美術史家・山下裕二は日本の美術史上でいちばん好きな差作家として「つげ義春」を挙げている。その山下が監修した「つげ義春」展をみてきた。100年後には20世紀後半の「マンガの時代」を代表する芸術としてつげ義春が受け止められるのは間違いない、というほどの高い評価を与えている。
「夢」。代表作である「ねじ式」は史上初めて夢をダイレクトにマンガにした作品で反響はすさまじかった。
「旅」。貧困旅行記。「情けない日本」の情景。北海道と沖縄をのぞき精力的に旅をしている。
山下裕二のつげ義春ロングインタビューが興味深い。「マンガは芸術ではない」とするつげ義春の心情はいかなるものか。ーー創作の基調はリアリズム。あるがまま。無意味。無我になると主観が消える。仏教。夢の中では無我を経験できる。無我夢中。カフカも同じ方法。東洋哲学は西洋よりも奥が深い。
つげ義春の略歴:小学校を出てメッキ工場で働く。赤面症。18歳、『白面夜叉』で単行本デビュー。25歳、自殺未遂。28歳、『ガロ』に作品を描く。29歳、水木しげるの助手となるため調布に転居。31歳、「ねじ式」を発表。33歳、結婚。「つげブーム」。50歳の「別離」で筆をおく。以降下88歳の現在まで新作はない。
『ねじ式」『外のふくらみ』『紅い花』『ゲンセンカン主人』を読んだ。
『近所の景色』『散歩の日々』『ある無名作家』『無能の人』『カメラを売る』を読んだ。
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南大沢で新プロジェクトの打ち合わせ。

終わって、ジムでスイミング500m。
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3月12日。勝海舟。平松守彦。大平正芳。江崎玲於奈。
平松守彦「リンケージ(人々とのふれあい、つながり)こそが究極の生き甲斐なんですよ」
松岡享子「絵本の時代は、心を育てる時代です」
松浦武四郎「我死なば焼くな埋めな新小田に捨てて秋のみのりをば見よ」
勝海舟「内でけんかをしているからわからないのだ。一つ、外から見てご覧ネ。直にわかってしまふよ」
花登 筺「泣くは一生 笑うは修行 勝つは根性」
江崎玲於奈「新しい分野を見つけることです。そうすれば二流の人間でも一流になれる」
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「新・代表的日本人」3月12日 勝海舟「内でけんかをしているからわからないのだ。一つ、外から見てご覧ネ。直にわかってしまふよ」
勝海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉- 明治32年〈1899年〉1月19日)は、日本の武士(幕臣)、政治家。享年75。
1868年、新政府軍参謀の西郷隆盛と会談し、江戸城無血開城を成功させる。このときの会談の様子や評価については、論考も多い。 江藤淳『海舟余波』という著書を読んだ。「彼の前には、近代国家の可能性がひろがり、彼の後ろには幕藩的過去がひろがっている。明日に迫った江戸城明け渡しは、二つの歴史の関節をはめるような仕事である」と書いている。勝は薩摩側に立っていた英国公使パークスと接触し、和平と慶喜助命による安定した市場の確保という点で利益が一致することを確認し、武力解決には同意しがたいと薩摩に申し入れさせている。また、江戸の治安を任せないと大変なことになるぞ、との脅しも使った。
外を押さえ、内の状況を逆手にとって、西郷を包み込み、身動きがとれないようにしたという離れ業のような政治手腕を発揮する。実は会談の前に勝敗は決まっていたのである。 明治新政府では、勝は外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙された。この出処進退について、福沢諭吉から『瘠我慢の説』で非難された勝は、1892年に返答を送る。
勝が37歳、福沢が25歳のとき、両者は咸臨丸でともに航海した仲だった。「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候」と返事をする。批評家に、局に当たらねばならぬ者の「行蔵」の重苦しさがわかってたまるか。自分は日夜自分を奮い立たせて継ぎはぎ細工を続けてきた。その一刻一刻がおれの「行蔵」だ。それが我慢というものだ。そういう心境だったのだ。
また福沢は勝を「得々名利の地位に居る」と非難している。叩き壊すことは簡単だが、まとめるには苦心がいる。権力の中枢に謀叛を起こしうる力が存在し、それが統制されていれば一大勢力になる。幕臣の代表として高位高官になることは必要だった。最大の潜在的野党として異常な沈黙を守ったのである。我慢と苦学の後半生であったのだ。これが江藤淳の見方だ。
勝は旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を、新政府で得た爵位や権限、人脈を最大限に活用して、維新直後から30余年にわたって続けた。相談事で訪れる人は絶えることがなかったという。旧幕臣の世話を焼いていたのである。 勝海舟の生き方は、一貫している。この『海舟余波』の読後には、変節漢呼ばわりする福沢の説よりも、海舟の生き方に軍配を上げたい気がする。
慶喜とは微妙な関係で、維新後は長く断絶していた。慶喜の末子・精を勝家の養嗣子に迎え、小鹿の娘・伊代を精と結婚させることを希望し、慶喜とも和解している。 義理の兄でもあり、師事した12歳年長の佐久間象山が書いた「海舟書屋」が気に入って書斎に掲げたことが、海舟という号を使うきっかけだ。象山については「物識りだった」「学問も博し、見識も多少持っていた」と評している。海舟は身長156〜157センチと小柄だった。
別荘の洗足軒(建坪33坪)は、津田梅子の父・津田仙のすすめで購入した。この地に海舟関係の資料を集めた「清明館」は、江戸城開城60周年に着工し、昭和8〜10年の数年の間に、404回のセミナーで4万人近くを集めた。仏教講義198回、儒教67回、神道・国史20回、政道・法制63回、国民教化56回(2万5060人)。この清明館が、2019年9月7日に開館した勝海舟記念館となった。正面はネオゴシックスタイル、内装はアール・デコ調の建物である。私は2019年に勝海舟記念館を訪問した。
1937年には、「南洲海舟両雄詠嘆之詩碑」除幕式に合わせて開催された講演で、徳富蘇峰が講師を務めた。その写真が図録にある。蘇峰は海舟を「如何にも食へない親爺」と評し、目を合わせるだけで腹の底を見透かされているような心地になり、精神的に非常に疲労を覚えるほど、エネルギーの塊のような人だったと述懐している。
2013年に江戸東京博物館で開催されたビッグイベント「自分史フェスティバル2013」で、私は冒頭の基調講演を行った。このとき、勝海舟の五代目の玄孫(やしゃご)・高山みな子さん(1962年生)のスピーチも興味深かった。海舟の父・勝小吉『夢酔独言』や勝海舟『氷川清話』の話題では、一種の自分史であると思った。勝海舟について高山さんは、こう述べている。命を大事にしていた。江戸の町を救いたかった。下戸。もなか、パン、ケーキが好き。お菓子部屋。そして「海舟に関する言い伝えを自分史でまとめてライフワークにしたい」とも語った。
さて、勝海舟の言葉を折に触れて集めてきたので、その一部を記す。
「気は長く、勤めは堅く、色うすく」
「武士道は人道と云ふてさしつかへないよ」
「事いまだ成らず小心翼々。事まさに成らんとす大胆不敵。事すでに成る油断大敵」
「行いは俺のもの、批判は他人のもの、私の知れた事ではない」
「世間は生きている。理屈は死んでいる」
「ナニ、誰を味方にしようなどといふから、間違うのだ。みんナ、敵がいい。敵が無いと、事ができぬ」
「何も、用意しないで、フイっと往って、不用意に見て来なければならぬ」
「事を遂げる者は愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない」
勝海舟の『氷川清話』の、幕末から明治にかけての人物評が面白かった。勝海舟の人物を見る眼は冴えている。
藤田東湖「本当に国を思うという赤心がない」
西郷南洲「いわゆる天下の大事を負担するものは果たして西郷ではあるまいか」
佐久間象山「物識りだったヨ。……しかし、どうも法螺吹きで困るよ」
木戸孝允「西郷などと比べると非常に小さい。しかし綿密な男さ。使い所によりては、ずいぶん使える奴だった」
陸奥宗光「ひとの部下について、その幕僚となるに適した人物」
父・勝小吉の自伝『夢酔独言』は、「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ」から始まり、最後は「よくよく読んであじおふべし。子々孫々まであなかしこ」で終わっている。この無頼の血筋が、歴史の大舞台での海舟の大胆な偉業に活かされているように思う。人がその人を外から書いた伝記より、自己弁護も含めて自分で自分を内から描く自伝を、私は好きだ。海舟という英雄が現れるにいたった親や、その一つ前の世代の雰囲気を知ることができる。また、難局に挑む当事者である海舟という人物を持った国の幸運を、感じざるをえない。
「内でけんかをしているからわからないのだ。一つ、外から見てご覧ネ。直にわかってしまふよ」。時代の流れが見え、世間の動きも承知し、そして自分の属す幕府の腐敗と疲弊と乏しい力量も知っていたこの男に、組織の命運をかけた保守側の切り札としての役回りが巡ってくる。その海舟は、背後から弾を撃ってくる輩に、憤懣やるかたなかっただろう。
知恵があり、実務的才能がけた外れだった海舟の英雄的心持ちは、むしろ敵側が知っていた。内でけんかをしているのは、外が見えないからだ。海舟のこの言葉は、内部に目が向かいがちな我々に目を開かせてくれる。



