東京都美術館の「田中一村」展ーーこの企画展を境に一気にこの人はメジャーになっていくのではないか。

東京都美術館の「田中一村」展。

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田中一村「死んだ後50年から100年後に認めてくれる人があればそれでいい」
田中 一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は、日本画家。

田中の人生は4歳から29歳までの東京での生活。30歳から50歳までの千葉での生活。50歳から亡くなる69歳までの奄美生活と3期に分けられる。

東京芝中学では卒業式の答辞を読むなど抜群の成績であった。入学した美術学校ではわずか3ヶ月で中退している。理由は結核にかかったことと家庭の貧窮のためであった。当時の美術学校は教師として、河合玉堂、松岡瑛丘等の人物が揃っていた。同期生にも人材が多く、東山魁夷もいた。

田中は剛直、寡黙沈着、自由奔放の性格であった。この天才児はすでに南画の領域に達した、と言われていた。しかし田中は生活の安定のための絵を選ばなかった。日本画の本道に立とうとしたのである。つまり売るための絵を描くことを潔しとしなかった。

29歳で千葉に移る。6畳2間と10畳のアトリエに家族4人で住んでいる。農業を営みながら、絵についても勤勉な生活を行っている。

田中は川端龍子が取り仕切っている青龍展に入ることになった。このあたりで米邨という雅号から「柳一村」に変えている。心機一転で「白い花」を描き公募展の初入選をしている。田中の入選は生涯これだけであった。このとき同時に東山魁夷は「残照」で日展の特別賞を受賞をしていた。一時、師と仰いだ川端龍子とは喧嘩別れとなる。その後院展日展に応募するが落選を続けている。

「世界一の絵を描くことこそ必要なのだ」「一日かかないと眠れないない」

頼まれて絵を描くと、途中で緊張が途切れてなかなか元の水準に戻らないと語っていた。パンのために絵を描くことはできない。しかしこのままで朽ち果てることはできない。いよいよ集大成を作らねばならない。背水の陣をしくことを決心する。

1958年の暮れから奄美の旅に出る。サンゴの白い砂、エメラルドグリーンの海、青い空、黒いソテツとその赤い実、パイナップル、バナナ、ハマユウ、ユリ、…。奄美を旅した後、50歳になっていた田中一村奄美諸島を舞台に生涯最後の絵を書こうと決心をした。

田中は対象とするあらゆるものを調べ尽くしてスケッチをする。そして、絵が楽しくなると、言動が狂人に近くなると自覚していた。ゴッホセザンヌ漱石、体感も同様の狂人であったと田中は言う。

東山魁夷ら美術学校の同期生が世に出ている時でも、「絵描きは貧乏でなければ絵はかけません」「私にあるのは絵の実力だけです」と自負していた。

苦しい生活の中で、田中の師であり、友であったのはピカソであったようだ。常にピカソ画集を手元に置いていた。

54歳の時田中は10年計画を立てている。5年は働く、その後3年絵を描く。2年は働き、個展の準備をする。そして千葉で最後の個展を開く。一気に勝負をかけようとしたのであるが、残念ながらこの計画通りにはいかなかった。生活苦に明け暮れた生涯であった。田中は生涯独身であった。

この辺になると世に出ることは諦めていた。「死んだ後50年から100年後に認めてくれる人があればそれでいい」と思うようになっていた。

奄美では30点しか絵がかけなかった。最後の大作は「不喰芋と蘇鐵」(クワズイモクワズイモとソテツ)であった。田中は生涯で600点ほどの作品がある。そのうち160点余りは奄美大島田中一村記念美術館に所蔵されている。千葉美術館も所蔵作品が100点を超えている。

1984年、没後10年もたたずに、NHKの「日曜美術館」で「黒潮の画譜ー異端の画家、田中一村」が放映されて田中一村という画家に光があたる。2001年、田中一村記念美術館がオープン。その後、田中一村の企画展が数多く開催されている。 2008年、奈良の万葉文化館。2010年、千葉市美術館。2012年、沖縄県立博物館・美術館。石川県立美術館。2018年、岡田美術館。佐川美術館。2011年、千葉市美術館。

2006年には田中一村の生涯を描いた映画「アダン」が公開された。出演では榎本孝明が主演している。アダンには公募によってデビューした木村文乃が当たっている。生涯にわたって一村を支えた姉の田中喜美子は古手川祐子が演じている。会場では田中一村を描いた評伝も多いことがわかった。

この企画展で、南画から始まった画風の展開と最後に奄美の自然を描くアンリ・ルソーばりの力量には感嘆した。まさに日本のゴーギャンという評価もうなづける。会場でみかけた人々も感じような感想を持っていたように感じた。これほどの画家が生存中は中央画壇で認められなかったのはまったく不思議だ。

田中一村は1977年に没している。本人の予想の50年後ではなく、死後直後からすでに田中の評価は高くなっていることがわかる。現在の2024年は、没後50年前後にあたる。この企画展を境に一気にこの人はメジャーになっていくのではないか。

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南日本新聞社編『日本のゴーギャン 田中一村伝』

日本のゴーギャン 田中一村伝(小学館文庫) (小学館文庫 R み- 6-1)

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東京都美術館で、妻と昼食を食べたあと、新宿へ。

「星野珈琲」で『革命』の「梅棹文明学」執筆の構想を練る。

「福岡から上京している松尾哲君と歌舞伎町の「鳥貴族」で3時間。

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「名言との対話」10月29日。志賀信夫「人を書くことがなによりも大切だ」」

 志賀 信夫(しが のぶお、1929年昭和4年10月23日 - 2012年平成24年10月29日)は、日本放送評論家

福島県出身。 早稲田大学大学院修士課程修了。早稲田大学文学部講師をへて、放送評論家となる。テレビが誕生してから常にテレビを見続け、評論家として独自のスタイルを貫く。放送批評懇談会理事長、メディアワークショップ理事、ビデオ映像文化振興財団理事、文化庁芸術祭審査委員、NHK演出審議委員などをつとめた。

志賀信夫『映像の先駆者125人の肖像』(NHK出版)という535ページという大部の著書を手にした。

テレビ界の先駆者・パイオニアたちの生き方、そしてどのようにしてヒット作を生み出したか。ディレクター、プロデューサー、技術者、カメラマン、クリエーターたち125人が登場する。3年間、毎週一人づつ、「映像新聞」に「映像界の巨人との一期一会」というテーマで書いたものが基本となってこの本が成立している。

以下、私が名前を知っている人たちのタイトルをあげてみよう。第1章「ドラマ」では、石井ふく子「人の心の優しさ描く」。大山勝美「時代と人間への共感を紡ぐ」。久世光彦「生放送ドラマに深い愛着」。萩元晴彦「テレビ現在、を持論に多彩な作品歴」。吉田直哉「よっちゃんと呼ばれた神様」。和田勉「アップ、で売り出した芸術祭男」。第2章「ドキュメンタリー」では、大原れいこ「人間と音楽のかかわり方を追求する」。岡本愛彦「ドラマの金字塔「私は貝になりたい」」。今野勉「傑作「欧州から愛をこめて」」。村木良彦「TBS時代からチャレンジ精神を一貫」。第3章「バラエティ、ニュース・情報、科学、CG、幼児、美術、技術、カメラマン、CM」では、澤田隆治「先見性こそディレクターの基本条件」。横澤彪「芸人たちの総合力を発揮させる」。ばばこういち「ユニークな生放送番組を開発」。妹尾河童「代表作「ミュージック・フェア」。川崎徹「消費者を引きつける表現力」。仲畑貴志「ユーモアあふれる作風」。

一人分は原稿用紙23枚であるから、いずれも力作ぞろいだ。「まえがき」と「あとがき」で、この本について語っているのが興味深い。

古希を過ぎてから人生のまとめの仕事をしたいという気持ちが強くなり、自己の体験を通して、実感を込めた本格的な放送史を書くのがなすべき仕事だと思うようになって、この本が誕生する。そして「映像界のパイオニア列伝」が完成した後、「続いて映像界のクリエーターの肖像を書き、『人名辞典』にも使えるような著作活動をしたい」との決意を語っている。志賀信夫の場合も、一つの大きな仕事をすると、次のテーマが浮上してくるのである。それがライフワークというものだろう。

この「名言との対話」においても、各分野の先駆者や開拓者も多く取り上げている。分野ごと、時代順に整理してみたいものだ。大相撲、プロ野球、映画人、ラグビー、サッカー、水泳、陸上、芸能、、、、。こういった分野の歴史も、人に焦点をあてると人間くさい、リアリティの豊かな物語になるのではないか。

「人を書くことがなによりも大切だ」という主張には、私も大いに共感する。映像界に限らず、人間ドラマの集積が歴史そのものなのだ。