「絹の道資料館」(八木下要衛門)を再訪ーーシュリーマン、アーネスト・サトウも歩いた道

「絹の道資料館」(八木下要衛門)を再訪。2010年以来二度目の訪問。自宅から車で20分。

八王子市遣水に「絹の道資料館」がある。生糸貿易商人の代表格である、石垣大尽と呼ばれた八木下要衛右門(善兵衛)の旧宅跡に建てられた資料館だ。ここには2階建て洋館風の別館があり(1851年建立)、異人館と呼ばれていたそうだが、今は残っていない。

武州多摩郡遣水村」は、外国からも「江戸遣水」と呼ばれ生糸貿易に携わる多くの商人が出ている。江戸から十二里(48キロ)の宿場町・八王子は、養蚕(蚕を育てること)、製糸、織物を行う中心地であり、江戸中期には「桑都」とも呼ばれていた。ここでは、縞柄の絹織物を商う縞市があり、八王子縞市として名が高かった。多摩織がブランド名。

ペリーの来航によって1859年に横浜が開港するが、1866年には幕府直轄の生糸蚕糸改所が八王子に設置される。甲州街道最大の宿場町であった八王子から、絹織物は、当初は神奈川、そして後に横浜に運ばれた。後にJR横浜線ができるがそれは絹織物を運ぶのが目的だった。

また、横浜からは海外の文物が多量に絹の道を通って伝わってきた。新聞、雑誌、ランプ、マッチ、そして自由思想やキリスト教(1877年にはカトリック教会が八王子に建てられている)までも入ってきて、八王子辺りは先進地域として活気があった。1878年あたりに高潮期を迎えた自由民権運動には、絹の商人、生糸生産者、養蚕家を兼ねた豪農が参加している。絹の道が民権家同士を結びつけた。山口甚兵衛、石坂昌孝、村野常右衛門らの名前が残っている。

絹の道の起点となる大塚山公園には、道了堂という建物があったのだが、今はない。多くの外国人がこの道を通って八王子や高尾山を訪ねたとあり、ドイツのシュリーマンやイギリスの外交官・アーネスト・サトウが訪ねたという記録も残っている。トロイの遺跡を発見したシュリーマンが幕末に日本を訪ねたということをどこかで読んだ記憶があるが、まさにこの絹の道を通ったのだ。

遣水商人としては、八木下要右衛門、平本平兵衛、大塚徳左衛門、大塚五郎吉などの名前が残っている。彼ら遣水商人は、横浜街道、通称浜街道を往復しながら商いを行ったのだが、横浜での商売の相手は、原善三郎である。どこかで見た名前だと思ったら、生糸商として横浜を牛耳っていた亀屋の主人である。亀善と呼ばれ、横浜は亀善の腹一つで動くと言われた人物である。その婿が後の原三渓で、三渓園を残した文化人でもある。

原善三郎は八木下要右衛門に、変動激しい生糸相場について「明日の変化も計りがたし」と書き送っている。明治の生糸貿易の舞台からは八王子商人は次第に退き、原たち手だれの横浜生糸商人たちが主役になっていく。その横浜の生糸商人たちは八王子から横浜への生糸の大量輸送手段として、鉄道建設に動き出す。その主導的な役割を果たしたのが原善三郎だった。その鉄道が横浜線だ。いつも東海道新幹線で新横浜に行くときに橋本から乗っているあの横浜線がそれだった。

当初、日本の絹製品はばらつきが多く、品質が悪かった。フランス人技師ブリューナを招き、1873年に操業を開始したのが、国営富岡製糸工場である。八王子ではその五年後に萩原彦七が機械製糸工場をつくっている。これは後の片倉製糸になっていく。

絹の道を歩いてみた。八王子市の史跡に指定されているのは1.5キロ。このうち特に昔の面影を残す未舗装部分約1.0キロは文化庁選定「歴史の道百選」に選ばれている。20分ほどの急勾配の山道を歩くと、遣水商人、神父、シュリーマン、アーネストサトウなどと一緒に歩いているような気持ちになってくる。開国近代化の道である。


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「新・代表的日本人」。女性で名を残すことはなかなか難しい。それでも歴史に名が残っているのは相当な人であることは間違いない。山崎朋子住井すゑ森茉莉の中からなら、住井すゑ山崎朋子か。

  • 三好徹1931年「声なき声」
  • 中村幸1928年「いらんこと考えやんと、失敗したらええがな。それが答えになる」
  • はしだのりひこ1945年「息子よ、語り合いたいこの時を」 
  • 山崎朋子1932年「自分が生きた証をこの世に残すには、みずからの「心を刺した」主題を、その望み選んだ形において実現するしかないだろう」
  • 柳生博1937年「日本人のいちばんの魂の置き場所は野良仕事だと思う」 
  • 木下唯助1882年「サーカスに国境も人種も関係ない」
  • 住井すゑ1902年「生きるとは創造すること」
  • 森茉莉1903年「再び幸福になれた時、ほんとうを知っていることは自分にとっても人にとっても幸福な事なのだ」
  • 菅野昭正1930年村上春樹がなぜ世界的な小説家の前線にたっているのか」 
  • 村雨紅1897年「大きな明るい星が出ているだろう。あの下で、子どもが5、6人遊んでいる。なあ、見えるだろう。楽しそうだな。あの中に俺もいるんだよ」

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住井すゑ|人物|NHKアーカイブス

「新・代表的日本人」1月7日、住井すゑ「生きるとは創造すること」

住井すゑ(すみい・すえ、1902年1月7日―1997年6月16日)は、奈良県出身の小説家。享年95。

講談社の婦人記者を経て文筆活動に入り、小説・児童文学などを執筆。小学館児童文化賞第1回受賞者である。農民作家・犬田卯との結婚後は、ともに農民文学運動を展開した。被差別部落の問題を描いた未完の長編小説『橋のない川』が代表作である。

1944年秋、住井すゑは「戦争には負ける」「降伏は遅くとも来年の初夏あたりだ」「天皇ラジオ放送で降伏を国民に告げる」「その後まもなく農地解放が行われる」と予言した。頭の固い男たちは反論したが、歴史はその予言どおりに進行した。

・教育の要諦は「嘘を教えない、嘘をつかせないこと」。

・ものを書くのは四十歳からだ。人間は一年増すごとに賢くなる。知恵は自分の中から生まれ出るものだ。

・定年制は資本主義の落とし子であり、それを認めるから老後になってしまう。人間の天職は「人間であること」。人間ひとすじに生きている場合、人間という思想を持っているから、生涯、現役なのだ。

・自分の一生は一番よかったと、自分で思えるように、毎日を人間らしく、精一杯生きていきたい。

・芸能の中で最高のものは落語。能や歌舞伎は、権力の側についてきた太鼓持ち的な芸である。

六歳、小学二年生のときに『古事記』を読み、「いつか新しい古事記を書いてやる」と決意する。それから五十年間、材料を温め続け、五十五歳で夫が亡くなった後、五十六歳から書き始めた。それが『橋のない川』である。七十歳過ぎまでの十五、六年間で、原稿は五千枚に及んだ。

橋のない川』は第一部から第七部まで刊行されたが、第八部は表題のみを残し、作者・住井すゑは死去している。全編を通じて部落差別の理不尽さと陰湿さが描かれ、水平社宣言をもって締めくくられている。1969~1970年と1992年の二度にわたって映画化された。野坂昭如は「『日本書紀』も『古事記』も嘘だということがわかった。『橋のない川』が本当だ」と評価している。

天皇制批判を含む作品であるため、執筆中に殺される可能性すら自覚していたという住井すゑは、『橋のない川』が二〇〇〇年時点で五百万部売れていたことについて、「長い未来にわたって一千万冊は売れる」と予言している。現在、既に八百万部を超えている。住井すゑは、歴史を知る上で日本人には読む責任があると語っており、この予言も現実になりつつある。これは読まねばならない作品だ。

二〇二二年、日本近代文学館で開催された「住井すゑ――九十五年の軌跡」展を訪れた。『橋のない川』全七巻という大作を書いた作家である。五十五歳で夫を亡くした後、ライフワークに取りかかる。テーマは天皇制、戦争、部落である。五十九歳で「第一部」「第二部」を刊行。六十一歳で「第三部」、六十二歳で「第四部」、六十八歳で「第五部」、七十一歳で「第六部」、九十二歳で「第七部」を刊行。九十五歳で死去。「第八部」の構想もあったが、タイトルのみの原稿を残すにとどまった。住井すゑについては、本格的に書く必要がある。

米倉斉加年 演ずるとは』では、『橋のない川』を書いた作家・住井すゑとの対談が収められており、米倉は「日本の教育は調教である」という住井の発言に首肯している。

五十六歳からライフワークに本格的に取り組んだ住井すゑは、書くことが面白くて朝も寝ていられず、筆を走らせた。その時間こそが青春であった。長い準備期間を経て創造の喜びを手にし、『古事記』に代わる歴史を書き上げたのである。その勇気と気概に、ただただ敬服する。

住井すゑ「橋のない川」全7巻揃えた! | 牛久沼かっぱコンシェルジュ