NHKラジオアーカイブス「声でつづる昭和人物史」土光敏夫1・2.計1時間:昭和の精神。土光イズム。再建(IHI、東芝)と改革(経団連、行革)の人。民族の能力。個人は質素に、社会は豊かに。地獄の釜の底から見ているぞ。ーー昭和史を語る人は、半藤一利亡きあとは、保阪正泰だけになってしまった。アイフォンでウオーキング中に聞きながら、私の仕事人生は、「改革(JAL)と創業(宮城大)と再建(多摩大)」だったと総括できると思いました。12000歩。
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昼食は妹夫妻と私たち夫婦と、立川で食事会。
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BSで太宰治の番組。一緒に入水自殺した山崎富栄の実像。「井伏さんは、悪人です」(太宰の遺書)。猪瀬直樹。又吉直樹。
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あるプロジェクトのアイデア集。
運。失敗。志。習慣。テーマ。挨拶。兄弟。蓄積。金と女、継続。記録。失意。漫画。挑戦。中退。遅咲き。挫折。ユーモア。反省。ベスト。団塊。続ける。構想。座右の銘。信条。世代。自分史。デザイン。自立。フロントランナー。愛読書。郷里。故郷。チャレンジ。思考。探検。先生。恩師。友人。ライバル。価値。弔辞。姿勢。心がけ。心構え。永遠。同志。日記。邂逅。徳。人生。生涯。SNS。人物。偉人。性格。情報源。辞世。面倒見。偉人。自由。センテナリアン。二足。失敗。成功。完成。師弟。全集。出会い。定年。再建。創業。改革。革命。・・・・。
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「名言との対話」2月9日。広岡達朗「選手は“取ってくる”ではなく、“育てる”もの」
広岡 達朗(ひろおか たつろう、1932年2月9日 - )は、広島県呉市出身のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。
早稲田大学時代は「六大学(神宮)の貴公子」と呼ばれた。読売ジャイアンツへ入団し新人王を獲得。川上とは現役時代、監督時代に衝突し、1966年に引退。
1969年、広島東洋カープ内野守備コーチに就任する。ヘッドコーチの関根潤三と共に、後に「ミスター赤ヘル」「鉄人」と称される山本浩二・衣笠祥雄らを育て、後の広島黄金時代の礎を築く。
ヤクルトスワローズではヘッドコーチを経て、正式に監督に就任した1977年以降は厳格な指導で、日本一に輝いた。
1981年に西武監督。1982年から西武で2年連続日本一。1985年は日本シリーズで敗れる。 西武ライオンズ時代の選手石毛宏典が後に語っている映像をみた。第一次西武黄金時代は広岡監督の時代だった。4年間、その後森監督が9年監督をしているがこれが第ニ次黄金時代だ。前任の根本監督が良い素材を集めたそれを料理したのは広岡だった。広岡は4年の監督時代に3度のリーグ優勝と2度の日本一を手中に収めている。広岡は組織力を導入した監督であった。自然食でアルカリ性の体を作る。豆乳をすすめた。肉を食べるな。キャンプでは必勝法と必敗法の27箇条を作り選手を完全にマインドコントロールした。そして頭ではなく体が反応するまで行って、ミスがなくなるチームに仕上げた。教育と訓練、それが広岡の指導法だった。
セリーグ、パリーグ両方で日本一になった名監督である。1994年、千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネージャー(GM)に就任した。現在も野球評論家としても活躍中だ。
毒舌の影響か敵も多く、川上哲治・森祇晶・豊田泰光・江夏豊・東尾修らからは公然とその人間性を批判されている。私も広岡を講演に招いた人が、その不遜な態度を批判しているのを聞いたことがある。最大の敵であった川上も「どんな立場に就いても自分をフルに発揮する」とその能力は非常に高く評価している。 広岡自身も「時間がたった今、自分に辛くあたった人、球団にはむしろ自分が発奮する手助けをしてくれた、と感謝している」と述べている。批判、直言してくれる人の存在は貴重だということがわかる。
以下、広岡語録から。 「選手から“鬼”と呼ばれて一流」「走攻守の三拍子揃った選手を育てるのが当たり前なんです。そうして選手にそれぞれの役割を与え、できなくなればユニフォームを脱がせる」「正しい理論は、膨大な練習量が伴って初めて実証されるのです」「僕は管理をしたんじゃない。ルールを教えたんです」
広岡は選手としては大成はしなかったが、監督としての能力と実績は群を抜いている。その真髄は球界の盟主・巨人が金の力で有力選手を手に入れるやり方ではなく、弱小チームを最強軍団にするところにある。2020年度に巨人がソフトバンクに一方的に敗れたとき、「前代未聞のジャイアンツ2年連続4連敗」を一刀両断し、「工藤と原には決定的な差がある」と喝破した。広岡達朗は「野球で勝つには、そのチームごとに「戦力の方程式」を考えなくてはなりません」とし、下位チームで「指導とは根気と見つけたり。結局、人を指導するということは、その相手とじっくり向かい合って、根比べをすることなのだ」という信念で人を育て、総合力としてのチーム力をあげていくやり方で、一時代を築いた。戦略家と教育者の二つの面が広岡イズムをつくったと総括しよう。