夜:21時過ぎから『アクティブ・シニア革命』編集会議。
夕:18時からギリークラブの映像「日本文化の源流」を観る会(九段下の寺島文庫の文庫カフェ)
全10巻「風流」「遊び心・楽しむ」「美を支える技」「手仕事」「伝統工芸」「地域と文化」「地域と暮らし」「匠の世界」「究極のわざ」「ひとすじの道」。羽仁進演出。
このうち、第3巻「美を指せる技」の「歌舞伎の小道具」と第9巻「究極のわざ」の「杜氏」を鑑賞し、参加した14名で語り合った。
夕:神田古本まつり:神田町ブックセンター
昼:午後:12時過ぎから昼食は小学校からの同級生の永沼君(博多から上京した歯科医)。新宿の隠れ坊。
朝:電車の中で昨日の衆院選の新聞記事を読みながら。
朝:9時半から近藤秘書とスケジュール調整など。
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「名言との対話」10月28日。川上哲治「中途半端だと、愚痴が出る。いい加減だと、言い訳がでる。真剣にやれば、知恵が出る」
川上 哲治(かわかみ てつはる、1920年(大正9年)3月23日 - 2013年(平成25年)10月28日は、 プロ野球選手(内野手、投手)・監督・解説者。享年93。
熊本県球磨郡大村(現在の人吉市)出身。巨人の不動の4番打者。プロ野球初の2千本安打。背番号16は永久欠番。
熊本工業で甲子園準優勝投手。巨人入団後一塁手に転向。3年間兵役(熊本歩兵部隊・立川航空隊)。51年セ・リグ新の3割7分7厘で首位打者。、年間の三振数は6個。首位打者5度・本塁打王2度・打点王3度。通算打率3割1分3厘。監督生活14年で、日本一11回。日本シリーズ9連覇。
勇退後は、野球解説と少年野球教室の講師として全国を歩き、野球の裾野拡大に尽力。野球界初の文化功労者。私はずっと長島ファンだったが、川上の打者として活躍は記憶はない。
ニックネームの多い人だった。「打撃の神様」「赤バットの川上」「弾丸ライナイー」「テキサスの哲」「哲のカーテン」。
語録を拾う。
- 「リーダーは人をリードできるだけの人物に早くならなくてはいけないと思う」
- 「チームの目標にどうやっていくかと考える選手たちをうまく育てていくことですね。だからものの考え方の基本というものが相当大きな問題になってくるような気がします」
- 「チームのためにやることがおれのプラスになるというようなことをかぶらせながら率いていくリーダーでなければ、なかなか選手をうまく働かすことができないという時代になっていくんじゃないでしょうか。根底はデータ、セオリーだと思いますけどね」
- 「プロ野球では監督が代わるのは弱い時なんです。新しい監督というのは経験もないうえに弱いチームを引き受けなければいけないんですから非常に過酷なんですね」
- 「“勝負”の二字には、文字通り“勝ち”と“負け”しかない」
- 「勝負に強いか弱いかは、執念の差」
- 「組織のリーダーは、自らが良く思われたいという我執、とらわれの気持ちを捨てねばなりません」
- 「ときに部下や周囲の不興を買うことがあったとしても、大義を表現するために成すべきことを成す。そういう強い信念を持った人間でなければ、リーダーは務まりません」
- 「周囲からどう評価されるか、という不安や心配から自らを解き放って、自分の想念を「無の境地」に置けば、問題の所在が良く見えるようになります。あとは、その問題を淡々と解決していく。こうすると自分も楽になるし、不思議なもので、だんだんと勘も冴えてくる」
- 「成功する人とは、この冷や飯を上手に食べた人であるといってよい」
- 「疲れるまで練習するのは普通の人。倒れるまで練習しても並のプロ。疲れたとか、このままでは倒れるというレベルを超え、我を忘れて練習する、つまり三昧境(さんまいきょう=無我の境地)に入った人が本当のプロだ」
巨人軍の4番打者のとき「ボールがとまって見える」という境地にまで達した川上哲治は、日本一9連覇という空前絶技の偉業を成し遂げ、監督としてもその境地に達した。ここにあげた言葉を眺めると、人間集団を率いるマネジメントの大家であったとの感を深くする。
亡くなった翌日の読売新聞の見出しは「名打者にして名将」、「栄光の巨匠」だった。薫陶を受けた選手たちの哀悼の言葉。
- 前田智徳「首位打者争いの心構えを説かれた。1日4打席とすれば、その最後の打席で自分のスイングができるように臨みなさい。」
- 星野仙一「情に厚いところもあったが、野球に対しては非情。それだけ集中し、人生を賭けておられた。私の師匠のような存在。リーグ優勝した後にもはがきをいただき、「最後までしっかりやれ」と励ましていただいた。」「勝つためにいろんな書物を読んでいた。三国志とか韓非子とか。」
- 長島茂雄「監督としては勝負にも選手教育にも一切の妥協を許さない厳しさで、前人未到のV9に大きな役割を果たされました。」
- 王貞治「9年というのは川上さんの執念が生み出した。今後も破られることはないでしょう。」
- 黒江透彦「勝負の事だけでなく人間教育も受け、その教えは他球団にいっても役立った。親をなくしたような気持ちだ」
- 森昌彦「人生の師匠」
- 野村克也「常に(V)時代が脳裏にあり、川上さんを鏡にしていた」
- 妻「どんなことにも常に全力投球で、93年間の人生を駈け抜けていったように思います。悔いのない大往生でございました。」
- 長男・貴光さん「最後は眠るように静かに亡くなった」
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- 語録を
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語録を続けよう。
- 「待つという部分が監督の仕事の中で一番大事なところだと思うのです。待つことのできない男は名監督になれない」
- 「中途半端だと愚痴がでる。いい加減だと言い訳がでる・真剣にやれば知恵がでる」
- 「ボールが止まって見えた」
- 「3割打者として巨人と契約させてもらっている私としては、今が引きどきだと思う」
- 「もう3割は打てないと思う。背番号16が泥まみれにならないうちにファンにお返ししようと思う」
この川上哲治という人物は「出処進退」を大事にする古武士だったと思う。長島が入団した年に38歳であっさりと引退。V9の翌年優勝を逃し長島に監督を譲る。その後は、少年野球教室で野球の裾野をひろげる活動に力を尽くす。そして400勝投手・金田の引退、ミスタージャイアンツ・長島の引退、などまだ少し早いかなと思う時に、辞めさせている。この人は出処進退を上手にやった人だと思う。