。映像、音声とも良好。ヤマト

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 17時:大和にて、弟と「よし寿司」で懇親。母に電話。

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 「名言との対話」6月14日。谷岡ヤスジ「鼻血ブー。アサー。オラオラオラ」

谷岡 ヤスジ(たにおか ヤスジ、1942年8月29日 - 1999年6月14日)は、日本漫画家

赤塚不二夫と並ぶ日本のギャグ漫画界の巨匠。「中国小学生新聞」の4コマ漫画でデビュー。「週刊少年マガジン」連載の「ヤスジのメッタメタガキ道講座」はナンセンスギャグで人気をよび,大ブレークした。「鼻血ブー」「アサー」「オラオラオラ」などの言葉は流行語となった。文芸春秋漫画賞。1982年、「まんが笑ルーム」で「谷岡ヤスジ賞」を創設。満56歳で死去。

 

創り出したキャラクターの数は非常に多数で、生命力に満ち溢れていてエネルギッシュなところが共通している。人間に対する深い洞察に満ちた作品も多数ある。政治家批判の文章にも凄まじいものがあった。

私はこの人のエログロナンセンス漫画のファンではなかったが、独特の画風と流行語になった言葉は覚えている。印象的な画像と短かく強烈な単語は長く記憶に残る。

 

書きかけ!