半藤一利『それからの海舟』ーーー「薩長善玉史観」への強烈で爽快な反論の書

半藤一利『それからの海舟』(ちくま文庫)を読了。

江戸っ子の「歴史探偵」・半藤一利勝海舟に対する贔屓の書。

「それから」とは、もちろん革命と破壊の行動家・西郷隆盛勝海舟の会談で決まった無血開城を実行する。

幕府に人材は払底していた。旧幕府の首相・外相・陸相として官軍や外国と対峙しかなかった。

江戸八百八町を火の海にする覚悟と手配、ゲリラ戦の準備という背水の陣。死生の別は天に預けてあるという捨て身。尺進あれど寸退なしの気概。敗軍でありながら、正々堂々の論陣と恫喝を交えた啖呵。

事前に薩長に肩入れをしていた英国のパークスと面談し、感激させた。そして官軍の江戸総攻撃を放棄させていた。「いっそ」「どうせ」「せめて」などの負け犬根性はみじんもなく、徹底したリアリズムに徹した。いざという場合に備えて、徳川慶喜のロンドン亡命の手配も済んでいた。

私情を捨てて、日本のために徳川8万騎の暴発を抑えきったのである。権力の平和的委譲は、日本の歴史始まって以来のことなのだ。

半藤は「薩長の田吾作」とののしっている。漱石も江戸っ子として同じ心境だった。そして荷風薩長を「文華を有せざる蛮族なり」と断じている。彼らは「薩長善玉史観」にくみすることはしない。

「それから」の海舟は、没落した徳川家の総務部長的役割を意識し、幕臣の面倒を見続けた。困窮した幕臣の面倒を見続けた。出処進退についての非難に耐え、最後の一人が死に絶えるまで見届けようとした。強烈な使命感をもって、新政府の近代化を阻む潜在的な脅威を抑えこんだのだ。末期の言葉は海舟らしく「コレデオシマイ」とさっぱりしていた。

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2019年に開館した大田区千束の「勝海舟記念」を、その年に訪問した。以下は、その時に書いた文章。

1868年、新政府軍参謀の西郷隆盛1827年)と会談し、江戸城無血開城を成功させる。このとき、勝は46歳、西郷は43歳だ。この時の様子や評価は多いが、今回江藤淳『海舟余波』tという著書を読んだ。「彼の前には、近代国家の可能性がひろがり、彼の後ろには幕藩的過去がひろがっている。明日に迫った江戸城明渡しは、二つの歴史の関節をはめるような仕事である」と書いている。

勝は薩摩側に立っていた英国公使・パークスと接触し、和平と慶喜助命による安定した市場の確保という点で利益が一致することを確認し、武力解決には同意しがたいと薩摩に申し入れさせている。また、江戸の治安を任せないと大変なことになるぞとの脅迫も使った。外を押さえ、内の状況を逆手にとって、西郷を包み込んで、身動きをとれないようにしたという放れざわのような政治手腕を発揮する。実は会談の前に勝敗は決まっていた。

明治新政府では、勝は外務大丞兵部大丞、参議海軍卿元老院議官枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された。この出処進退について、福沢諭吉(1835年生)から「瘠我慢の説」で非難された勝は、1892年に返答を送る。「行蔵を我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」と返事をする。批評家に、局に当たらねばならぬ者の「行蔵」の重苦しさがわかってたまるか。自分は日夜自分を奮い立たせて継ぎはぎ細工を続けてきた。その一刻一刻がおれの「行蔵」だ。それが我慢というものだ。そういう心境だったのだ。また福沢は勝は「得々名利の地位に居る」と非難している。叩き壊すことは簡単だが、まとめるには苦心がいる。権力の中枢に謀叛を起こしうる力が存在し、それが統制されていれば、一大勢力になる。幕臣の代表として高位高官になることは必要だった。最大の潜在的野党として異常な沈黙を守ったのである。我慢と苦学の後半生であったのだ。これが江藤淳の見方だ。

勝は旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。相談ごとで訪れる人は絶えることがなかったという。旧幕臣の世話を焼いていたのである。

慶喜とは微妙な関係で、維新後は長く断絶していた。慶喜に末子を勝家の養嗣子に迎え、小鹿の娘伊代を精と結婚させることを希望し慶喜とも和解している。

勝海舟の生き方は、一貫している。この『海舟余波』の読後には、変節漢呼ばわりする福沢の説よりも、海舟の生き方に軍配をあげたい気がする。

 

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「名言との対話」山本二三「画家の絵を見なさい、写真集を見なさい、小説を読みなさい、写真を撮りに旅に出なさい」

山本 二三(やまもと にぞう、1953年6月27日 - 2023年8月19日) は、日本アニメーション美術監督アニメーション監督。享年70。

2019年に八王子の東京富士美術館で開催中の「山本二三展ーー日本のアニメーション美術の創造者をみた。スタジオ・ジブリのヒット作の背景画を描いた人である。

1953年長崎県五島列島福江島で生まれる。中学を出て集団就職岐阜県の石材会社に就職。工業高校の夜間定時制の建築家に通う。中学・高校時代に高畑勲が演出補佐をつとめた「わんぱく王子の大蛇退治」などのアニメをみて、絵でもこういう分野があるのかと衝撃を受ける。卒業後は働きながら夜間のアニメーション専門学校で学ぶ。上京しアニメ制作会社に入るが、ここでも武蔵野美術短大学通信教育部美術学科に進学する。そして1978年、24歳でNHKTVのシリーズ「未来少年コナン」(宮崎駿演出)の美術監督をつとめたことから人生が回っていく。高畑勲宮崎駿という天才たちの身近にいて、一緒に仕事をする幸運に恵まれた。高畑勲からは「描けない時は詩を読め」、宮崎駿からは「絵画でなく自然な風景を描いてくれ」と言われた。

山本の経歴では、定時制高校、夜間専門学校、通信教育で学んだというところに感銘を受けた。また宮崎駿が「山ちゃんはやめろと言わない限りずっと描いている」と評するほどのすさまじい描きこみの人である。ハンセン氏病を描いた「もののけ姫」では、「シン神の森の入り口から、頭が痛くなるくらいに描いた、死んだら棺桶に入れて欲しい」とまで語っていた。最近作の「希望の木」という作品でも、描いたときは「魂に導かれるようだ」と述懐している。こういう逸話があるくらいに、背景画に没頭する人である。

2018年には故郷の五島に山本二三美術館が開館している。「山本二三」展で、227点の作品を一挙公開したベストセレクションを堪能した。

以下、展覧会でみた背景画。「未来少年コナン」「ルパン三世2ndシリーズ」「じゃりん子チエ」「名探偵ホームズ」「天空の城ラピュタ」「火垂るの墓」「おのぎりころりん」「くじらぐも」「おおかみと7ひきの子やぎ」「はとよ ひろしまの空を」【Coo 遠い海から来たクー」「タイコンデロンガのいる海」「もののけ姫」「かちかち山」「ファンタジックチルドレン」「時をかける少女」「ミヨリの森」「川の光」「宇宙ステーションへようこそ」「くまのがっこうージャッキーとケテイ」「無告の森」「ハイドウナン」「世界樹の迷宮Ⅳ 伝承の巨神」「歩き屋フリルとチョコレートきしだん」「グスコーブドリの伝記」「菩提樹の春夏秋冬」、、、。

アニメの進行・完成はどうやって行われるのか?

監督やプロデューサーが作品の世界観をつくり、キャラクターイメージを決める。監督が絵コンテを描く。アニメーターがキャラクターの絵を描く。美術監督の指示で背景画を描く。背景画にキャラクターやCGを重ねて撮影・編集して、アニメ画面になる。アニメーションの「もののけ姫」クラスになると、のべ2000人のスタッフが関わる。山本は美術監督だった。

山本によると、背景画は、芸術性と職人性が半々である。芸術性と職人技が必要とされる商業的な芸術だ。背景画が美術作品の一ジャンルとして世界で認知されて、背景画の複製を作るとか、もっと希望の持てるスタイルができるなら、未来の才能も育つし、日本のアニメーションが更に活性化するのではないか。これが背景画という新分野の第一人者になった山本二三の志だ。新分野を切りひらいた人には使命がある。

山本二三は、「画家の絵を見なさい、写真集を見なさい、小説を読みなさい、写真を撮りに旅に出なさい」という。狭い専門領域に閉じこもっていないで、視界を広くとれというアドバイスだ。

ここで思い出すのは、「一流の映画を見ろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め、そして、それから自分の世界を作れ」 と後輩たちを励ました漫画の第一人者・手塚治虫の言葉だ。

広い視野、教養に支えられて、自分の専門領域が深くなる。専門バカは専門さえも浅くなる。