『河合隼雄の幸福論』と映画『最高の人生の見つけ方』ーー「幸福としあわせ」について考える

河合隼雄の幸福論』(PHP)
河合隼雄は「臨床心理」という分野の開拓者である。不幸な人がそこから脱出し幸福への道の手助けをするのが心理療法だ。不幸という地点から幸福を考えた人だ。

この本は「幸福論」ではない。クライエントと毎日接しながら考えたことを連載したものを一冊の本にしたから、抽象論ではなく、不幸と幸福をめぐるエッセイ集とでも呼ぶべき内容になっている。ケーススタディの報告というユニークなアプローチで納得することも多い。

  • 時間を忘れる、時間にこだわらない生き方。「我を忘れる」体験を一度もしない人は不幸だ。自分を何かに賭けてみることが自分が生きたと言える。
  • 満ち足りた人生などは狙わず、少しづつ手に入ったものを楽しむという生き方。
  • 現代人は関係性の喪失によるノイローゼ。つながりと自己決定の訓練をしよう。
  • 何か好きなものに惚れこむ。それが「しあわせ」につながる。
  • 将来への希望と、自分を超える存在とのつながり。それが幸福であると感じる条件。
  • 人生学。生きることに関する生涯学習が必要だ。体験を照らし合わせて、多様な人生の在り方を明らかにしながら、「さて私の生き方は」と考えるという方法。
  • 成功や失敗を繰り返すのが人生。「シンドイことをやっているんだからシンドイのは当たり前」。幸福とはそれに付随する副産物と考えておくといい。
  • 「男であろうと女であろうと自立はできない」「性にまつわる恨みと歓喜は複雑に絡み合って」(大庭みな子)。人間は人と人の間に生きるものであり、依存することも大切だ。

「幸福」について考え出すと難しくなる。この本は生きている人間の現場からの声を材料に、多面的に幸福にアプローチしていくという方法で、読む人に考えさせてくれる。

幸福を求めると幸福にはならないのではないか。

ーーーーーーーーーーーーー

映画『最高の人生の見つけ方』をみた。吉永小百合天海祐希が共演。人生を家庭のために捧げてきた主婦・幸枝と、仕事だけに生きてきた大金持ちの女社長・マ子。 余命宣告を受けた2人は病院で偶然に出会い、日本と世界を思い切り旅をする。その過程で副産物の幸福のかけらを手にしていく。最後は、宇宙に打ち上げられるという奇想天外のストーリー。この映画も、旅をしながら、思いがけず「しあわせ」が身近にあることを発見する物語だった。

幸福とは、「しあわせ」の積み重ねのような気がする。

ーーーーーーーーーー

「名言との対話」。11月15日。長谷川繁雄「これからの社会を担う人材を育てる」

長谷川繁雄(1929年11月15日〜1986年7月2日)は京都コンピュータ学院創業者。享年56

兵庫県明石市生まれ。1969年8月、京大の学友であり結婚した長谷川靖子とともに、「事情があって大学へ行かない子いやそれ以上に自覚的に大学へ進まない子を教育するんだその子たちを大学へ進んだものと肩を並べてそれどころかそれ以上の人間にして世の中へ送り出すんだ」という決意のもと、全日制「京都コンピュータ学院」を開設した。情報処理技術教育のパイオニアである

「パソコンもインターネットもない時代に先生はコンピュータが時代を変える力だと見抜いただけでなく京都コンピュータ学院を創立することでその時代の先頭に立った」。先見の明とパイオニア精神にあふれた人物だった。

京都コンピュータ学院卒業生のための機関誌「アキューム」を読むと、長谷川繁雄の情熱と人柄と、そして影響力の大きさを感じる。

京大で同じ釜の飯を食った仲間への若き日の手紙「授業を始めてから毎日幼い純朴な心に触れているとこちらが熱意を示せば示すだけそれに応えてくれるのが嬉しく今更ながら教師という職の良さがわかり他の職に就こうという気持を放棄するに至りました受持ちが国語であるからかも知れませんが他の学科を受持つより以上に幼い心の成長の過程に触れることができるので僕自身の勉強にもなるのですそれより以上に愛の実践としての教育に人生の意義を感じています」

長谷川繁雄に触れた人たちの言葉を以下拾ってみる。「教科書の内容を題材にした絵だったのです絵をもとにその話は何を言わんとしているのか登場人物の心の動きなどをこと細かく説明なさるのです」「やればできるという精神」「ユートピアをつくろう」「情熱と超人的な仕事ぶり」「人生観や思想を手本として生きてきた」「技術ばかりに偏らない幅広い教養を持った創造的な人間になれ」。「独立独行のひと」。「self-madeの人であった文字通りmade-by-oneself自らを教育し自らを創り上げた人であった」、、、、

教育という仕事の大事さと奥行きの深さに目覚めた長谷川繁雄は、先見の明とパイオニア精神を発揮して、コンピュータ時代の波がしらを全力疾走したが、1986年7月2日に56年の生涯を閉じる。学院創設からわずか17年であったが、確固たる基礎作りを行った。亡くなった7月2日は雅号に因んで「閑堂忌」となって偲ばれている。閑堂とは世俗から離れ瞑想にふける閑静な空間という意味である。ピアノを弾くなど芸術家肌でもあった繁雄にふさわしい雅号だ。

妻の靖子が学院長を引き受け、その土台の上に、見事な教育機関をつくりあげた。2004年、伝統と実績を継承し日本最初のIT専門職大学院として京都情報大学院大学を開学する京都自動車専門学校のグループ合併吸収も合わせ日本、アジア世界をも代表するコンピュータ教育機関となっている。

繁雄の「これからの社会を担う人材を育てる」という決意は、すでに4万以上の卒業生が、コンピュター時代を担っていることに結実している。「技術のみに長けた人材」ではなく「応用力もあり人格的にも優れた人」の育成を目標とし、卒業生たちは各企業から「次第に底光りがしてくる人物」と評されている。

内憂外患のこれからの日本には、時代を見抜く先見の明と、自ら実行に移すパイオニア精神を持った人物教育が重要になる。そのことを長谷川繁雄は教えてくれる。