昭和24年から続く明治神宮献詠短歌大会(第153回)に参加。歌壇・結社をこえた歌人によって構成された選者によってえらばれる。
妻の献詠歌が「入選」したので、夫である私は「付き添い」という資格で出席した。

- 10時:献詠披講式(明治神宮本殿)
秋の大祭を奉祝しておこなわれるいもの。約3000首の応募がある。明治神宮宮司と宮中歌会始披露会の方針が御神前で車座になり、選ばれた和歌を朗々と詠じ奉じる儀式。
近代日本を牽引し神としてまつられた明治天皇は生涯で「すなほなる人のこころをそのままにあらはすものは歌にぞありける」など10万首の歌を詠んでいる。3万首を詠んだ昭憲皇太后の歌「世にひろくしげるもうれし人みなのまことを種のやまとことのは」。


記念撮影


- 13時:表彰式
2509首から「特選」10首、「入選」20首、「佳作」170首が選ばれた。
特選首から:「若き日に人悲します恋をして一生(ひとよ)を駆けて姉は逝きたり」(滝妙子)。「カラコロと氷のうたふカルピスを飲み手真夏の喉をうるほす」(柳澤みゆき)
入選首から:「隣家(となりや)の一年生の朝顔がけさ初めての青を咲かせり」(久恒恭子)。「破壊より創造が始まる」解体屋の大型ダンプの車体の太字」(樺島策子)。「散歩する吾を追ひ越し行く人をジョギングする人さらに追ひ抜く」(松井敬子)。

選者たち


栗木京子先生の挨拶。:石8月6日の広島でので平和祈念式典で石破首相の「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」を紹介。短歌の持つ力を強調した。栗木京子「水音は草に吸はれて長月の山ふところに谷川流る」
九條道成宮司の挨拶。「先人の思ひ受け継ぎ神宿る代々木の杜を守らむ永久に」


表彰

講演は妻が熱烈なファンの小島ゆかり先生、演題は「宮柊二・命へのまなざしー家族の歌を中心に」。
宮柊二の略年譜:1912年新潟県魚沼群生まれ。17歳相馬御風(「春よ来い」「都の西北」を作詞)主催の「木陰歌集」に投稿。21歳、北原白秋の門下となり秘書、27歳、富士製鋼入社。出征。31歳、帰国。32歳、結婚、33歳終戦。34歳、第一歌集『群鶏』。41歳、「コスモス」創刊。48歳、富士製鉄を退職。74歳、逝去。

以下、妻を詠んだ歌。
三人子をつぎつぎと呼び囲らせばけぶるがにきよし妻なれど母
灯を明かく待ちゐし妻にたまものの絵を遣らん初めて愛を言はん
物忘れしげくなりつつ携へて妻と行くときその妻を忘る
わがひ嘆きをりたる古嬬(ふるづま)の睡りの覚めぬ春のあけぼの
入選作20首。
「隣家(となりや)の一年生の朝顔がけさ初めての青を咲くかせり」(久恒恭子)。

選者と特選・入選の人たちの豪華な懇親会。私も参加。
島田修三「ときどきこういういい日があるから生きていける」。栗木京子ら「20年、30年と続けることが大事」、、、、。
今日は私は「付き添い」という立場であったが、「付き人」のような感覚で過ごした。ファンである小島ゆかり先生と一緒の二人の写真、新著へサインをもらうなど妻にとっては素晴らしい一日となった。
歌人の私の母から2009年の正月に短歌の手ほどきを夫婦で受けた。私もつくってみたが、人間が単純であり心のひだを詠むのは向いていないとわかり、早々に脱落。
妻は続け、17年目の明治神宮短歌大会に入選という快挙となり、母の後継者となってくれて嬉しい。妻にとっては人生でも最大級のハレの日のビッグイベントとなった。今日は私にとっても晴れがましい日となった。おめでとう!
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「名言との対話」10月19日。大石武一「もし失敗したら失敗したで、そのときに、さらに別な対策を考えればよいのである」
大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 2003年10月19日)は、日本の医師・医学博士、政治家。享年94。
医業をやりながら、趣味として植物学を行うことを父に勧められ、東北大学医学部で学ぶ。卒業後は東北大学医学部助教授を経て、筋を通した政治家であった父の死を契機に後を継ぎ、1948年に政治家へ転身した。連続10回当選し、河野派(のちに中曽根派)に所属した。
1970年前後は、水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病の住民訴訟が相次いだ。大阪国際空港のジェット機騒音訴訟、自動車排気ガスによる大気の鉛汚染、光化学スモッグ、水質汚濁、ヘドロなど、工業化の進展による悲惨な環境破壊が大きな問題になっていた。第64回国会は「公害国会」と呼ばれ、その直後に環境庁が発足した。
1971年、第三次佐藤内閣のもとで佐藤総理に自薦して念願の環境庁長官に就任し、実質的な初代長官となった。大石武一は、政治の目的は「生命の尊重」、すなわち「人の生命を守る」ことにあると考え、それを環境行政の基本理念としようとした。それを示したのが、以下の二つの案件である。
水俣病患者救済問題については「疑わしきは救済する」という行政措置を掲げ、救済対象を拡大した。大石は、環境庁を「人の命を何よりも大事に守る」役所にしたいと願った。もう一つは、観光用道路の建設計画で揺れていた尾瀬という日本の自然の宝を守るため、各界の強い反対を押し切って中止させるという強いリーダーシップを取り、自然保護行政を立て直したことだ。ここでは、かつて植物学の道を志そうとした経歴が生きた。
また、公害の無過失賠償責任制度の立法化も、民法の権威である我妻栄(東京大学名誉教授)の力を借りて実現した。疫学的に見て蓋然性が非常に高い場合には、法的に企業の責任を認めることになった。
これだけのことを、わずか1年という任期で実現させた。自薦しただけのことはある。オープンマインドで住民や記者とも交流を図り、陳情にはなるべく直接会うようにし、現地に足を運んだ。そうした行政の情報公開と住民との対話路線は国民にも支持され、力になった。
盛岡の原敬記念館で、2000年に『現代』が行った「20世紀最高の内閣」という企画の結果を見たことがある。環境庁長官は大石武一だった。今は環境庁は環境省となっているが、大石の業績に匹敵する長官・大臣は見当たらない。この評価は今でも同じではないだろうか。
火中の栗を拾う。損得で考えない。解決に向けて渦中に入っていく。そうした姿勢と気力、そして胸中の理想がエネルギーとなって、実績を挙げたのだと、『尾瀬までの道』を読んで改めて感心した。
