「安部公房展ーー21世紀文学の基軸」(神奈川近代文学館)ーー『砂の女』は世界文学の最高峰

神奈川近代文学館で開催された「安部公房展ーー21世紀文学の基礎」を訪問した。

生誕100年を記念した特別展だ。ノーベル文学賞の有力候補だった安部公房1924年生まれで、生きていれば100歳。

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父は医者で、安部自身も数学の天才と言われ、中学4修で入学した成城高校(恩師の阿部六郎は阿部次郎の弟)から、東京帝大医学部卒だ。だが、インターンにはいかずに医者とはならなかった。

企画展では、ワープロシンセサイザー、車、カメラ(時間の中で変形していく空間に興味)など、最先端の機器を使いこなす姿が印象に残った。

本業の小説だけでなく、演劇集団「安部公房スタジオ」(堤清二がスポンサー)を立ち上げて、映画の脚本、舞台なども手がけた好奇心旺盛な行動家だった。

図録の中で三浦雅士は、安部公房は世界文学の萌芽があった漱石と賢治を越えようとしたとし、その流れは1990年前後に登場した、池澤夏樹辻原登小川洋子川上弘美らに続くとしている。

彼岸とこの世の往復がテーマで、この二つの世界は小さなのぞき穴でつながっている。それはインターネット時代を予言したのであり、インターネットの世界はあの世であると解説している。

安部公房の小説には「故郷」が出てこない。安部は東京で生まれ、旧満州で育った。そして原籍は北海道。故郷を持たない人間であるとの自覚があった。

代表作は、日本共産党除名後に発表された1962年の『砂の女』、1964年の『他人の顔』(事故で顔を整形した男が自分の妻を誘惑する物語)、1967年の『燃えつきた地図』だ。

今まで読んでいなかった有名な『砂の女』を読んでみた。教師であった主人公が女が趣味の昆虫採集のさなかに住む砂の家に閉じ込められる。必死に抵抗し脱出を試みるが失敗の連続となる。そして女との生活になじんでゆく。とうとうその機会がやってくる。ところが、自由を得た男は脱出はせずに、砂の家に戻っていくという結末だった。

生徒たちは水のように流れ去っていく。教師は深く埋もれた石だ。砂を掻きだす作業は、単調であるが誰かの役にはたっている。気をまぎらせてくれる。ささやかな充足がある。「自由」、そして「人間とは何か」をテーマとした小説だった。この作品は映画にもなったし、また世界30数カ国で翻訳出版された世界文学の最高峰となった。

妻の安部真知は大分県出身で、舞台美術、装幀を手がける美術家であり、安部公房の作品にも大きな影響を与えている。安部の小説の装幀も多い。

安部公房は1973年に箱根の山荘で暮らす。後に女優の山口果林が愛人だったことがわかって世間が驚いたことがあったことを思いだした。この図録には名前が数カ所出てくる。

安部公房は68歳で日本医科大の永山病院で亡くなっている。もう少し長生きしたらノーベル賞をもらっていたかもしれない。紹介者ドナルド・キーンさんも残念がっていた。

 

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「名言との対話」11月23日。倉田洋二「常に戦友のことが頭にあり、生き残った自分がやらなくてはとの思いがとても強かった」

2019年11月23日死去(老衰) 92歳

倉田洋二(1927年ー2019年11月23日)は、海洋生物学者。享年92。

1941年、14歳の時に南洋庁水産試験場職員として生物研究のためパラオに渡る。その年に太平洋戦争が勃発した。1944年、戦況悪化に伴い現地召集され、パラオアンガウル島守備の任に着いた。9月、米軍はアンガウル島に上陸。地獄のような戦闘が繰り広げられる。玉砕を禁じられ、終戦後約2年間も、小さな島でゲリラ戦を挑み、アンガウル島の動植物を食べて生き延びた。アンガウル島で戦った約1200人の日本兵の中で生還した約50人の1人となった。

戦後、東京都職員としてウミガメの食用研究を進め「カメ博士」と呼ばれた。小笠原水産センター所長などを務めた。

退職後の1994年、「戦友の墓守をしたい」とパラオへ移住した。パラオには1953年に建立された「戦没日本人之碑 日本国政府 内閣総理大臣 吉田茂」という碑など、慰霊碑26基と観音像が日本の方向を向いて建てられていた。2008年に移転を求められ、倉田は日本で募金活動を行い、寄せられた350万円ですべて移設し、平和公園として整備し、戦友たちの墓守としての役割を果たしている。倉田は、戦争を背負って生きたのだった。

倉田は2015年の天皇・皇后両陛下のパラオでの慰霊に、戦死者名簿を携えて立ち会っている。4年後の2019年2月の宮中茶会に招かれてたとき、「戦友に代わり、もう一度『ありがとう』と伝えたい」との思いから、「陛下にお会いできるのもこれが最後と思い、やってきました」と語った。11月に92歳で逝去。

第二次大戦中の激戦で亡くなった戦友を偲んで、戦後日本の再建に邁進したり、慰霊をなぐさめるために小説に書いたりする人を多く見てきたが、墓守として現地に移住までした人を初めて知った。風前の灯だった戦友の慰霊碑を守り、平和公園を整備したことによって、彼らの魂は安らかに眠ることになったのだ。

パラオ歴史探訪』という本がある。副題は「倉田洋二と歩く南洋群島」である。パラオ第一次大戦の後に、日本の委任統治領となった。日本とパラオの深い関係、平和の尊さを学べる本だ。第1章は日本統治時代の遺構の紹介と戦跡。第2章は倉田洋二の遺稿で、座談会での発言や講演の内容が記録されている。