2005年から始めて後5館で1000館に達する、人物記念館1000館が視野に入ってきてから、「1000」という数字にアンテナがたっている。
28日の日経文化欄「交遊抄」に「千人の顔」という記事があった。ここでプロカメラマンオの山岸伸という人が、「瞬間の顔」とうテーマで1000人の大台に到達したことが紹介されていた。芸術家、スポーツ選手、ジャーナリスト、経済人、政治家など活躍している人々を10数年間で古稀に近い時点で700人、4年後に1000人となったとあった。調べると、私と同じ1950年生まれのこの人は2007年から始めた撮影がライフワークになって15年で達成している。
「山岳学」を打ち立てようとした、日本の霊長類研究の創始者である文化勲章受章者の今西錦司は1000山を踏破している。62歳で400山、66歳で500山、76歳で1000山、1985年に83歳で日本1500山を達成し、以降は数えるのをやめ85歳で終了している。90歳永眠。
「千夜千冊」という名著の本格的な書評を毎日書き続けるという荒行を続けた松岡正剛がいる。2000年2月から書評サイト「千夜千冊」の執筆を開始。同じ著者の本は2冊以上取り上げない、同じジャンルは続けない、最新の書物も取り上げる、などのルールを自らに課し、時に自身のエピソードやリアルタイムな出来事も織り交ぜた文体は、話題を呼んだ。第一夜は中谷宇吉郎『雪』。2004年7月に良寛『良寛全集』で「1000夜」を達成した。しかしその直後に胃癌が発覚し、手術入院を余儀なくされる(その詳細は「千夜千冊」番外『退院報告と見舞御礼』に語られている)。しばらくの療養後、再び「千夜千冊」の執筆を開始し、2006年5月22日に柳田國男『海上の道』でもって「放埓篇」として完結した。この放埓篇・全1144夜に大幅な加筆と構成変更を行い、全8冊の大型本『松岡正剛 千夜千冊』として2006年10月に求龍堂より出版された。定価99,750円という高額にもかかわらず初版1000部を完売し、2006年の出版界の事件として話題となる。その後「遊蕩篇」として、1145夜の2006年6月6日(日浦勇『海を渡る蝶』)から1329夜の2009年11月22日(丁宗鐵『正座と日本人』)まで185冊を執筆した。2009年11月より、「連環編」と「番外録」を開始し、2012年以後、新たに「意表篇」「思構篇」「歴象篇」「分理篇」など8篇を追加、現在は計10篇のテーマインデックスで定着している。同年、松岡自身が「千夜千冊」を語り伝える音声コンテンツ「一册一声」の配信をスタート(オーディオWebマガジン「方」で月2回配信)。2013年橋本達雄編 『柿本人麻呂』で“1500夜”を達成し、記念イベント「千夜千冊ナイト」を開催した。
「千日回峰」。千日回峰行(比叡山)。天台宗比叡山延暦寺の回峰行。7年。3万3千キロ余。北嶺大行満大阿闍梨。志賀と京都にまたがる比叡山で行われる。天台宗の回峰行。平安時代に相応が始める。7年間。過去51人が達成。戦後は14人。深夜2時出発。260箇所で礼拝。約30キロ。6時間で巡拝。笠、白装束、草鞋履き。1-3年目は年間100日。4-5年目は200日。5年700日を満行すると「堂入り」。入堂前に生き葬式。足掛け9日間の断食・断水・断眠の4無行に入る。深夜2時に堂を出て閼伽井で閼伽水を汲み、堂内の不動明王にこれを供える。それ以外は堂中で真言を10万回唱える。満了すると行者は生身の不動明王である阿闍梨となる。これを機に自利行から衆生救済の利他行に入る。6年目はこれまでの行程に赤山禅院往復を加えた1日60キロの行程が100日。7年目は200日。前半100日は京都大回りの84キロ。後半は比叡山中の30キロ。計算すると合計3万3千キロ余。
千日回峰行(大峯)。金峯山修験本宗金峯山寺の回峰行。9年。4万8千キロ。千日回峰行満大阿闍梨。高低差1300mの険しい奈良の峰山の往復48キロを、毎年5月3日から9月初旬まで16時間かけて上下する。年120日余。足掛け9年で4万8千キロを歩く(地球一周は約4万キロ)。1300年の歴史の中で萬行者はわずか2人。2人目は仙台市秋保の慈眼寺住職の塩沼亮潤(昭和43年生)。深夜11時半に起床。午前0時半に出発、帰ってくるのは15時半。掃除・洗濯などで18時に宿坊。日誌をつけた後、寝るのは23時半までの4時間半。満行後は、10年目に9日間の四無行。飲まず、食べず、寝ず、横にならず。「致知」4月号より)
宮本武蔵の『五輪書』には 「千日の稽古をもって鍛とし、 万日の稽古をもって錬とす」とある。鍛錬とは千、万の稽古を積み上げることなのだ。3年で鍛、30年で錬、という計算になる。日本刀造りでは鉄を叩き硬さをつくる段階を鍛といい、焼き入れで柔軟性をつけることを錬という。練り(ねり)によって硬さに加えて柔軟性を身につけた強い名刀になる。
水前寺清子の「三百六十五日のマーチ」では、「一日一歩 三日で三歩 百日百歩 千日千歩」「千里の道も一歩から」という歌詞である。
他にも、探してみよう。
NHKBSの火野正平(1949年5月30日生)の「日本縦断 こころ旅」(7時45分)が、4月26日で1063日になった。2011年4月から11年かけて17068キロを走破。1000日達成は72歳。
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「名言との対話」4月29日。尾崎秀実「英子や楊子、並びに真に私を知ってくれる友人達の記憶の中に生き得ればそれで満足なので、形の上で跡をとどめることは少しも望んでおりません」
尾崎 秀実(おざき ほつみ、1901年(明治34年)4月29日 - 1944年(昭和19年)11月7日)は、日本の評論家・ジャーナリスト。
東京帝大法学部卒業後、朝日新聞に入社。1928年、上海特派員、ソ連共産党員のドイツ人・ゾルゲと知り合う。1932年、大阪本社、1934年にゾルゲと再会し、諜報活動を支援する。日本とソ連の戦争を回避するためであった。1934年、東京。1938年に朝日新聞を退社し、近衛文麿首相の嘱託となる。1939年、満鉄調査部嘱託。尾崎は東亜協同体論の中国評論家として大をなしていく。1941年、ゾルゲ事件で逮捕され、1941年に処刑された。獄中の書簡集『愛情は降る星のごとく』がある。
尾崎秀実「遺書」(「日本の名随筆 別巻 17 遺言」)を読んだ。あて先は家族ではなく、「竹内老先生」となっている。高名な中国評論家の竹内実である。以下、「遺書」から。
- 遺言と申す程のことはありませんが、家内へ申し伝えたい言葉を先生までお伝え致しおき、小生死後先生よりお伝え願ったらいかがなものかと、ふと心付きましたのでこの手紙を認めました次第でございます。
- 一、小生屍体引取りの際は、どうせ大往生ではありませんから、死顔など見ないでほしいということ、楊子はその場合連れて来ないこと。一、屍体は直ちに火葬場に運ぶこと、なるべく小さな骨壺に入れ家に持参し神棚へでもおいておくこと。一、乏しい所持金のうちから墓地を買うことなど断じて無用たるべきこと。勿論葬式告別式等一切不用のこと(要するに、私としては英子や楊子、並びに真に私を知ってくれる友人達の記憶の中に生き得ればそれで満足なので、形の上で跡をとどめることは少しも望んでおりません)
- 妻子に只一つ大きな声で叫びたいことは、「一切の過去を忘れよ」「過去を一切を棄てよ」ということです。、、、一切を棄て切って勇ましく奮い立つもののみ将来に向って生き得るのだということをほんとに腹から知ってもらいたいというのです。、、、結局「 冷暖自知」してもらうより他はないと「思います。、、、「大きく眼を開いてこの時代を見よ」と。、、、これこそは私に対する最大の供養であると、どうぞお伝えください。。、、そうして「心からお気の毒であったと思っている」とお伝え下さい。一徹な理想家というものと、たまたま地上で縁を結んだ不幸だとあきらめてもらう他ありません。
- ここの所長さんの御好意によって自由な感想録を書かしていただいています。、、世界観あり、哲学あり、宗教観あり、文芸批評あり、時評あり、慨世あり、経綸あり、論策あり、身辺雑感あり、過去の追憶あり、といった有様で、よく読んいただければ何かの参考になろうかと思っております。
尾崎秀実はソ連のスパイ説と、日本を愛する国士だったという相反する二つの説がある。今日でも、テレビで「ゾルゲ事件」に関する番組が放映されることもこともあるが、真相はなかなかわからない。「スパイ」は敵対する陣営の間にたつというまことに微妙な役割を演じる人である。どちらからも信頼され、どちらからも疑われるという宿命がある。その真意は日本とソ連とが戦争向かうのをやめさせようとしていたと理解しておこう。この「名言との対話」を書き続ける中で、関係者の生涯を何人も追うことになるだろうから真相に近づくことができるだろう。