朝は9時からヨガ教室で1時間カラダをつかう。今日は1人欠席で男性4人のクラス。毎週土曜日にこのクラスに通って、もう10年になる。このヨガのおかげで体調はすこぶるいい。
今日は鋤(スキ)のポーズで何とか足先が床に触れた。
(これは私ではありません。これほどキレイではありません。)
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学芸大学:橘川さん、軽井沢から駆けつけたトッくんたちと昼食。
「イコール」ZINE祭り。「ハコール」の方向。100冊出版プロジェクト。
デメケンの部屋で歓談。日中関係の写真集など興味深い本をみせてもらった。『やくざ学入門』(三笠書房)をいただく。
NHK「新・プロジェクトX」で有名なソニーの久夛良木健さん(1950年生まれ)のプレイステーション開発物語を興味深くみた。「異端児たちのゲーム機革命 ~電機メーカー 新時代への一手」。「異端児」が次の時代を切り拓く。
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「名言との対話」10月11日 秋野不矩「作家は自分の創作を期して、表現にいどみ一生を過ごすのが、使命であり、それが本望である」
秋野不矩(あきの ふく、1908年〈明治41年〉7月25日-2001年〈平成13年〉10月11日)は、静岡県出身の女性日本画家。享年93。
19歳で石井林響、次いで西山翠嶂に師事する。28歳の1936年、文展鑑査展で選奨を受賞するなど、早くから官展で実績を積み重ね、画家としての地歩を固めた。戦後まもなく、新しい日本画の創造を目指して「創造美術」(現・創画会)の結成に参加し、官展時代の作風から脱却。西洋絵画の特質を取り入れるなどして、人物画に新境地を開いた。
東京の山本丘人、京都の上村松篁らとともに、「在野精神を尊重し、自由と独立をかかげ、真に世界性に立脚する新しい日本画」をめざした。秋野は日本画家・沢宏靱との間に6人の子をもうけている。
京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)では後進の指導に当たり、助教授・教授として25年間勤務し、定年まで勤めた。35歳で夭折した三橋節子はその教え子である。
50歳で離婚し、4年後にインドのビスバ・バラティ大学(現・タゴール国際大学)の客員教授として招かれた。インドの風景に魅せられ、以後はインドを主題とする作品で新たな境地を開拓する。定年後には長期のインド滞在を重ね、その歳月を記した『画文集 バウルの歌』を刊行した。84歳のときの著書である。それを読んだ。
故郷の浜松市には秋野不矩美術館がある。そこには、次のような秋野の言葉が掲げられている。
「絵を描きつづけて八十余年。それでもまだ満足のいく作品が描けないのが現実だが、私もそれ故に生きてゆく甲斐があるというものであらう。絵とは何であらうか。作家は自分の創作を期して、表現にいどみ一生を過ごすのが、使命であり、それが本望である。」
その言葉どおり、世界性に立脚する新しい日本画の世界をつくり出した。その評価が、文化功労者に続く、91歳での文化勲章受章である。
「創造美術」において、画家としての自らの使命を自覚したのは秋野不矩の40歳のときだった。まさに「四十にして立つ」。それから50年以上、創作の道を歩み続けたことは、まさに本望であっただろう。