白井聡「『戦後』の墓碑銘」(金曜日)を読了。
- 作者: 白井聡
- 出版社/メーカー: 金曜日
- 発売日: 2015/10/06
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (3件) を見る
2014年2月号から2015年7月号までの「週刊金曜日」の連載の第1章がこの本のタイトルになっている。
全体を通じて、安倍政権に対する決然たる批判の書。
- アベノミクス、集団的自衛権行使容認、特定秘密保護法、武器輸出解禁、原発再稼働、原発の「ベースロード電源」としての地位確認、TPP参加、非正規雇用の拡大、教育現場の国家主義的介入、メディアへの政治介入(言論統制)、ヘイトスピーチの横行の容認、、、、。
- 「戦後レジームからの脱却」とは永続敗戦レジームの純化を通じた自己破壊だ。左派やリベラルこそ内容を具体化し、実現しなければならない理念である。
- 「責任アル政府が現に存在しない以上、占領が続くのはむしろ当然なのである。
- われわれに必要なのは、国共合作に匹敵する試みである。
- 「戦争する国になる」ことは既定路線、問題は「いつ、だれと、どんな戦争をするかのか」。「まずは参戦、それから改憲へ」という順序。
- 「積極的平和主義」は対米従属の新(深)段階。
- 日本の法体系全体は、決定的な場面において無効。
- 「永続敗戦レジーム」とは「戦後の国体」である。それは「敗戦の否認」である。
- TPPに代表されるように米国にとっての日本の位置づけは、収奪の対象へと変化している。産業の多様性や諸諸の安全、国土の田園等等、有形無形の国富を多国籍資本に売り飛ばす。
- 「冷戦脳」。
- 亡国の後をどう振る舞うべきかを考えなければならない段階。
- 「戦前の建前」を自らのものとする努力を実らせるか、その前に破局が訪れるのか、残された時間は少ない。
- 「こうした権力の存在を許すほど、国民は愚劣な存在なのか」という問いかけ。
- 公的な形での戦争責任の追及というものを日本人はやっていない。いまからでも対内的な責任の追及を一種の儀式の形としてでもしなければならない。
- 改憲派と護憲派の堂々巡り。
- 無責任の体系。
- すでに憲法九条は死んだも同然である。
「名言との対話」1月20日。ミレー。
- 「裸体画はいっさい描かない。」
- 山梨県立美術館ミレー館がオープンした1978年、ミレーの「種蒔く人」と「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」を驚くような高額で購入したことで賛否がうずまいて大きな話題になった。農業国であった日本では農民画家ミレーは早くから人気があった。この美術館は、その後30年以上にわたって、ミレーとその仲間たち、バルビゾン派の作品をコツコツ集めてきた。その結果、70点以上のミレーコレクションを有した「ミレー美術館」に成長した。油彩画では初期から晩年まで、そして版画もそのほとんどを有している。内外の批判に耐えながらここまで一貫して続けてきたのは見事だ。県立の美術館でそのようなことは難しいことだったろう。
- この「種蒔く人」は、岩波書店のロゴマークにも使われている。出版は未来に向けて種を蒔くことというメッセージであろう。
- 絵を志したミレーは22歳でパリに出るが、貧乏であり女性の裸体を描いて生活をしていた。ある時、若者たちから「裸の女しか描かない画家」と呼ばれて、それ以降裸体を描くのをやめている。その後は、貧乏生活は10年も続く。30代になってようやく農民画を描くことを志とし、パリ郊外のバルビゾン村に移住する。ミレーは労働が絵になるということを最初に示した画家である。1月20日はミレーが生まれた日である。
- ミレーのこのエピソードは、「発奮」ということの大事さを教えている。