内田樹『そのうち なんとか なるだろう』ーー内田樹の自叙伝を聴く。kindleで購入。

朝の散歩中に見かけた鳥たちの姿。
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内田樹『そのうち なんとか なるだろう』をオーディブルで聴く。

1950年生まれ。小学校登校拒否。日比谷高校中退。家出。大検で資格を得て京大入試に失敗。翌年東大入学。大学院3浪。合気道。都立大助手の8年間に32大学への教員挑戦も不合格。離婚。父子家庭12年。神戸女学院大学に定年近くまで勤務。遅咲き。現在、凱風館館長

2001年から著書を200冊以上刊行。『ためらいの倫理学』(角川文庫)、『死と身体』(医学書院)、『街場のアメリカ論』(NTT出版)、『街場の中国論』(ミシマ社)、『日本辺境論』(新潮新書)、『街場の天皇論』(東洋経済新報社)、『レヴィナスの時間論』(新教出版社)、『コロナ後の世界』(文藝春秋)、『だからあれほど言ったのに』『沈む祖国を救うには』(マガジンハウス)など。

オリジナルな業績は学会は評価できない。インターネット時代という幸運。ブログと講義が多作の源。内田樹の自分史。最終メッセージは「心と直感に従っていきればいい」だった。

同年齢の内田樹の自叙伝には共感することが多かったので、kindleで購入した。あらためてこの本のことは書く予定。やはり、エッセイと自叙伝がいいな。

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「アクティブ・シニア革命」第3号の編集作業が終了。諏訪さんの校正を待つだけ。

夕方の散歩中に見かけた結婚式場の取り壊し現場。

今日のウォーキングは1万歩。月1回の歯のチェック。

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3月13日。大山康晴。

高村光太郎「「私は自分の彫刻を護るために詩を書いてゐるのである」

篠田守男「私は50年来現代美術における抽象彫刻を通して空間の問題を研究して参りました」

大山康晴「賞はごほうびではなく、激励のしるしである」 

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「新・代表的日本人」3月13日。「賞はごほうびではなく、激励のしるしである」 

大山康晴(おおやま やすはる、1923年〈大正12年〉3月13日 - 1992年〈平成4年〉7月26日)は、将棋棋士。享年69。

主な記録として、公式タイトル獲得80期、一般棋戦優勝44回、通算1433勝などがある。十五世名人のほか、永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将という5つの永世称号を保持した。倉敷市および青森県百石町の名誉市民・名誉町民でもある。

29歳で名人位に就いた大山は、49歳のとき、18期保持し続けた名人位を失った。そして最後のタイトルであった王将位も50歳で失う。この大山が51歳のときに書いた文章を読むと、絶頂から無冠になった後の心構えや行動には教えられるところが多い。

「無冠となって、気持ちが軽くなった。あとは、どうして立ち直ろうかと、その点にしぼってゆけばよいと自分を慰めた」「こんどは、新しいものを身につけなければいけない」「五十の手習いという。私の場合もそれと同じで、五十歳で再出発をしなければならないということであった」「休暇をとったつもりで、やりなおそう」。そうして長期戦の腹を固めた。

これをよい機会として、世間や将棋界、そして自分自身を見直すことに時間をかけようと決心し、講演や将棋会をはじめ、どんな仕事でも引き受けた。相変わらず多い対局の合間を縫って全国を歩き回り、見知らぬ人々と会っている。その間、全国各地で多くの人の激励に接し、それがあきらめの誘惑から自分を救ってくれたという。

自分の流儀はそう簡単に変えられるはずはない。しかし、頭から「変えられるはずはない」と決め込むのは、あまりにも臆病すぎると大山は言う。旅行にも頻繁に出る。酒席も遠慮しない。そして、自分がかつて名人であったことも忘れるようにしていたという。限られた枠の中で軌道修正を図るのではなく、あえて広い世間に身を置いたのである。

50歳からは、生活の仕組みを変えるためにゴルフにも挑戦している。この「何でもやってみよう」という精神の働きは実に素晴らしい。

「立ち直るためには、一刻も早く以前の立場を忘れることである」。この言葉は、中年からの人生の転換を図ろうとしている現代人に、強い示唆を与えるのではないか。あの大山が、名人であったことを忘れて新たな旅に出ようとしていたのである。こうした気持ちの切り替えは、なかなかできるものではない。

「五十歳の新人」として戦い、十段戦では宿敵・中原誠に勝ち、タイトルを取り返している。「もう、年だなあ」と心にゆるみが生じたときに、すべてのタイトルを失った――と述懐する大山は、そうした敗北主義を認めない。

51歳の大山は、誰にも破られない記録として「名人20期・優勝100回・1000勝」という目標を掲げている。この記録を数字の上で破る可能性があるのは、羽生善治や藤井聡太くらいだろう。しかし、それには途方もない時間がかかる。

大山は54歳のとき、通算1000勝を達成し、優勝回数も100回を超えた。63歳では、12年ぶりに挑戦権を獲得して中原名人に挑戦し、話題になった。結果は1勝4敗で敗れ、掲げた目標のうち名人位20期だけは達成できなかった。

それでも大山は、その後亡くなるまでA級棋士として第一線で活躍し続けた。大山の年度別成績表を見ると、名人位を守っていた時期はおおむね6割5分、最高時には8割に迫る勝率を残しているが、勝率7割という数字でさえ、名人位を守っていた時期でも高い部類に入る。ところが、50代後半、60代に至る直前の1979年度には7割1分6厘、翌年度にも7割7厘という勝率を挙げている。60歳を目前にしてなお、最強棋士の一角を占めていたことをうかがわせる。

29歳で名人位に就いた天才棋士という華やかな経歴にも、もちろん尊敬の念を覚える。しかし私はむしろ、50歳で無冠になってからの大山の心構え、心がけ、そしてその後の棋士としての生活に強く興味を覚える。大山の50代以降の仕事と人生への対処は、現代に生きる私たちに大いなる勇気を与えてくれる。

大山康晴の記念館は、私は2か所訪ねている。

2006年に訪れたのは、青森県の旧百石町にある大山将棋記念館である。百石町は「将棋のまち」と称していた。大山の故郷ではないが、縁があって平成元年に名誉町民となった大山は、頻繁にこの町を訪れている。百石は将棋盤や駒の産地でもあり、将棋を通じた町づくりを目指していた。1986年からは全国将棋祭りも開催しており、将棋が盛んな土地である。将棋を指している子どもたちを多く見かけた。子どもたちの強さは全国有数だという。

記念館の壁には、次のような言葉が掲げられていた。

「賞はごほうびではなく、激励のしるしである」
「一時の栄光を求めるより、長く続けることが大切」
「人が真似できない芸を持つことが一流の条件である」

こうした言葉を見て、偉業を達成した大山の心構えと心がけに、あらためて感心し、納得した。

大山は書も素晴らしい。この名人は、書やこけし、扇子などに自分の好きな言葉を数多く書いている。「努力」「忍」「歩の力」「和」「千変万化」「夢」「調和」「一歩千金」「龍」「静観」「根性」「心如水」「仁者寿」「勝負と人生」「助からないと思っていても助かっている」「思無邪」「昇竜」……。大山の考えていたことを感じさせる言葉群である。

記念館の入り口には、一代の覇者は先輩・同輩・後輩を破って頂点に立ち、やがて後輩に敗れて天命としてその位を譲る、という趣旨の考え方が記されていた。大山康晴は木村名人からその座を受け継ぎ、20年にわたって第一人者として君臨し、中原名人に位を譲った。木村名人が敗れたとき、「良い後継者を得た」と語ったことも知られている。

人物記念館の多くは静かな展示施設になりがちだが、この記念館では子どもたちが将棋を指し、子どもと職員が対局する姿も見られた。活気があり、生きている記念館だという好印象を持った。

2014年には、岡山県倉敷の大山名人記念館も訪ねた。ここでも大山の書の素晴らしさが印象に残った。「温故知新」「大道無門」「一念」「静観」などの書があり、ライバル升田幸三の「香車一筋」という書も見かけた。1433勝781敗という記録の重みもあらためて感じた。全体としては、青森県の大山将棋記念館よりやや小粒で、資料も少なく残念な気がした。

「道具を大切にする者は将棋も上達する」「一時の栄光を求めるより、長く続けることが大切」「人が真似できない芸を持つことが一流の条件である」「無冠となって、気持ちが軽くなった。あとは、どうして立ち直ろうかと、その点にしぼってゆけばよいと自分を慰めた」「立ち直るためには、一刻も早く以前の立場を忘れることである」

大山の華やかな経歴にももちろん尊敬の念を覚えるが、私はむしろ、50歳で無冠になってからの大山の心構え、心がけ、そしてその後の棋士としての生き方に興味を覚える。若い時代の黄金の輝きとは違った、いぶし銀の重厚な輝きこそ偉大である。大山の50代以降の仕事と人生への対処は、現代に生きる私たちに大いなる勇気を与えてくれる。

「賞はごほうびではなく、激励のしるしである」。もらう賞は、ごほうびではない。激励に応えてさらに磨きをかけていく。そのような人には、誰もかなわない。この心構え、まことに恐るべし。