センター入試初日。
「名言との対話」1月14日。三木隆。
「自分たちの目の黒いうちに必ずまた合同しようではないか」
三鬼隆(みき たかし、1892年1月14日 - 1952年4月9日)は、日本製鐵・八幡製鐵(現・新日鐵住金)元社長。鉄鋼業界の大御所だった。第二代日本経営者団体連盟会長。岩手県花巻市出身。父は実業家・政治家の三鬼鑑太郎。長男は元新日本製鐵会長の三鬼彰。
戦後の農地改革・労働運動の解放と並んで占領軍によって打ち出された財閥解体によって、四大財閥を筆頭に80以上の組織が解体された。三井物産と三菱商事は中小商社に分割された。1950年に日本製鐵は八幡製鐵と富士製鐵等に分割させられるなど日本の経済界には激震が走った。その財閥解体から統合までを三鬼隆は疾走している。
後に三鬼が航空事故死した時に15歳だった娘は4年後に日本航空のスチュワーデスとなった。娘は父の航空事故死を乗り越えて、スチュワーデスを「女性の立派な職業」と語り、女性の自活のための仕事選択と家族の不幸を混同しなかったことが話題を呼んだ。
冒頭の言葉は、三鬼が分割された八幡製鐵初代社長となった時に発した言葉である。三鬼の目が黒いうちには叶わなかったが1970年、八幡製鐵と富士製鐵が合併し、新日本製鐵株式會社となった。三井物産の統合を志した水上達三も同じだが、統合という志が人々を結びつけ奮い起こした。リーダーの発する志が組織の命運を握っている。
「副学長日誌・志塾の風170114」
大学入試センター入試の初日。本部詰め。
全国的に最強の寒波襲来の日。
栢原先生。村山先生。志賀先生。中庭先生。浜田先生。、、。