エース株式会社の「世界のカバン博物館」と創業者の「新川柳作記念館」

浅草に本社のあるエース株式会社の創業者・新川柳作は「聖業を営ませていただいているカバンを通じて、何か社会に恩返しができないか」と考え、「世界のカバン館」を開館した。それが、「世界のカバン博物館」に発展した。そして「新川柳作記念館」になっていった。

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1915年7月31日に石川県白山市で誕生。母一人で4人を育てた。小2の教科書「椎の木と樫の実」の話のなかにある「今に見ていろ僕だって 見上げるほどの大木に なって見ぜずにおくものか」を心に刻んだ。

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16歳、大阪の加藤忠商店(カバン卸業)に入社。1940年、大阪でカバン製造卸業。1950年、25歳、株式会社新川柳商店。1953 年。東レのナイロンという新素材でナイロンバッグを開発。60歳、会長。89歳、上海に中国エース本社ビル、「母念」の石碑。2008年1月に他界。「私の人生の大半はカバンに明け暮れた日々だった」と本人がいうように、カバンに明け暮れた92年の生涯であった。

エース株式会社の「エース」は、野球のエースピッチャーのように優れた製品を世に出そうという決意が込められている。

「生きるということは、逃げないことである。逃げないということは、苦難を苦難として味わうことである。苦難の体験は、小さな難事に対するに自信を、より大きな難事に対するに気力を植え付けてくれる」

社歌の作詞は西城八十、作曲は古関雄而。。「なにわのせんばにうぶごえあげし、、、、、、、つよし、たくましのびてゆくエース」。

 「わたしカバン」コーナーでは、山下泰裕のスーツケース。福原愛のスーツケース。三浦雄一郎のダッフルバッグ。長嶋茂雄のカバン。羽生結弦のトローリーバッグバリース。吉川英治の牛革グラッドストーンケース。、、などが展示されている。

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1975年、「世界のカバン館」。 2008年1月他界。2010年、創業70年に「世界のカバン博物館」を開館。「世界のカバン博物館」は、カバンの歴史、カバンの秘密、世界のカバンコレクション、わたしのカバン、企画展示エリアなどがある。2015年、創業75年記念事業として。創業者の生誕100年目に「新川柳作記念館」を開館した。

 人類はカバンと進化。運ぶ器はカバン。トランク(幹)は大木の幹をくりぬいたもの。日本書記、古事記にある大国主命の袋(平面布)がカバンの最初。倭健命のひうち袋。、、、、、。

「企業ミュージアム」というテーマを意識してから、帝国データバンク史料館、日本銀行貨幣博物館に続く3館目だ。企業ミュージアムは、企業のPRセンターでもあるためにきれいであり、歴史や資料がよく整理されている。また受け付けの女性も内容をしっかり把握している。そして無料である。企業の歴史と現在、そして創業者の熱意とたどった生涯をなぞることができる。行政などが所管する人物記念館は泥臭いところも多いが、企業が主体であるため、すっきりしていて気持ちがいい。浅草には「太鼓館」(宮本卯之助商店)、「日本玩具資料館」(玩具卸「ツクダ)もあるので、次の機会にみたい。新川柳作記念館で920館目。あと80館で1000館か。少しペースを上げるかなあ。

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「名言との対話」(戦後編)2月8日。堺屋太一巨人・大鵬・卵焼き」「団塊の世代

 堺屋 太一(さかいや たいち、1935年昭和10年)7月13日 - 2019年平成31年)2月8日)は、日本通産官僚小説家評論家

本名の池口小太郎は、通産省に入省。大阪万博の提唱者として知られる。1978年10月に退官し、執筆評論活動に入る。20年後の1998年7月には、小渕内閣民間人閣僚として経済企画庁長官に就任し、第2次森内閣まで務める。長官在任中には、従来の政府の景気判断よりも景況感の変化を迅速かつ的確に把握しやすくする為、タクシードライバーや居酒屋の店主など「街角の人」に直接話を聞く「景気ウォッチャー調査」を開始した。

堺屋太一というペンネームは自身の家の屋号を用いたものだ。「巨人・大鵬・卵焼き」という人口に膾炙した言葉は、堺屋が通産官僚時代に記者会見で子供が好きなものの紹介の中で、卵が物価の優等生という意味を込めて巨人と大鵬の後に続けたのが最初だということだ。考えた本人は、卵を主役としたのだが、巨人や大鵬の方に目がいってしまったと言っている。

大阪万博は、行政的な仕掛けが堺屋太一氏だとしたら、小谷正一は住友館とか、いくつかのパビリオンのプロデューサとして名前が残っている。内容的な仕掛けは小谷さんの仕切りであろう。

2018年12月17日の昭島市まちづくり企業サミット」でコーディネーターをつとめたとき、ご一緒した。国連アジア刑政財団会長の堺屋太一会長として短い講演をを聞いた。お年を召したなあと感じたが、基調講演ではしっかりお話され、「明治は強い日本。戦後は豊かな日本。新しい日本は楽しい日本。多様性、意外性。2025年の大阪万博。プロジェクトを建てよ。昭和の森にパビリオン」と語った。昭和館での懇親会でもご一緒した。堺屋太一先生とはJAL広報部時代に韓国ソウルでの文化講演会でご一緒して以来だった このとき、「堺屋太一著作集」を出したとも聞いた。2018年8月に完結した堺屋太一著作集』全18巻だ。2019年2月8日、堺屋太一先生死去の報が流れた。享年83。

堺屋太一の小説や評論などは私もよく読んできた。『油断!』(日本経済新聞社、1975年)。ある日、突然、石油が断たれた!そのほとんどを輸入に頼る日本がなすすべもなく麻痺し崩壊してゆく姿を、生々しく描き出した衝撃の予測小説だ。『団塊の世代』(講談社、1976年)。共通点は各々の物語の主人公が1947年(昭和22年度)から1949年(昭和24年度)に生まれた団塊の世代の大卒ホワイトカラーであるということである。『知価革命 工業社会が終わる・知価社会が始まる』(PHP研究所、1985年)。平成三十年』(朝日新聞社、2002年)では1ドル=300円、ガソリン代1リットル1000円、消費税は20%へ―。平成30年(2018)の日本はまだ何も“改革"できないでいたとするストーリーだった。2006年の日経新聞連載小説は、渡辺純一の「愛の流刑地」の後を受けた堺屋太一の「世界を創った男・チンギスハン」だった。チンギス・ハンノの少年時代が興味深く毎朝読んだ。橋下徹堺屋太一「体制維新---大阪都」(文春新書。2011年)は、大阪都構想を掲げる橋下大阪市長の考える大阪と日本の未来がよくわかる本だ。一点突破で現在の閉塞感を打ち破る可能性がある。4年間の大阪府知事時代の闘争に裏付けられた現場感覚とそこから生み出された明快な論理と方向性には説得力があった。

 佐高信「タレント文化人200人斬り ブラックリスト完全版」(毎日新聞社。2011年)を読んで、そうそうたる現代の英雄たちを一刀両断で切り捨てる人物鑑定眼と冴えわたるワザに感服した。「堺屋太一。時間にだらしない点は変わらず、講演会に集まった人たちを大幅に待たせたことがあった」と批判されている。

私も同時代に生きて多くの影響を受けた。大学を卒業後に役人になったのは将来の自分の方向を定めずに、「何にでもなれる」からということで選んだという記事を覚えている。退官時には「ケインズを超える」という志を語っていた姿を記憶している。そして「堺屋太一著作集」(東京書籍)は死の半年前に完結しているのがさすがである。

「巨人、大鵬、玉子焼き」も話題になったが、「団塊の世代」というキーワードは今なお、生き続けている。戦後75年が経過したが、それは団塊の世代という主役たちをめぐる歴史だったといってもおかしくない。そしてこの物語はまだ終わっていない。

団塊の世代 〈新版〉 (文春文庫)

知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる