中村屋サロンミュージアムは2014年10月オープン。新宿に出かけたときはよく寄るのだが、29日はちょうど10周年のその日だったようで、昼時は貸し切りで入れなかった。
「中村屋の中村彝」展をやっていた。「思想が充ち、効果を見る眼が明らかになり、腕が相当熟練して来さえすれば、方法や材料は如何に簡単でも充分雄弁に且つ「堅牢不壊」の感じを与え得るものである」は、ロシアの盲目の詩人・エロシェンコを描いた時の言葉である。
次の絵は自画像。右の「麦藁帽子の自画像」は、パナマ帽を被って、光の中にいる。自身がありたかった姿かもしれない。
萩原守衛(1879-1910 )が改築したアトリエの洋館は親友柳敬助(1881-1923)のためだった。柳は1年住んで家主の相馬黒光が紹介した女性と結婚し出る。次の中村彝(1887-1924)は中村屋の長女・俊子と恋仲になる。15歳の少女・俊子の裸像の絵を美術展に出展したことがきっかけで非難を浴びアトリエから退き払う。その次がインドの革命家・チャンドラボース(1897-1945 )だった。ボースと俊子は結婚する。中村彝は1924年に亡くなるが、その2か月後に俊子もこの世を去っている。建物にも歴史がある。
2023年に「中村彝アトリエ美術館」を訪問した。
中村彝(つね。1887年―1919年)は、新宿中村屋の支援を受け、後に新宿下落合にアトリエを構えた。日本洋画の基礎を築いた画家の一人。このアトリエ美術館は、2013年に復元された。
7歳で肺を患い、37歳で逝った。中村は女性像に優れた人物画が多く、男性像の肖像画には傑作がある。
軍人志望を断念し画家の道へ進む。新宿中村屋の画室に住み、相馬夫妻の娘・俊子に恋をするが、病人に娘を託すことはできないと反対され挫折。新宿にアトリエをつくり、病の進行とも闘いながら「エロシェンコ氏の像」など優れた肖像画を生み出す。1923年の関東大震災を契機に強い創作意欲に駆られ、翌年の死まで新たな芸術を生み出していった。
「常に完成と全治に向かいつつある大いなる力」「力なきに非ず。見ざるなり。見ざるにあらず、明らかに見ざるなり」「(俊子)はほんとうの馬鹿正直な(純過ぎて)女ですから、思ひ込んだが最後中々手紙位でその心持を覆すことは出来ません」。
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橘川さんから依頼のあった志賀信夫『映像の先駆者125人の肖像』(NHK出版)を書く。
「梅棹文明学」の文章を書く。こちらは、今から推敲する。
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「名言との対話」11月1日。二上達也「座右の銘とは己を戒めるためのものだ」
二上 達也(ふたかみ たつや、1932年(昭和7年)1月2日 - 2016年(平成28年)11月1日[1][2])は、将棋棋士。
二上達也は40年間の棋士生活を送った。856勝752敗。A級在位通算27期。タイトルは王将1期、棋聖4期。タイトル戦登場26回。名人戦順位戦を戦うA級には10人しか在籍できない。二上は27年間にわたってA級にいたことになる。
9歳年上の大山康晴とは、通算で45勝116敗。タイトル戦では20回対戦し奪取2・防衛0・敗退18であるが、大山の五冠独占を2度崩している。天才・二上達也の名前は、メディアでよく見たものだが、大山は自分を脅かすその二上を徹底的に浮上させないように気合を入れていた。
二上の10人の弟子の一人が、2019年に大山康晴の通算勝利数を抜いた天才・羽生善治だ。1989年に羽生と初めて公式戦で対局し、負けて引退を決意する。二上は大山会長の後を継いで日本将棋連盟会長に就任する。7期14年の長期政権となり、大山の12年を超えた。「最後にようやく勝った」と述懐している。会長としては、女流王位戦、大山名人杯倉敷藤花戦の創設、竜王戦などのタイトル戦における女流枠の設定、国際将棋フォーラムの開催による日本以外の国への普及活動などが功績である。
勝負の世界では、ずば抜けた才能が現れると、全体のレベルがあがる。羽生世代には、森内俊之、佐藤康光、丸山忠久、郷田真隆、村山聖などがいる。1970年生まれの羽生より14歳若い渡辺明は次世代だ。2019年現在のA級のリストをみると、1973年の木村一基、1974年の三浦弘行、10年置いて1984年の渡辺明、そして1987年の広瀬章人、1988年組の佐藤天彦、糸谷哲郎、稲葉陽である。羽生・佐藤に近い世代と、1988年世代がしのぎを削っているのだ。今話題の藤井聡太は、2002年生まれである。
ハンサムだった二上のニックネームは「函館の天才」、「北海の美剣士」から始まり、カラオケ好きであることから「ガミさん」というニックネームももらっている。
将棋界には「盤寿」という言葉がある。将棋盤がタテ9・ヨコ9あることから81歳を寿ぐ年齢を指す。将棋盤の81の升目を全部埋めたという意味だ。その盤寿を目標としていた二上は84歳で死去している。
棋士はサインや揮ごうを頼まれる。二上は「一歩千金」、「不動心」、「柳緑花紅」などと書いていた。『棋を楽しみて老いるを知らず』(東京新聞出版局)を書いた64歳時点では「棋楽而不知老」と書くことにしていた。それは座右の銘だ。「座右の銘とは己を戒めるためのものだ」という二上は、自分に足りないもの、できないことを自分に言い聞かせているのだとも語っている。「吾、事において後悔せず」と言った宮本武蔵ほど公開した男もいないだろうという人もいる。座右の銘を意識して日々を暮らせば、足りないものが足り、できないことができるようになる。そういうことだろう。
「座右の銘」の研究もやっていきたいものだ。手持ちの代表的日本人の座右の銘を記してみよう。
「百術は一誠に如かず」を座右の銘にする人は多い。玉木文之進、小沢一郎、愛知揆一、鈴木俊一、細谷英二、、。下村治「思い邪なし」。三遊亭圓楽(5代目)「得意平然 失意泰然」。宿沢広朗「努力は運を支配する」。壺井栄「桃栗3年 柿8年 柚子の大馬鹿18年」。吉川英治「吾以外皆師」。大平正芳「一利を興すは一害を除くにしかず」。木原昭「誠実は美鋼を生む」。林望「不諦」。城山三郎「静かに行く者は健やかに行く。健やかに行くものは遠くまで行く」。木津川計「劫所よりつくりいとなむ殿堂に われも黄金の釘一つ打つ」。棋士、佐藤康光「天衣無縫」。木村一基「百折百撓」。
なるほど、「座右の銘」には、そのことができているということではなく、常に誘惑に負けようとする自分を叱咤するニュアンスがある。二上の喝破するように、座右の銘」は自己を戒めている「戒語」と理解するのがいいようだ。