内田樹『老いのレッスン』:書籍で読み、ユーチューブで聴くーー「よきもの」「親切」「バターハーフ」「死に切る」「希釈」

内田樹『老いのレッスン』(大和書房)を読了。

老いのレッスン
  • 後世の、何でもいいから「よきもの」を贈ること。それを自分の義務だと思って余生を生きればいい。
  • 先輩としてどう後輩に接するか。「親切にする」。メンターは叱らない。
  • 師匠も親友も「何を考えているのかぜんぜんわからない人」でなければならない。
  • 最初の内定をくれたところに行きなよ。だって、就職なんて「ご縁」だから。
  • 結婚は人間的に成長するためにするもの。互いがお互いにい影響を与え合って、それぞれが別の人間になる。ベターハーフになる。
  • 人は必ず「呼びかけに応える」というかたちで「天職」(calling)に出会う。天職は呼びかけられることから始める仕事のこと。
  • 子どもを育てるときに親が感じる幸福感はほかのどんな経験にも似ていない。
  • 人は死んでも、なかなか死に切らない。十三回忌あたりで「死に切る」。26年かけて死んでいく。
  • 死を「原液」で服用するととても濃くて飲めない。「希釈」すると割とするすると飲める。ソフトランディング。
  • 親切な人というのは、死んだ後も生き残った人たちに繰り返し「あの人が今も生きていたらなあ」という喪失感をもたらす人になる。死ぬことのつらさが違う。

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ユーチューブ番組「エア レボリューション」で「老いのレッスン」を聴いた。

https://youtu.be/31eiPkwkXxU

島田雅彦(作家)。白井聡政治学者)。ジョー横溝

過激な老人。歴史的な現場経験。

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ヨガ1時間。1万歩。

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「新・代表的日本人」1月17日。松方幸次郎。坂本龍一上田閑照

  • 島森路子1947年「シゴトやタチバを利用乱用して、自分の好きな人と好きなことをして遊ぶのが、いまの私流、「広告批評」流である」
  • 上田閑照1926年「光陰矢の如し、その矢は自分自身を貫いて飛んでいる
  • 寺内タケシ1939年「命がけでやってみないか」 
  • 坂本龍一1951年「日本という囲いの中で発想している限りはダメですね」
  • 柳宗玄1917年「かたちとの対話」
  • 松方幸次郎1866年「本物の西洋美術を日本の画家に集めてみせてやる」
  • 細川隆元1900年「悪友は善友に優る」
  • 村田英雄1929年「足がなくても歌は歌える」 

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「新・代表的日本人」1月17日。松方幸次郎  「本物の西洋美術を日本の画家に集めてみせてやる」
松方幸次郎(まつかた こうじろう、1866年1月17日〈慶応元年12月1日〉―1950年〈昭和25年〉6月24日)は、日本の実業家・政治家・美術収集家である。川崎造船所社長、衆議院議員日本進歩党)を務めた。享年84。
1866年生まれ。1875年、政府高官となった父・松方正義に伴い上京。1883年、大学予備門を退学処分となる。1884年アメリカのラトガース大学に留学し、のちにイェール大学へ編入。1890年、イェール大学で民法の博士号を取得し、欧州を周遊して帰国した。1891年、父の内閣総理大臣就任に伴い秘書官となる。1896年、川崎造船所初代社長に就任。1898年、結婚。1908年、神戸商業会議所会頭。1912年、衆議院議員に当選。
1917年、第一次世界大戦による造船景気で莫大な利益を得る。1919年、共楽美術館の設計図が日本に到着し、黒田清輝バーナード・リーチらと美術館設立構想を語り合う。同年、日本への作品輸送を開始。1920年ロダン地獄の門》を発注。1923年、ハンセン・コレクションを購入する。
しかし1928年以降、金融不安と川崎造船所の経営不振により、美術品の売却を余儀なくされる。1939年、ロンドンの倉庫に保管されていた約950点が火災で焼失。1940年には、パリのロダン美術館に保管されていた作品が疎開された。
1944年、松方コレクションは「敵国人財産」としてフランス政府に接収される。1951年、サンフランシスコ講和会議出席中の吉田茂首相が作品返還を正式に申し入れる。1955年、ル・コルビュジエとの美術館設計契約が成立。1959年、フランス政府から375点が返却され、同年6月10日、国立西洋美術館が開館した。松方がコレクションを始めた1919年から2019年で100周年を迎えた。
2019年8月1日、国立西洋美術館で開催された「松方コレクション展」を鑑賞した。鹿児島出身で、松方正義首相の三男である松方幸次郎が率いた川崎造船所は、第一次世界大戦期の先行投資により莫大な利益を上げた。その資金によって、わずか10年ほどで約3000点に及ぶ大コレクションが形成された。しかし経営不振により約1000点を売却し、さらにロンドンの火災で約900点を失った。1959年、接収していたフランス政府から、美術館建設を条件として作品が寄贈され、国立西洋美術館が誕生した。
松方コレクションは約3000点に及ぶ。さらにフランスから買い戻した浮世絵約8000点を加えると、総数は1万点を超える規模となる。1916年から1927年までの、わずか10年ほどの期間に集中的に蒐集されたものだ。作品約160点と歴史資料によって、時代の波に翻弄された松方コレクションの構想から100年に及ぶ軌跡をたどる企画展は、国立西洋美術館開館60周年記念企画でもあった。
2017年1月14日、すみだ北斎美術館で開催された「北斎の帰還」展を鑑賞した際、松方コレクションの蒐集に尽力した林忠正の名を目にしたことを思い出す。展示の目玉は《隅田川両岸景色図巻》である。この作品は、フランスで活躍した美術貿易商・林忠正の手に渡り、1902年に競売にかけられた。その後、2008年にロンドンのオークションで106年ぶりに姿を現し、墨田区が取得したものである。原田マハは小説『たゆたえども沈まず』の中で、才気と孤高の人林忠正に、「たゆたえども沈まず――って、知ってるか」「激流に身を委ね、決して沈まず、やがて立ち上がる」「それこそが、パリなのだ」と語らせている。
2019年4月10日、上野の国立西洋美術館で開催された「林忠正」展を訪れた。林忠正(1853―1906)は、日本人として初の本格的な西洋美術商である。松方幸次郎に先立つこと約25年、日本に西洋美術館をつくる夢を抱いた人物だった。1883年から3年間、『芸術の日本』誌を刊行。ルノワール作品を200点以上扱い、1900年のパリ万博では日本側事務官長を務めた。ドガ、モネ、ピサロ、モリゾらとも交友があった。帰国に際し、25年かけて収集した5000点以上を売却し、500〜600点を携えて帰国、さらにニューヨークで165点を売っている。ルノワールの版画や素描を東京帝室美術館に寄贈した。一方で、戦前には浮世絵を海外に流出させたとして「国賊」と呼ばれ、長く評価は低かった。しかし、孫の妻である木木康子による『林忠正とその時代』によって再評価が進んだ。この日は偶然にも林忠正の命日であった。
原田マハの『美しき馬鹿者のタブロー』は、国立西洋美術館の原型となった松方コレクションと、その中心人物・松方幸次郎を描いた物語である。タブローとは絵画の意であり、「馬鹿者」とは、美に魅せられた人々のことだ。松方幸次郎、矢代幸雄吉田茂日置弘一郎らが登場し、原田マハは彼らに「美しき」という賛辞を贈っている。
絶頂期にあった松方は、フランス大使から次のような助言を受けたとされる。「どうせ破産するなら、いまのうちにどんどん使っておけ。油絵でも何でも、買えるだけ買い占めろ。それを日本に持って帰れば、お国のためになる。せいぜい、どっさり買っておけ」。松方はこの言葉を実行した。本書は、戦後、吉田茂首相が大磯の邸宅で過去を回想する場面から始まっている。
莫大な利益を得たときに、本物の西洋美術を集めた美術館を建設するという夢を抱いたことが、すべての始まりだった。もしその夢がなければ、利益はいつの間にか消え去っていただろう。夢、構想、そして志の大切さを、この物語は教えてくれる。
本書では、林忠正の志を松方幸次郎が引き継いだのではないか、という想定がなされている。松方自身は「絵はわからない」と語っていたが、「本物の西洋美術を日本の画家に集めてみせてやる」と、その志を明確にしている。「美しき馬鹿者」たちの志の結晶が、現在の国立西洋美術館である。松方幸次郎を中心とする彼らの恩恵を、私たちは今も、そして未来の日本人も受け続けていくのである。