10年ぶりの「澁澤龍彦」展。前回は仙台文学館、今回は世田谷文学館。--「ミクロコスモスとマクロコスモス」

澁澤龍彦 ドラコニアの地平」展。世田谷文学館

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・「伸縮自在のミクロコスモスとマクロコスモスの観念を、二つながら手にれることが必要なのではないか」

・翻訳は「独創性を完全に殺したところで勝負できるからこそ面白い」

 2007年に仙台文学館で開催された「澁澤龍彦」展の訪問記は以下。

澁澤龍彦との日々」で気に入ったところを2007年にピックアップしていたが、今回も全く同じ箇所だったのには自分でも驚いた。

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フランス文学者で、文学、芸術批評、文明論、博物誌、紀行、翻訳など膨大な足跡を残した澁澤龍彦(1928−19827)は、「悪徳の栄え」を猥褻文書として起訴されたサド裁判で世に知られるようになった。1928年生まれ(昭和3年生まれ)だから生きていれば79歳、今回の仙台文学館も含む全国数箇所での展覧は没後20年を記念した企画である。この作家は関心が広くかつ膨大な量の仕事を残しており、59歳で亡くなったがもし澁澤が天寿を全うしていたらどのくらいの著作や翻訳が生まれたのか、皆目見当がつかない。
全集全22巻、別巻2巻。翻訳全集全15巻、別巻1巻。

東大浪人中に出会った「モダン日本」編集長時代の吉行淳之介。同年生まれで知り合ってから全ての公演を見続けた舞踏家・土方巽との運命的な出会い。画家の池田満寿夫。演劇の唐十郎。公私にわたり世話になり最良の読者の一人でもあった三島由紀夫。先達であった稲垣足穂。フランス文学者・批評家・紀行作家の巌谷国士。小説家・遠藤周作
日本画家・加山又造。詩人・白石かず子。作家・野坂昭如。人形作家・俳優の四谷シモン

こういう時代の最先端を疾走する人々が、澁澤の周りにいた。

代表作と呼べるものを記しておく。
「夢の宇宙誌--コスモグラフィア・ファンタスティカ」
  遊びや消費を賛美したエッセイ集
  60年代に刊行した十数冊の著書の中で、私のいちばん気に入っているのが
  「夢の宇宙誌」である。(澁澤龍雄)
「快楽主義の哲学」---KAPPAブックスのベストセラー
「滞欧記」
「偏愛的作家論」
  泉鏡花谷崎潤一郎、日夏、南方熊楠岡本かの子石川淳堀辰雄稲垣足穂
  埴谷雄高花田清輝林達夫三島由紀夫野坂昭如吉行淳之介
  滝口修三、安西冬衛、鷲巣繁男、吉岡実江戸川乱歩久生十蘭夢野久作
  小栗虫太郎橘外男中井英夫
「高丘親王航海記」
「オー嬢の物語」(翻訳)
「さかしま」
  「まず装丁にまたまた嫉妬にかられ、一生に一度でいいからこんな本を出したいと
   思ひますのに思ふにまかせません。わが身の不運を嘆くのみ。
   (三島由紀夫からの葉書)
雑誌「血と薔薇」(責任編集)
翻訳
 サド、ユイスマン、コクトー、ジュネ、バタイユマンディアルグレアージュ

「変化を自覚しつつ、新しい道を探し求める傾向」
「やがては小説でも書くより以外には行き場がないんじゃないか」

抜群の記憶力の持ち主で、旅行中はメモを取らなかったが、宿についてその日のことを整理するというやり方だったと妻の龍子が述べている。ノートはやや小型版だが、丹念に書いてあった。
  
絶筆であった「高丘親王航海記」、「滞欧日記」を買った。
妻の澁澤龍子が夫と過ごした18年の日々を静かにふりかえった「澁澤龍彦との日々」(白水社)を帰ってから読んだ。澁澤の日常がよくわかるいいエッセイだった。 

澁澤龍彦との日々 (白水uブックス)

・結婚は澁澤龍彦41歳、妻龍子21歳。両方ともたつ年生まれ。子どもを持たない約束。
「40年近くを、スランプを一度も経験することなくやってこられたのは、好きな翻訳で気分転換をはかれたこともあると思います」
「執筆は遅いほうでした。平均すれば一日に一枚か二枚というほどでした、、」
「推敲を終えた原稿を清書するのは、私の役目でした」
「赤坂「鴨川」のふぐ、麻生の「苞生」、高橋のどじょう屋、、」
「澁澤はつねずね、自分は「目の人」だと言い、絵や彫刻のことなど、目で見たもののエッセイはたくさんありますが、、、:」
「ヨーロッパ旅行を境に、澁澤は変わったと思います、、、、内から外に向かって、何かバアッと開かれた感じがしました」
「ホテルに帰ってから、一日のことをきちんと書きしるすのが習わしでした」
「国内旅行の場合は、一つ仕事が終わると息抜きとして出かけたものでした」
「書けば必ず三島さんが読んでくれるという、期待感と同時に緊張感がありました」
「澁澤は何かにつけ三島さんのことを語りました」
「五十を過ぎたころから、澁澤は「持ち時間が少なくなったから」としきりに言うようになりました、、、「時間がないのだから本当にやりたいことだけやるよ」と、、、」
「いつも書斎にとじこもって昼夜逆転しているような人が、旅に出ると不思議に早起きで、まあよく歩きます」

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「副学長日誌・志塾の風」171011

・教務委員会の始まる前に、金委員長と成績訂正の相談。書類提出も修了。

・近藤秘書とスケジュール調整

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・上野の国立博物館で開催中の「運慶」展をみる。

荻窪の日本地域社会研究所で知研岡山20年史の出版の相談。『「図書館へのおすすめ本」専用注文書2017年版)』(図書館流通センター丸善有松堂・図書館総合展運営委員会の共同企画)で拙著『偉人の命日366名編集』紹介されている。分類では「一般書(歴史)」になっている。この本は「全国247社の「新たな定番となるべき資料価値の高い書籍、時代のニーズに応え続けることのできる良書」として全国の図書館が使う。

 

「名言との対話」10月11日。川久保怜「無視されるよりも、けなされるほうがましです」

川久保 玲(かわくぼ れい、女性、1942年10月11日 - )は、日本ファッションデザイナーで、ファッションブランドコムデギャルソン」の創始者

慶応義塾大学文学部哲学科卒業後、旭化成の宣伝部で数年働き退社。1969年にファッションブランド「コムデギャルソン」を立ち上げる。フランス語で「少年のように」で、少年の冒険心を表している。その直線的でノンセクシャルなスタイルはパリのファッション界に衝撃を与えた。30歳、株式会社コムデギャルソンを設立。独特のデザインとビジネスセンスでファッション界で成功する。それは以下の受賞に現れている。50歳、フランス芸術文化勲章。58歳、芸術選奨文部科学大臣賞。60歳、朝日賞。61歳、フランス国家功労章。69歳、ファッション界のオスカー賞と称される米ファッションアワード(国際賞)。

「私は観る人の価値観を問うコレクションを創りたいと思います。話さなくても洋服を見れば私のことが分かります。言いたいことは全部、洋服の中にあるのです。」「何かいつも、新しいこと、強いものをと思っていて、それを続けていないと次が生まれてこないのです。」「自分の過去の作品に似たものも、作りたくありません」「すでに見たものでなく、すでに繰り返されたことでもなく、新しく発見すること。前に向かっていること。自由で心が躍ること。」「私は、いままでに存在しなかったような服をデザインしたいと思っています。自分の過去の作品に似たものも作りたくありません。」「他の人と同じ服を着て、そのことに何の疑問も抱かない。現状を打ち破ろうという意欲が弱まってきた風潮に危惧を感じます」

川久保玲はビジネスウーマンであり、起業家であった。以下の言葉にその考え方をみることができる。「私のやってきたことは決して芸術家としての活動ではありません。『創造を通じたビジネス』を展開することのみを継続してきました。これはあらゆる重要性の中で第一で、唯一で、最も重要な私の方針です。その方針(決心)とは、今までに存在していなかったものを創造することを第一に考え、ビジネス面も成立させる方法でそれを創造し、表現することです。私にとってデザイナーであることとビジネスウーマンであることは分けられません。私にとってはひとつで、同じ意味です。」

デザイナーに限らず、仕事をする上で高い評価、賞賛はもちろん欲しいものである。しかし、相手、客、ライバルの無関心ほどつらいものはない。けなされる、悪評を受ける、そのことは関心を持ってもらったということなのだ。愛の反対語は憎悪ではなく、無関心であるという。哲学科出身の川久保怜の多くの語録にみるように、前向きで、独創を好む仕事師は、相手を怒らせるか、相手を屈服させるかの戦いに毎回挑んでいるのだ。厳しい生き方だ。