「知研フォーラム」346号ーー「アート」「小説」「旅」「安保」

「知研フォーラム」346号が年末に届いた。

  • 日程:50周年事業「2020年10月17-18日」。総会「2020年3月28日」。
  • 講演録 山本冬彦「アート普及と若手作家支援」
  • 講演録 八木哲郎「情報積み重ね式小説作法」
  • 連載  久恒啓一「人物記念館の旅。群馬・新潟」
  • 連載  奈薗乙三「いいたい砲台」
  • 提言  猪俣範一「皆で考えよう。国家安全保障」

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私の連載投稿。11ページ。2019年の8月末から9月の3泊4日の旅。7館。

群馬県渋川市の日本シャンソン館(芦野宏記念館ではない)。群馬県沼田市の生方たつゑ記念館(歌人)。群馬県水上町の塩原太助記念館(大商人)。新潟県魚沼市宮柊二記念館(歌人)。新潟県柏崎市西山の田中角栄記念館(政治家)。新潟県出雲崎町良寛記念館(僧侶、歌人漢詩人、書家)。新潟市会津八一記念館(歌人、学者、書家)。

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梅棹忠夫著作集プロジェクト進行中。今日はだいぶ進んだ。明日も続けよう。

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「名言との対話」1月4日。アルベール・カミュ「人生それ自体に意味などない。しかし、意味がないからこそ生きるに値するのだ」。

アルベール・カミュAlbert Camusフランス語: [albɛʁ kamy] 1913年11月7日 - 1960年1月4日)は、フランス小説家劇作家哲学者

『異邦人』、『シーシュポスの神話』などで注目され、戦闘的なジャーナリストとして活躍した。『カリギュラ』『誤解』など劇作家としても活動した。戦後に発表した小説『ペスト』はベストセラーとなり、『反抗的人間』において左翼全体主義を批判し、反響を呼んだ。『転落』発表の翌年、1957年、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞した。そして交通事故で46歳で死去する。

初めて『異邦人』を読んでみた。文庫版でそれほど時間はかからなかった。

主人公のムルソーは、淡々とした、野心もない、無感動な人物として描かれている。それがわかる言葉をあげてみよう。「別にどうとも思わないが、なかなか面白い話だ」「何意味もないことだが、恐らく愛していなと思われるーーと私は答えた」「実をいうとどちらでも私には同じことだ、と答えた」「いっさい、実際無意味だということを、じきに悟ったのだ」「私は深くママンを愛していたが、しかし、それは何ものも意味していない」、、、。そのムルソーが「太陽のせい」としか説明できな動機でピストルによる殺人を犯す。

第二部では刑務所と裁判法廷でのシーンだ。自分と、自分をめぐる常識のかたまりのような人々を、まるで人ごとのように冷静に観察している。そのムルソーは訪れた司祭に対し、「君は死人のような生き方をしているから、自分が生きていることにさえ、自身がない。私はと「いえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来たるべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕らえていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕らえている」と怒りを爆発させる。

死刑の執行を待つ日々。「夕暮れは憂愁に満ちた休息のひとときだった。死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、全く生きかえるのを感じたに違いなかった。、、、私もまた、全く生き返ったような思いがしている。、、、これっほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は自分が幸福だったし、今なお幸福であることを悟った」。

カミュは後に、「、、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりほかはない、、。、、なぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。、、、」と説明している。常識という条理に身を任せる生き方は死人の生き方だ。人間は不条理なものなのだ。人間は条理だけで動くものではない。動機なしに殺人も犯すことがある。社会は理性で構成されているようにみえるが、その社会を構成する人間は不条理に生きているのだ。常識を拒否すれば異邦人と呼ばれるが、本当は異邦人の方が本当に生きているのではないか。それがカミュのメッセージだろう。

この本を読んでもうひとつ思ったのは、死を意識すると、生を強烈に感じるということだ。1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件を引き起こした永山則夫という刑死者を思い出した。 「このような大事件を犯さなければ、一生涯唯の牛馬で終わったであろう。人間ゆえ、思考可能な人間ゆえ私は知ってしまった」という。「動機なき、理由なき殺人」を犯した永山則夫は、その事件を起こした故に牛馬ではなく、「人間」になったという一大パラドックスの考えさせられるドラマ。また、難病で死の宣告をされた人の心境、克服した人の生に対する感覚もムルソーに近いのではないか。

以下、他の作品などの中でのカミュの言葉から。

「人間は現在の自分を拒絶する唯一の生きものである」「重要なのは、病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ」「人間が唯一偉大であるのは、自分を越えるものと闘うからである」「無益で希望のない労働以上に恐ろしい刑罰はない」。

8つ年上の サルトルと双璧のフランス文壇を代表する文化人だったカミュの思想の一端をようやく知った。人生という長いスパンで個々の行動や感情を意味付けをせずに、現在だけを生きる、神の存在を否定する不条理な人間像の提出は、大きな「事件」であった。 冒頭に掲げた「人生それ自体に意味などない。しかし、意味がないからこそ生きるに値するのだ」という問題提起をどう理解するか。

異邦人 (新潮文庫)

ライフワークは完成しない

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 今年の正月に、また誕生日がやってきた。この日は「母がもっとも苦しんだ日」でもある。その92歳の母からお祝いの電話があった。本当はこちらが感謝すべき日であり、逆なのだ。来年からは、こちらから電話をしよう。

企業に勤務していた若い頃は、4日からの仕事始めにあわせて、1月3日は故郷の九州から東京への移動日だった。朝早く出て、夕方に着くから、自分でも誕生日であることも忘れてしまっていた。今年は娘の家族は風邪で来れなかったので、今日は息子夫婦との食事会で祝ってもらった。

さて、私の人生区分の考え方では、人生100年時代の到来にあわせて「三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、、、」という孔子の人生訓を1.6倍で考えている。それによれば青年期(24-48)、壮年期(48-64)を過ぎて、実年期(64-80)のただなかにいることになる。実りの季節だ。その後は、熟年期(80-96)、大人期(96-112)、仙人期(112-120)と続いていく。

ひとつ「人生100年時代の生き方のモデル」になってみようか。三が日で今後10年の方針を立てた。そして今までの来し方の総集編という意味で、ここ1、2年でやってきたことを形にすることを心がけることにした。2020年の計画も完成しつつある。

毎日続ける知的生産のテーマは決まってきたから、明日やらねばならないことははっきりしている。そして生涯をかけてきわめるべきテーマも見えている。そして知的生産物の蓄積もできつつある。この方向感で一歩一歩ゆるい坂道を登っていこう。

ライフには3つの意味がある。生活と人生と生命だ。ワークは仕事、事業だ。それではライフワークとは何か。毎日やるべきことがあること(生活)、生涯にわたって成し遂げたいことがあること(人生)、後代に命をつないでいくこと(生命)と考えてみたい。

最近それが「ライフワーク」だと思うようになった。日々の暮らしのなかで、歩を進めることが大事なのだ。そういう意味では、ライフワークは完成しない。

ある先輩がライフワークと呼んでいた作品が完成した。お祝いを述べたところ、次のテーマが浮上したという。やはり、ライフワークは終わらないようである。

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「大全」の原稿をチェック。

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「名言との対話」1月3日。永野護「小手先の器用なる人間をつくる技術万能主義をあらためて、人間として信用し得る人格本位の教育制度を確立すべきである」

永野 護(ながの まもる、1890年9月5日 - 1970年1月3日)は、日本実業家政治家

東大法学部在学中に親友の父の渋沢栄一から息子の勉強相手の名目で援助を受ける。それを故郷に仕送りし弟妹の教育にあてた。田中耕太郎に次ぐ2番で卒業後、晩年の渋沢の秘書として尽くす。

有名な「永野6兄弟」の長兄の護は、東洋製油取締役、山叶証券専務、丸宏証券会長、東京米国取引所常務理事などっを歴任した。そして戦中、戦後と衆議院議員二期、参議院議員。1958年岸内閣の運輸大臣に就任した。次男・重雄は日本商工会議所会頭、三男・俊雄は五洋建設会長、四男・伍堂輝雄は日本航空会長、五男・鎮雄は参議院議員、六男・治は石川島播磨重工副社長。全員が戦後の政財界で活躍した。その弟たちを育てたのは護兄だったから、その功績は極めて大きい。

1945年9月に広島で行った講演に手を入れて11月に発刊した永野護『敗戦真相記』の改装版(バジリコ出版)を読んだ。天皇玉音放送の8月15日の直後という混乱期の発言だが、冷静で的確な分析と未来への確かな展望に驚きを禁じ得なかった。以下、論旨を示す。

日本の国策の基本的理念が間違っていた。勝手な自給自足主義で満州事変、支那事変、大東亜戦争へと進み脱線、転覆した。ドイツの物まね、軍部の驕り、世論本位でない政治、そして有史以来の大人物の端境期だったことが不幸だった。

戦争目的のあいまいさ、軍部の慢心と一人よがり。そして科学の進歩に遅れたこと、そして動員計画、工場の能率など生産と組織に関するマネジメント力(経営能力)の非力さが戦局の後退に拍車をかけた。また海軍は日鉄で陸軍は日本鋼管、陸軍は右ねじで海軍は左ねじというように、陸海軍の不統一もひどかった。そして何よりも国民の「無気力」が軍部の独裁を許した。

永野は日本の将来については楽観的だったが、課題も指摘している。日本は武装解除の国になり、財政を教育と民生と発明発見に費やすことができるから前途は洋々だ。地位があがるほど不勉強で責任回避に長けた官僚閥を改革し、国民の公僕に置き換えることが必要だ。日本再建の根本問題は青少年の教育問題だ。鍛錬による人間の完成から、明治維新後は技術に偏向した出世主義に堕した。だから今後は人間として信用し得る人格本位の新たな教育制度を確立すべきだ。

この歴史的な講演から50年以上経った2002年に復刊された『敗戦真相記』では、鍛錬による人格の涵養、それによる気力の横溢など日本人としての精神のあり方に強い関心を持っていることがわかる。永野護の慧眼は、戦後の課題を見抜いていたと感銘を受けた。現在の世代が平成時代に味わった没落と混迷の予感、まさに永野の予言のとおりだ。

私の取り組んでいる「立志人物伝」の授業、「名言との対話」を書くという修行、偉人の「名言集」の刊行などは、永野の出した課題へのささやかな取り組みの一つだ。永野のいう「人間として信用し得る人格」とは、「仰ぎ見る師匠」「切磋する敵、琢磨する友」「持続する志」「怒涛の仕事量」「修養・鍛錬・研鑽」「飛翔する構想力」「日本への回帰」の7つだと回答したい。今後も続けていきたい。

敗戦真相記―予告されていた平成日本の没落

 

 

 

南無阿弥陀仏、音もせで散る、柿紅葉』

「北斎 視角のマジック」展(すみだ北斎美術館)--春朗、宗理、北斎、載斗、為一、画狂老人卍

 両国の「すみだ北斎美術館」。2回目。没後170年「北斎 視角のマジック」展。欧米系の外国人が多い。長野県小渕沢の北斎館(画狂人葛飾北斎の肉筆画美術館)所蔵の120点が展示されていた。北斎は83歳から高井鴻山(1806-1883)宅に毎年のように4回滞在している。

 2007年8月に訪問した、まちづくりで有名な長野県小布施の名物「北斎館」をみたことがある。以下、その時の記述から。

31周年の2007年で700万人の来訪者を達成している。80代半ばから北斎は高井こう山の招きを受けて、「富士越龍」などの肉筆画と、祭屋台の天井画を描いた。平成10年に開催された国際北斎展の寄せ書きをみると、ドナルド・キーンや中島千波などの名前が見える。北斎研究所もこの中にある。近くの高井こう山記念館もみた。北斎を招いた豪農商として有名だが、尊王攘夷論者としても有名な人物である。佐久間象山とも親友でここで月に数度も激論を交わしている。そのときに使った火鉢もある。

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北斎については、記念館、企画展、小説などで何度も考える機会を持った。その他、内外の画家の企画展、長寿の人のリストなど、北斎という名前はこのブログに何度も書いている。今回は、生涯で20以上の改名を繰り返した奇行について記す。金に困ると画号を門人に譲ってわずかな報酬を得ていたようだ。北斎は外国の教科書にも載っており、日本人でもっとも有名な芸術家だ。北斎という雅号は40代後半に用いたものだが、なぜこの名前で歴史に残っているのだろうか。

  • 「春朗」期。1778-1793。19歳ー34歳。黄表紙。浮絵(透視図法)
  • 「宗理」期。1794-1803。35-44歳。美人画
  • 葛飾北斎」期。1804-1809。45-50歳。馬琴の読み本の挿絵。
  • 「載斗」期。1810-1829。51-60歳。この世は「円と線」でできているとして、コンパスと定規で描く方法を初心者に教えた。鳥瞰図にも挑戦。
  • 「為一」期。1820-1833。61-74歳。「富岳三十六景」。
  • 「画狂老人卍」期。1834-1849。75-90歳。「富岳百景」。日課は「日新除魔」。「男浪」「女浪」と呼ばれた怒涛図。

過去のブログから。

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「名言との対話」1月2日。檀一雄「お前たちの前途が、どうぞ多難でありますように、、。多難であればあるほど、実りは大きいのだから」

檀 一雄(だん かずお、1912年明治45年)2月3日 - 1976年昭和51年)1月2日)は、日本の小説家作詞家

少年期に母が若い学生と出奔、その傷心が文学への原点となるが、一方で料理を覚えた。福岡高等学校を経て東大経済学部在学中の処女作が認められ佐藤春夫に師事する。「日本浪曼派」に加わるも、従軍と中国放浪の約十年間を沈黙。1950年、『リツ子・その愛』『リツ子・その死』を上梓して文壇に復帰。律子は最初の妻。1951年、『真説石川五右衛門』で直木賞受賞。死の前年まで20年にわたって書き継がれた『火宅の人』により、没後、読売文学賞と日本文学大賞の両賞受賞。遺作『火宅の人』は映画化されている。

 2006年の夏、博多湾に浮かぶ能古島を訪ねたことがある。そのとき、「檀一雄の家」という案内板を偶然見かけて興味を抱いて見に行った。山の中腹にある一軒の廃屋がそれだった。この家の庭からは、船着場と博多湾を挟んだ対岸の百地の海岸の建物が遠望できて気持ちがいい。その時、こういうところに別荘でも持つと幸せだろうなあと思った。この家のことを書いた、長女の檀ふみの『父の縁側、私の書斎』という文庫のエッセイを偶然見かけて読んだ。その冒頭に「能古島の家 月壺洞」という短い素敵な文章で紹介されている。『火宅の人』の著者である父・檀一雄は、気ままでわがままな人で「新しい環境を、その都度自分の流儀で埋め尽くし、埋め終わると同時に別の天地に遁走したくなる」と本人が書いているように、この家も短い期間しか住んでいない。檀ふみは、一度だけ父の住むこの家で語り合ったことがあるそうだ。

代表作『火宅の人』は、「女たち、酒、とめどもない放浪、、、たとえわが身は「火宅」にあろうとも、天然の旅情に忠実に生きたいーー豪放なる魂の記録!」との解説がある。この本は入院中のベッドで口述筆記で書き上げられた。この本がベストセラになったことは本人は知らない。

どうしてこの家を「檀一雄記念館」にしないのかなあと思っていたら、このやはり地元からも要望があり福岡市に寄贈しようかとも考えたらしいが、「いつか能古島に、月の光がいっぱい入るような家を建てよう。大きな窓にもたれて、父の好きだった音楽を聴きながら、静かにお酒を飲もう。そのとき、きっと父は私のかたわらにいる。なんだかそんな気がしてならない」という結びの文章にあたった。

檀ふみは、女優、タレントなどの顔で登場したが、NHK「日曜美術館」の司会で着物を着た姿で全国の美術館の名画を紹介する姿を見かけるように、美人でありながら多彩な才能と親しみやすい人柄で人気が高い。ふみの名言は「人生を豊かにするのは、お金でも物でのない。幸せな瞬間の記憶である」だ。「バリアフル」「風呂と日本人」「屋根裏から」「おこたの間」「理想の書斎」「イヌ小屋?ウサギ小屋?」「スープのぬれない距離」「こころの縁側」「春を忘るな」「あたりはずれ」、、、。「名画の見つけかた」などの家にまつわるエッセイのテーマの選び方でもわかるように、ふみは観察眼が鋭く、かつ暖かく、そして素晴らしく文章がうまい。この人の本籍は物書きではないだろうか。

今回、以前読んだことをすっかり忘れていた。気がつかずに2回目の読了した。娘からみた父の姿を記してみよう。「父はときどき様子を見にやってくるだけの「お客さん」だったのである」「酒はいいぞぉ。大きくなったら、ぜひ飲みなさい」「普請好き。手仕事が好き。台所用品、食器の類が好き。旅にも料理セットを持参.」「食事中のテレビは厳禁。嵐をはらんでいる人」「線のような母。ボッタボタッと墨汁でも垂らしてたようなあんばいの人の父」「雅号は、奇放亭。ドン・キホーテをもじった」、、、。丸谷才一が食べ物に関する傑作を挙げている。邱永漢『食は広州にあり』、木下謙次郎「美味求真」、吉田健一「舌鼓ところどころ」「私の食物誌」、そして檀一雄「漂流クッキング」である。料理の腕も相当なものだったようだ。

自ら多難な人生を選び取った檀一雄は、息子や娘たちに「多難」であることを祈っている。無事な人生はつまらない。難事が多いほど、成果は大きくなる。多難であれ、は逆説的に聞こえるが、子どもたちの成長を願った、最後の無頼派作家・檀一雄の愛情だったのだろう。長女のふみは女優、長男の太郎はエッセイスト、次女の寿美はイラストレーター。それぞれ多難であっただろうと同情する。  

父の縁側、私の書斎 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「賽銭も 10パーセントを 添えて入れ」ーーー初詣の川柳

「賽銭も 10パーセントを 添えて入れ」

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初詣でできた川柳。いつもは100円玉を入れるが、ふと思いついて10円玉を足して、家内安全を祈ってしまった。10円は消費税だ。もう一句「後ろから 見れば誰しも 善男女」。

 おみくじは「吉」だった。この神社では、吉と大吉が続くので、気分は悪くない。

「立ちよれば そでに なびきて 白萩の 花のか ゆらぐ 月の下かげ」

(時期をあやまらずはやくあらため進みてよし 人と人と互に力あわせてなすにはときときあり されどわるきことと知りつつ進むは悪し注意すべし)

旅行「さわりなしよろし」。商法「利益あれど少し」。学業「友より一層学べ」

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正月休みは、計画の期間である。「2020年の計画」の原案をつくった。20枚もあるから、今年も大変だ。この原案を少しづつ修正を繰り返しながら、正案にしていくつもり。この作業も、もう40年か。

毎日書いている「名言との対話」は、2016年は「命日編」、2017年は「誕生日編」、2018年は「平成命日編」、2019年は「平成命日編2」と続いている。今年は、「戦後編」にしようかと思う。戦後はいつからか? 戦後はいつまでか? 昭和、平成、そして令和も戦後になるが、そこはゆるく考えようか。「平成命日編」は厳格に選んだため、しんどかったから、少しゆったりと人物に向かっていきたい。

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 「名言との対話(戦後編)1月1日。今村明恒「災害予防のこと、一日も猶予すべきにあらず」

今村 明恒(いまむら あきつね、1870年6月14日明治3年5月16日) - 1948年1月1日)は日本地震学者

上山明博関東大震災を予知した二人の男」(産経新聞出版)を読んだ。関東大震災を予知できなかった男と予知した男と記録された二人の地震学者の信念に光を当てた優れたノンフィクションだ。2001年の東日本大震災の2年後、関東大震災から90年にあたる年に上梓した作品である。

 今村は1899年に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した。 1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生すること、その場合には圧死者3000人、火災が発生すると死者10万人以上と警告し、震災対策をせまる記事を雑誌『太陽』に寄稿した。今村の上司の大森房吉教授は、関東大震災が起こるとすれば、相模湾震源と予知していたが、世間が動揺することを恐れ、これを浮説として否定したため、今村は「ほら吹き」と批判される。大森はノーベル賞がほぼ内定していた学者で、「地震学の父」と呼ばれていた。一方の今村は二つ年下で、無給の助教授に甘んじていた。

関東大震災の前には、関東各地で地震が起こっている。芥川龍之介は鎌倉滞在中に、植物の異変をみて「天地異変」を予言している。 大森がシドニーに滞在していた時、東京で大地震が発生する。「来た! つに来た!」と今村は快哉する。安政の大地震以来68年ぶりの大地震だ。5万2千人余が焼死した。本所横綱町の被服廠跡では、火災旋風で3万8千人が焼死している。帝大教授の寺田寅彦が「天災は忘れたころにやってくる」という名言を吐いたのもこの時だ。

大森はシドニーから戻った死の間際に、山本権兵衛総理と帝都復興院総裁の後藤新平に提案する。復旧では再び壊滅的な損壊を被るから復興が大事だ。消防用水の確保、耐震基準の強化、道路拡幅と公園の整備、防災意識の啓蒙。後藤の復興政策は大森の献策が基礎になっていたのだ。

今村の警告が現実のものとなった後、関東大震災地震を予知した研究者として、今村は「地震の神様」と讃えられるようになった。1923年に亡くなった大森の後を継いで地震学講座の教授に昇進する。次の大地震南海地震と考え、1928年に南海地動研究所を私費で設立した。予想通り1944年に東南海地震、1946年に南海地震が発生した。そして津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書への収載を訴え、実現させた。

今村の「災害予防」はもちろんだが、「地震の少ない西洋で発達した文明を、地震が多発する日本に移入するのは土台無理があるということさ」と田中館愛橘博士が語っているのは見逃せない。原発問題についても示唆に富む予言だと思う。

関東大震災を予知した二人の男 大森房吉と今村明恒

 

 

 

 

 

2019年の総括:「公人・私人・個人」

年初の計画に沿って、2019年を「公人・私人・個人」で総括する。

  • ◎公人
  • 〇専任教授から特任教授へ。

  • ・テーマは「研究」ーー「大全」と「選集」へ
  • ・多摩大総研所長。--未来教育環境研究会への道筋
  • ・「多摩大学時代の総決算」の完成と配布

  • NPO法人知的生産の技術研究会(理事長):地域知研。大阪、岡山。2018年:沖縄、九州、東北、宮島。2019年:北海道。2020年:京都。50周年行事は10月17-18日。東京は「人生100年」と「SNS」をテーマに毎月セミナーを実施
  • 〇スケジュール
  • ・月(秘書)・木(総研・リレー講座)・金(授業)
  • ・都心へ出るときに、週1-2回「地研」へ。
  • ◎私人
  • ・妻と二人の生活のリズムをつくる。
  • ・ジム(オアシス)での運動の習慣:週2回ペース
  • ・ヨガ4年目:週1回の継続「継続は力なり」「姿勢!」
  • ・テレビ体操:毎日継続
  • ・朝5時起き:ブログ1.5時間も習慣化
  • ・書斎と書庫の連携
  • ・兄弟との「お笑い会」の定期開催
  • ◎個人
  • 〇著書:6冊。
  •  ①図解スキルマスター講座(日本マンパワー
  •  ②新深真・知的生産の技術(日本地域研究所)

    新・深・真 知的生産の技術―知の巨人・梅棹忠夫に学んだ市民たちの活動と進化 (コミュニティ・ブックス)

  •  ③名経営者の言葉(日本実業出版社
  • リーダー・管理職のための 心を成長させる名経営者の言葉

  •  ④平成時代の366名言集(日本地域社会研究所
  • 平成時代の366名言集―歴史に残したい人生が豊かになる一日一言 (コミュニティ・ブックス)

  •  ⑤読書悠々(インプレスPOD)
  • 読書悠々~現代を読む~

  • ⑥ブログ・今日も生涯の一日なり2018(自費)
  • 〇ホームページ:300万ヒットを達成(3095540)
  • ブログ連続記入:5500日を達成(5572日):生誕25564日。21.8%
  • 〇note「名言との対話」:毎日書く。丸4年1464日連続を達成
  • 〇メルマガ:1200号を達成(1212号)

  • 〇インスタグラム「後ろ姿探検隊」、200本前後の写真アップ。

  • 〇人物記念館60館。900館を達成(累計917館) 
  • 〇旅行:群馬・新潟。知研(島根。北海道)
  • ポッドキャスト「ビジネスに活かす偉人の名言」:毎週1本、50本が完成

  • 梅棹忠夫著作集の8つの巻を読破

  • 〇読書:「名言との対話」を書くために250冊ほどを読了。

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「名言との対話」12月31日。渡辺はま子「一生懸命に歌って少しでも皆さんに喜んで頂ければと思っています」

渡辺 はま子(わたなべ はまこ、1910年明治43年10月27日 - 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後にかけて活躍した日本の歌手。

横浜生まれということで濱子という名前になった。オペラ歌手を目指し武蔵野音楽学校を卒業。1933年「ひとり静」を歌う。ハンセン病をテーマとした夏川静江朗読の1936年のNHKラジオ番組「小島の春」の主題歌「ひとり静」は、渡辺はま子が歌っている。今年山梨県春日居町の小川正子記念館を訪ねた時に知った岡山の長島愛生園では、療養所歌として今も愛唱されている歌だ。 1955年代に放送された「ここに鐘がなる」という番組では、愛生園でかつて「救ライの父」・光田健輔と渡辺はま子が対談している。1938年に「愛国の花」がヒット。その後、「支那の夜」「蘇州夜曲」「何日君再来」が大ヒットする。李香蘭渡辺はま子は美人歌手の双璧だった。戦後は「桑港のチャイナタウン」、「モンテルンパの夜は更けて」などで活躍する。懐メロ番組などに出演して長く活躍を続け、1973年に紫綬褒章、1981年には勲四等宝冠章を受章した。80歳を超えるまで現役の歌手であり、歌手生活は60年を超えた。吹きこみを行った曲は1800曲に及ぶ。

懐メロ番組でときどき姿をみていた歌手だが、中田整一「モンテルンパの夜はふけて」を読んで人生航路を知った。 音楽修行の記録として日記をつける。また、敗戦の色が濃くなっていた1944年6月から11月にかけて中国大陸への従軍慰問の旅を5か月間こなしている。市販ノートに全ページを使って、ビッシリと万年筆による走り書きで従軍日記を書いている。几帳面な人柄が現れている。この日記がこの本の重要な材料となった。

敗戦の8月15日、「中国に留まって、何かの役に立ちたい」と活動を続け、大晦日に天津の日本人収容所に入り、同胞を慰問し勇気づけている。帰国後、旧軍人の慰問を開始する。そしてフィリピン、硫黄島、沖縄など激戦地への慰霊訪問。慰霊碑の建立に印税を注ぎ込んだ。

日本への感情が最悪だったフィリピンのモンテルンパ収容所のことを知る。110万人のフィリピン国民が犠牲になった。最大の激戦地となったレイテ島では日本軍の8万人が戦死した。全フィリピンで戦死した日本軍将兵は50万近くになった。フィリピンはサンフランシスコ平和会議に出席しサインをしたが、批准はしなかった。賠償問題が障害となった。

1952年12月25日、慰問のためにマニラを訪問し、戦犯刑務所の監房の中で挨拶と歌を歌った。牢獄のコンサートである。それをテープに撮った。後で家族に聞かせるためだ。1953年1月10日、ラジオ東京で録音放送され大きな反響があった。オルゴール製造会社の吉田義人とはま子の合作のオルゴールが完成する。それは任期終了まで4日しかなかったキリノ大統領の心を揺さぶり、有期・無期刑囚人の釈放、死刑囚は無期に減刑し日本へ送還された。賠償協定は昭和31年に調印された。

1957年から40年余、横浜市山手の「港の見える丘」近くに住んだ。大晦日恒例の国民的行事、NHK紅白歌合戦では、1回、2回、4回、5回、7回、8回、9回、15回に出演している。渡辺はま子の命日は12月31日の大晦日だ。今年の女性軍のMISIA、男性軍の嵐のトリの歌声を聴きながら、紅白の第1回は「桑港のチャイナ街」で紅組のトリを務めたのがこの人だったのだとの感慨にふけった。1973年の24回には特別出演、NHK衛星第2テレビジョン思い出の紅白歌合戦」で全編が再放送されている。

「歌は3分間のドラマだ。私の人生、いかに歌に助けられてきたか」という渡辺はま子は、「相手の名声や地位に驚かないこと、人は真心」の信条を持ち、「一生懸命に歌って少しでも皆さんに喜んで頂ければと思っています」という姿勢を貫いた人だ。

モンテンルパの夜はふけて ~気骨の女・渡辺はま子の生涯

 

田端文士村会館「芥川龍之介の生と死」展ーー「企画展」「家族の言葉」「文豪とアルケミスト」

先日、田端文士村会館で開催中の「芥川龍之介の生と死」展を訪問した。芥川龍之介記念館がないのを不思議に思っていたが、田端に多数の文人がいたことに納得せざるを得ない。この企画展は充実していて見ごたえがあった。

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田端の文士、画家など:岩田専太郎。小穴隆一。岡倉天心菊池寛川口松太郎小杉放菴。木庭屋h氏秀雄。佐多稲子。サトウハチロウ。田河水疱。竹久夢二土屋文明直木三十五中野重治。野口雨情。林芙美子平塚雷鳥室生犀星山本鼎二葉亭四迷。、、、、、

以下、この企画展の章立て。「芥川龍之介の死生観」「芥川龍之介谷崎潤一郎の文学論争」「芥川龍之介の晩年と死」「芥川龍之介の死と室生犀星」「芥川龍之介の死と堀辰雄」「芥川龍之介の死と家族」「芥川龍之介の死を語る文壇仲間」「現代に生きる芥川龍之介」。

会館で買った『芥川龍之介 家族のことば』(木口直子)を読むと、親しい人々の観察から芥川の日常や人柄がわかる。

芥川の夢は幼稚園時代は海軍将校、小学校は時代は洋画家。そして一高時代に木の葉が風に揺られて、ひとつひとつが思い思いの形に揺れているのをみた。想像の世界の素晴らしさ、美しさに魅せられて、文学を終生の仕事にしたいと痛切に感じた。

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親友の室生犀星は、田端文士村を「賑やかな詩のみやこ」といい、その「詩のみやこの王様は芥川龍之介」と語っている。龍之介という名前は、生年月日時が辰年辰月辰日辰刻だったことによる。芥川の実母は龍之介を産んだ後に狂人となった。芥川は「ぼんやりとした不安」によって自殺したとされるが、その一因は発狂の予感に対する恐怖心にあったかもしれない。「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」「畢竟気違ひの子だったのであろう」。

 

東京の文士村は4カ所あった。田端の他は、尾崎士郎の馬込、阿佐ヶ谷、落合だ。

大正3年東京美術学校が開校すると、近くのこの辺りは絵描き村になった。それが文士村になっていった。

芥川の書斎の8畳間「澄江堂」で(後に4畳半を建て増し)13年間執筆した。日曜日が面会日だったのは、わずか1年あまりで接触が終わった師の漱石の影響だろう。ライジングサンジェネレエションの一人という芥川は「先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は、この頃或転機の上に立ってゐられたやうだから。すべての偉大な人のやうに、50歳を期として、更に大踏歩を進められやうとしてゐたから。、、、絶えず必然に、底力強く進歩して行かれた夏目先生を思ふと、自分の意気地のないのが恥ずかしい。心から恥ずかしい」と語っている。(『新思潮』い掲載された「校正の后に」)

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「僕のやってゐる商売は、今の日本で、一番金にならない商売です」

「人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕らは人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らねばならぬ。更に又巧みにその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである」(大震雑記)。因みに、芥川は鎌倉にいた8月、藤、山吹、菖蒲などの花々が季節外れに咲き誇っているのを見て「天変地異が起こりさうだ」と予言した。

「うぬ惚れるな。同時に卑屈になるな」((闇中問答)

「彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった」(「或阿呆の一生」)

 

1924年昭和2年)7月24日、自殺。遺書。わが子等に。

1.人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず。2.従って汝等の力を恃むことを勿れ。汝らの力を養ふを旨とせよ。、、、」

「生前の父が、芸術家ほど苦しい職業はない。この仕事は私だけでたくさんだ。こどもだけは芸術家にしたくない、と母に語っていた、、」。比呂志(菊池寛から「ひろし」をもらった)は、俳優・演出家。多加志(画家・小穴隆一から。戦地で若くして亡くなった)、也寸志(友人の井川恭から)は作曲家。父の願いどおりにはいかなかった。「赤ん坊が出来ると人間は妙に腰が据わるね。赤ん坊の出来ない内は一人前の人間じゃないね」。

最近は、「文豪とアルケミスト」(文アル。錬金術師)という文豪転生シュミレーションゲームが人気だ。そのキャラクターが飾ってあった。左右は、太宰治泉鏡花だった。文学書を黒く染めてしまう「本の中の世界を破壊する侵蝕者」に対処するアルケミストたちの物語。最近、記念館をまわるとこういったキャラクターが飾ってあるのを見かけることがある。この世界ものぞいてみよう。

https://bungo.dmmgames.com/

https://www.youtube.com/watch?v=Dp2qgOlbQJI

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企画展で見つけた文藝春秋大正13年11月号の直木三十五の「文壇諸家価値調査法」が面白い。70人ほどの文化人を俎上に載せたお遊びだが、なかなかポイントを衝いている感じがする。

学殖。天分。修養。度胸。風采。人気。資産。腕力。性欲。好きな女。未来の9項目で、それぞれ100点満点で採点している。優等は80点以上、及第は60点以上、仮及第は50点以上60点未満。

芥川龍之介は、学殖96点で1位、天分96点で1位、修養98点1位、度胸62点、風采90点、人気80点で4位タイ(菊池寛、谷崎、久米の次)、資産(骨董)、腕力0点(ビリ)、性欲20点(倉田百三100点)、好きな女「何でも」、未来97点(里見頓98点、菊池寛96点)。何か不思議な納得感がある。 女性も、野上弥生子、中條百合子、宇野千代、九條武子なども入っている。あまりにふざけているとして訴訟もあったとのことだが、面白い。f:id:k-hisatune:20191230180008j:image

本日の夜21時15分から「スペシャルドラマ スオレンジャーーー上海の芥川龍之介」の再放送があり、100年前の1921年の大阪毎日新聞特派員の芥川龍之介が描かれていた。主演は松田龍平

100年前、大阪毎日新聞の特派員として上海を訪れた芥川龍之介

スペシャルドラマ
ストレンジャー~上海の芥川龍之介
A Stranger in Shanghai

芥川龍之介 家族のことば

芥川龍之介 家族のことば

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 春陽堂書店
  • 発売日: 2019/10/10
  • メディア: 単行本
 

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「名言との対話」12月30日。リータ・レーヴィ=モンタルチーニ「わたしはね、明日やることがわかっているの」(100歳時のインタビュー)

リータ・レーヴィ=モンタルチーニRita Levi-Montalcini1909年4月22日 - 2012年12月30日)はイタリア神経学者

イタリアで最も有名でかつ最も愛された女性科学者である。神経症に関わる神経成長因子を発見し、1986年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

この人には3つの特色がある。女性受賞者。イタリアのユダヤ人コミュニティから4人目の受賞者。103歳というセンテナリアンであったこと。

ノーベル賞の受賞者のうち女性は5%ほどしかいない。2012年現在で、受賞者863人のうち、女性は44人。受賞者は女性の中のトップオブトップだ。ノーベル物理学賞、8年後にノーベル化学賞と2回受賞しているのはキュリー夫人こと、マリー・キュリーだ。このキュリーの娘のイレーヌも、後にノーベル化学賞を受賞している。親子受賞である。

ユダヤ人は世界人口の0.2%であるのに対し、ユダヤ人のノーベル賞受賞者は20%という多さは驚きだ。イスラエルには「ノーベル賞受賞者の並木道」があり、記念額が設けられている。文学賞ボブ・ディラン。物理学賞のアインシュタイン。平和賞のキッシンジャー。経済学賞のサミュエルソンフリードマンクルーグマン。しかし彼らの国籍は様々だ。ユダヤ人は累計で150人を超えている。国別ではアメリカが圧倒的で、イギリス、ドイツ、フランスが多く、日本は30人ほどで第3グループのトップを走っている。

モンタルチーニは103歳まで生きている。「老後も進化する脳」という日本名の本も書いている。ミケランジェロガリレオピカソたちが老齢になっても活躍できた理由を考察し、老いと脳を解き明かそうとした。その秘密は「わたしはね、明日やることがわかっているの」という言葉に尽きるのではないだろうか。脳は進化するのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

『坂田一男 捲土重来』展ーー日本人抽象画の先駆者

先日、「坂田一男 捲土重来」展を東京ステーションホテルで観た。副題は「格納された世界の全て、風景のすべて」。 「捲土」は土煙が巻き上がること、「重来」はその土煙が再びやって来ること。坂田 一男(さかた かずお、1889年8月22日 - 1956年5月28日)。

岡山県美里町大庄屋に生まれ、医者を目指すが挫折。病気療養中に画家を志す。1914年に上京し本郷絵画研究所で岡田三郎助、川端画学校で藤島武二に学ぶ。1921年、32歳で渡欧。フェルナン・レジェ(1881-1955)に師事し、キュビスムから抽象の道を歩む。レジェは「人物や肖像、人間の身体がオブジェとなるなら、現代の芸術家に大きな自由が与えられる」とした。機械的な要素から見事な物体を作りだそうとした。レジェが事物そのもの(図)を追求したのに対し、坂田は周囲の背景(地)を持った事物としてとらえようとした。この点は日本人の面目躍如だ。世界を地図、つまり地と図からなるという思想の表れだと私は理解した。地の中に浮かび上がってくる図を描くのだ。

足かけ12年半フランスに滞在し、1933年帰国後は岡山県倉敷市玉島にアトリエを構える。戦後、アヴァンギャルド・岡山(A・G・O)活動を行った。画業は知られなかったが、23年間の活動後に没した1956年の翌年にビリジストン美術館の遺作展から、わが国の抽象画家の先駆者としての評価がようやく高まった。

絵画の造形性を徹底的に追求し、対象の解体と再構成で造形の新たな秩序を求めたキュビスムを通過すると、画面に造形的骨格が現れる。情緒性を切り捨てた幾何学的画面が登場する。そこを徹底的に学んだ珍しい画家である。

「絵は売らない」「絵で生計を立てない」という方針を貫いた。経済的自由より、精神的自由を選んだ。パトロンに媚びない、他人の批評を気にしない。求道者、宗教者のような厳しい生き方の人だ。坂田は海老名弾正に洗礼を受けたピューリタンだった。また、日本人が西洋に学ぶやり方は失敗だとし、フランス人の中だけで交際し、学んだ。

抽象画は、実物とそっくりということは求めない。だから、見る人にいかに感動を与えるかになる。下絵(エスキュース)の段階で、消すことも描くことになる。

「作品は絶対にオリジナルであること。上手に描こうとするな。下手になれ。個性の表現のみが価値がある。物まねは自分のものではない」

坂田は幾何学的な要素を前面に出しながら、柔らかい色調、湿度を感じさせる「そり」「たわみ」につながる曲線的な要素が目立つ作品を描いている。純粋に作品のために生涯を捧げた画家・坂田一男は日本人としての抽象表現を目指したのである。

坂田一男と素描―抽象絵画の先駆者 (岡山文庫 (238))

坂田一男と素描―抽象絵画の先駆者 (岡山文庫 (238))

 

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新作映画『男はつらいよ お帰り 寅さん』を観た。今年は毎週土曜日の夜にBSで放映される『男はつらいよ』をずっとみていて、すっかりファンになっていたので、必見の映画だ。第1作の1969年から50年目、今回が50作目だ。詳細は明日。

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「名言との対話」12月29日。諸井虔最悪の事態に遭遇した場合、いくらくよくよしても始まらない」

諸井 虔(もろい けん、1928年4月23日 - 2006年12月29日)は、日本実業家

秩父セメントの創業者一族に生まれ、東大経済学部をでて日本興業銀行勤務のとき、本家に請われて秩父セメントに入り、取締役を経て、1976年に社長、1986年に会長として活躍した。

財界活動にも熱心で、1985年に経済同友会の副代表幹事、1993年から日経連(現日本経団連)の副会長も務めた。1995年地方分権推進委員会委員長、2000年税制調査会委員、2001年地方制度調査会会長を歴任するなど、財界きっての論客として、歯切れの良い発言で財界の「ご意見番」と呼ばれた。ウシオ電機牛尾治朗、京セラの稲盛和夫、セコムの飯田亮とともに「ニュー財界四天王」と呼ばれていた。規制緩和を強力に主張し、推進しており、マスコミで語る姿をよく見かけた人だ。

父の 諸井三郎は作曲家であり、弟 の諸井誠も作曲家であり、本人も音楽の素養があったようで、大学、銀行時代にはアマチュア合唱団の指揮者としても活動している。

経営者に限らず大小はあっても組織を指導する立場にある人は、毎日様々な事件やトラブルに巻き込まれる。最悪の事態が勃発すると、人々の視線が自分に集中する。そのとき、どういう心持で対処するか。部下を叱り、原因をねちねちと追究することはやめよ。くよくよせずに、事態を切り拓くことに集中せよ。被害を少なくするために、手を打っていくことに集中せよ。冒頭の言葉は、長い期間にわたってトップとして組織を切り盛りしてきた人の発言だけに、平凡のようではあるが重みがある。