「見た、会った、聴いた−−生身の梅棹忠夫先生」から

知の巨人・梅棹忠夫先生が亡くなられた。創立以来顧問をお願いしてきたNPO法人知的生産の技術研究会では、機関誌「知研フォーラム」の次号で「梅棹先生追悼特集」を組むことにしている。私は「見た、会った、聴いた−−生身の梅棹忠夫先生」というタイトルで追悼の文章を書いた。以下、私が書いた原稿の一部を掲載する。
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知研活動を30年ほどやってきたことによって、私自身は「知的生産の技術」のご本尊の梅棹忠夫先生の謦咳に接するという幸運に恵まれた。
以下、梅棹先生が肉声で語ったことを中心に記すことにしたい。

知研に入会した1980年から何回か、国立民族学博物館に知研のメンバーとして訪問をしている。この中で印象深い発言をあげてみる。
「先生は歴史上の人物では誰に近いですか」という質問に対して、「本阿弥光悦」を挙げられた。書道、絵、茶道、陶芸、漆芸などの広汎な諸芸術家の采配者、美のプロデューサーとしての光悦に近いということは、今になってみると民博の創設者という知のプロデューサーとして自分の役割を意識していたのだろう。
レオナルド・ダ・ヴィンチに近い」ともおっしゃって驚いたことも思い出す。「学問一筋という言葉は私にはまったく似合わない」ともおっしゃった。万能の天才・ダ・ヴィンチと同様に、十いくつもの筋を追いかけているというメッセージだったのだろう。

1990年代の初頭であろうか。私が「図解の技術」(日本実業出版社)という最初の本を書いた後、民博の館長室で、「図解について、先生はどう評価されますか?」と質問したことがある。
先生は、「学問とは何か。学問とはモデル形成のことである。モデルというのはすべてではないがかなりの部分をそのモデルで説明できるものをいう。モデルとは実は図のことです。だから、いい図ができたということはいい理論ができたということです。私自身は図解については書いてはいないけれども、重要なものだとずっと考えてきた。」、そして「頑張って下さい」と激励を受け感激した。
そして、「学者の論文は文章でできていますから、論理が混乱しているものがかなりあります。つじつまがあっていないのです」と追い打ちをかけられた。
「先生の文章には引用がないですね。」という質問には、「私はいつもオリジナルを言おうとしています。本はよく読みますが、人が言っていることを引用するためではなく、人が言っていないことをさがすために本を読んでいます。」という答えにも驚いた。

1996年10月18日。知研顧問でもある野田一夫先生からの強い推薦もあって、ビジネスマンの世界を飛び出し、宮城大学に奉職することになった。文部省の教員資格審査で通った後、野田先生から「梅棹さんは天才だよ」、「知的生産の技術が大学のカリキュラムに入ったことを梅棹さんに報告せよ」との命を受けた。  
早速、大阪に出向き報告をし、一時間ほどゆっくりとほど話ができた。
先生は「知的生産の技術」という科目が大学に入ったことを喜んでおられた。どういう授業をしたらいいのか、いくつかヒントをいただいた。
インターネットが登場した頃でもあり、目が不自由なのでわからないだろうと思ったが「インターネットはカードの時代です。私の予言通り。世界にものすごい量のカードがあり、それらがリンクする時代になった。私は目が見えないがようわかります」とおっしゃった。

2003年に梅棹忠夫先生の文化功労者受賞を祝う会が大阪のホテルで開かれた。知研の八木哲郎代表以下のメンバーと一緒に出席したが、財界人も含め著名人がきら星の如くいた。KJ法の川喜田二郎が梅棹先生が通るとき目の見えない梅棹先生に聞こえるように大きな声でエールを送っているのを目撃した。また、黒っぽい洋服に白髪、そして黒縁の大きな眼鏡といういでたちの司馬遼太郎を見かけた。 
梅棹先生の挨拶は「みんなありがとう」という簡単なものだった。

2000年代の前半に民博を一人で訪問した。
2002年に「図で考える人は仕事ができる」(日本経済新聞社)を出版し話題になったのが契機となって、私の生活は講演、執筆依頼の殺到などで一変したが、この後一人で訪問しじっくりと時間をとっていただき懇談する機会を得た。宮城大での講義の報告と学生たちの反応、「図で考える人は仕事ができる」の反響、行政、企業等での研修の様子の報告などを実に面白そうに聴いていただいた。
また、毎年10冊近く立て続けに本を出していた私に「よう、本を出しますなあ、、、、、」と少し口惜しそうな顔でいってくださったのも印象に残っている。
帰り際に、「また来て下さい。」との暖かい言葉をかけてもらった。

また、社団法人日本ローマ字会での講演の引き出し役を仰せつかったことがある。
1885年(明治18年)に外山正一らが羅馬字会を組織したことが始まりで創立会では会員数は6876人だった。その後、1921年(大正10年)に日本式ローマ字の実行団体として日本ローマ字会が設立され、田中館愛橘博士が会長となった。1926年(大正15年)社団法人日本ローマ字会となり、1993年に梅棹忠夫先生が会長に就任している。当時は梅棹先生は名誉会長だった。
先生は資料を読めないので、誘い水を向ける相手が必要であり私がその役を仰せつかった。
その時はアメリカによるイラク攻撃のさなかだったので「文明の生態史観」からみての感想を求めると、「ヨーロッパの子供のアメリカがヨーロッパ文明の本家である文明発生の地・バクダッドを爆撃している。これは日本が中国の北京を爆撃しているようなものです。そういうことが許されますか。」と強い口調でおっしゃったのを印象深く聞いた。
話が日本の企業経営に及んだ時には、
ゲゼルシャフトゲマインシャフト。日本はゲゼルシャフトです。養子制度は日本の家が血縁というより法人だった証拠です。だから明治になって会社というものをすんなり理解できたのです」と学校時代に習ったこととは正反対の説明に目からうろこが落ちる思いがした。

2007年11月。ローマ字日本語運動に関する講演が東京であった時に終了後少し雑談をする機会があった。以下梅棹先生の講演の要約を記す。
「本文明に興味と関心を持つ外国人は多い。日本について外国語で書かれた本は少ないため、日本語自体を学びたい外国人は多いのだが、漢字の壁がある。日本語は話せるようにはなるのだが、日本語の本を読み、かつ書ける人は非常に少ない。アジア・太平洋州などでは日本語はとても人気があるのだが、壁に阻まれている。このままでは日本文明の未来は暗い。日本で起こっていることや日本人の暮らし方、考えていることなどを世界に知らしめる必要がある。そのためには第二日本語が必要である。それがローマ字式日本語である。これなら外国人でも読み書きができる。幸い、日本におけるワープロローマ字変換が主流であるから、漢字かな交じりに変換をしなければ、すぐにでも実現可能であり、環境もいい。」
こういう主張だった。外国人向けの第二日本語をつくれという考え方だ。

大阪での2008年6月の米寿を祝う会に出席した。シンポジウム会場で梅棹節は快調だった。
「カミソリ梅棹と呼ばれるのは心外だ。大だんびらを振り回しバサッとやるのが私流」
「フィールドでは見たもの、聞いたものを何でもかんでも書き留めた。レオナルド・ダ・ヴィンチの発見の手帳をまねした」
「だいたい予言は当たっているでしょう。だいたい間違いはない」
「いつまでも漢字を使っていては日本文明は大変。はやくローマ字にしなければ」「
自己評価をすると、骨組みをしっかりしているが、美学的ではない。非常によくわかる文章を書くが美しくはない」。
 このとき、東京から駆けつけた知研の仲間、関西知研の仲間たちと一緒にご挨拶をした。2008年4月に宮城大から多摩大へ移ったことを報告したのだが、秘書の三原さんから、連絡を取ろうとして宮城大に連絡したが行方がわからなかったと言われた。先生から何か伝言があったのだろうか。

(続く)