旧岩崎邸庭園(岩崎久弥)

土佐藩の回漕業務を一任されていた岩崎弥太郎は、廃藩置県後、九十九商会を買い受け1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開する。三菱は土佐藩山内家の家紋「三ツ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わせたものである。三菱商会は、明治10年の西南戦争の軍事輸送を担当したことのあり大いに飛躍する。郵便汽船三菱会社と改名し、渋沢栄一井上馨らのつくった共同運輸と争った後に対等合併して1885年に日本郵船が設立された。


弥太郎は庭が好きだった。柳沢吉保のつくった駒込の12万坪の六義園を伝統的な庭として購入する。また理想の庭として、江東区清澄庭園買い、修復する。

そして三菱総本家の本部として越後高田藩榊原家が所有していた湯島4丁目と池之端1丁目にまたがる小高い1万5千坪を購入した。弥太郎は明治11年からこの地に住んだが、18年に50歳で死去する。2代目の岩崎弥ノ助の後を継いだ岩崎久弥(弥太郎の長男)は1896年に現在の洋館などを建設する。


久弥は20代前半をアメリカペンシルバニア大学で学んだ後、28歳で三菱合資の社長となる。29歳で保科寧子と結婚。そして30歳の時に、イギリス人ジョサイア・コンドル(1852-1920年)に命じて洋館の建設に着手し、1896年に完成する。コンドルは鹿鳴館ニコライ堂上野国立博物館、長崎グラバー邸などを設計した東大建築学科の初代教授である。門下には東京駅をつくった辰野金吾などが輩出する。日本びいきであったコンドルは40歳のときに36歳の日本舞踊師匠のくめと結婚し、67歳で死ぬまで日本に在住する。


久弥とコンドルがつくった現在の旧岩崎邸は、三菱の迎賓館だった。地下1階、地上2階の531ヘーベのルネッサンス風の見事な木造洋館である。洋館とつながっている和館は当時は550坪に及んだが、現在は一部(100坪)しか残っていない。この邸宅には70人が働いていた。久弥には男3人、女3人の子どもがあった。男子は小学校高学年からは寮生活を送らせ、自力生活を身に付けさせる厳格は教育を行った。女子は自宅で手塩にかけて慈しんだという。明治時代は男子と女子は別の考えで教育を行っている。男子は自力で生きていかざるを得ないため厳しく教育する。そして社会を登って行け。女子は誰と結婚するかわからないから贅沢を経験させる。貧しい暮らしをすることになっても、贅沢とはどの程度のいものか知っていれば対処できる。このような考えであったと聞いたことがある。小泉信三の著書だったか。


旧岩崎邸は、洋館、和館、撞球(ビリヤード)室、庭園で構成されている重要文化財である。関東大震災が起こったとき、久弥は邸宅を大開放し2000人以上の難民を1ヶ月以上にわたって世話をしている。久弥は地味で堅実な人物であった。慶応義塾福沢諭吉の指導を受けた影響もあるだろう。1924年にはアジア学研究のために東洋文庫を設立するなどさまざまな社会貢献を行っている。清澄庭園六義園東京市に寄付する。


1947年の財閥解体政策を受けて、久弥は千葉県成田市富里のすえひろ牧場に住み、昭和30年に90歳で亡くなるまで住んだ。久弥の財閥解体時にとったあっさりとした行動や人生観は、弥太郎のライバルであった渋沢栄一の孫の渋沢敬三に通じる感じもする。


久弥の長女美喜は後に外交官・澤田廉三(外務次官)と結婚する。この澤田美喜は大磯のエリザベスサンダースホーム進駐軍と日本女性の間に生まれた混血児の世話に後半生を捧げる。2000人を超える孤児を育て、仲立ちとなってアメリカへ養子を出した子どもは500人を超える。美喜の息子の澤田久雄(ソプラノ歌手)は由紀さおりの姉の安田祥子の夫である。

また、弥太郎の二人の娘、雅子幣原喜重郎首相、春路は加藤高明首相である。この二人は三菱の婿だったのだ。


今回の旅は、上野の不忍池に面したホテルに泊まったが、直ぐ隣は日本画家・横山大観の自宅だった。この記念館はあいにく休みだった。その裏手を数分歩いていくと旧岩崎邸庭園に出る。この旧岩崎邸の横を通っている「無縁坂」は、森鴎外の名作「雁」の舞台でもあった。あのお屋敷の前にガス燈がたっていて、夕方に青白い光がほのかにぼうっとついておりましたと、画家の木本大果が後に回想している。