女の一生--羽仁もと子・平林たい子・いわさきちひろ・林芙美子

朝起きて聖書を読み
昼は疲れるまで働き
夜は祈りて眠る   (羽仁もと子


「自治自労の生活」を目指す自由学園の創設者の言葉である。
もと子は明治37年には家計簿なども自身で考案し、出版もしている。子供の頃「きわめて聡明で、きわめて不器用な子供だった」もと子のもっとも不得意な分野が仕事になったということだろう。2005年版の家計簿には「けむりのように消えてしまう おカネの足あとが つかめます。この家計簿をつけると 暮らしの予算が立てられ 明日がみえてきます」と書いてある。
志に反して苦手なことが天職になっていく人もいる。

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私は生きる(平林たい子


郷里から上京するたい子に父は「女賊になるにしても一流の女賊になれ」と励ました。たい子の人生をたどってみると、その教えの通りに生きたという気がしてくる。
すさまじいエネルギーと思い切りのいい強烈な言動のたい子は、「私は生きる」という言葉を好んで使ったが、記念碑にはたい子にふさわしい言葉として丹羽文雄を選んだこのこの言葉が刻んである

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自分がやりかけた仕事を一歩づつたゆみなく進んでくのが不思議なことだけれど、この世の生き甲斐なんです。(いわさきちひろ



「我は人の世の痛苦と失望とをなぐさめんために生まれ来つる詩の神の子なり」と述べた樋口一葉いわさきちひろは深い共感を寄せていた。詩を絵に置き換えて、子供の幸と平和を願った絵を描きつづけた。神から与えられた才能を自覚し、それを十全に発揮した。今なお多くの人がその絵に癒されている。

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50歳ころまで生きることが出来るならば、50歳になって、ほんとうの「放浪記」を書いてみたいと思っている。「放浪記」にかぎらず、本当の小説というものを書いてみたいと思っている。(林芙美子



「私はやっぱり庶民的な作家で終わりたいと思っています。、、、いつ死ぬかも分からない。だから無駄弾丸は抛りたくない。、、、みんなに共感を持たれるような、そして庶民の人が読んでくれるような、仄々としたものを書きたいと思っています。」
林芙美子は仕事を断らない働きぶりだった。それが47歳で寿命を尽きさせた。

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