ディスカバー「e-book選書」第4弾--『団塊坊ちゃん青春記』

ディスカバー「e-book選書」第4弾です。

無謀にも、夏目漱石の「坊っちゃん」と北杜夫の「どくとるマンボウ青春記」を意識して書いた、私の大学入学から始まる20代の物語。その本の電子版です。

著者紹介では「九州大学探検部卒業。在学中に奄美群島(鹿児島県)、八重山群島(本土復帰前の沖縄)を探検、将来は月に行けるかもしれないと考え、1973年、航空会社をフィールドにして社会探検を開始。企業(日本航空)とNPO法人(知的生産の技術研究会)、大学(宮城大学多摩大学)の世界を探検中」としています。

以下、「終りに」から。

若いということはエネルギーにあふれているということではありますが、山登りにたとえるとまだ登山口に入ったところです。見晴らしは悪く、景色も良くない。そしてゴツゴツした岩肌にぶつかったり、ブッシュの中でさまよったりしている状態です。もちろん、頂上はまったく見えないのです。
あらためて目の前の仕事を眺めてみると、よく耕されたフィールドはなく、未開の荒野が広がっているように見えてきました。そこで起こっている問題を深掘りして、一つのプロジェクトとして多くの人たちと解決に向かって取り組んでいく。そういったプロジェクトの進め方は大学の探検部時代に経験していました。その経験が大いに役に立ちます。
大学入学から10数年たって、ようやく登山口にさしかかった当時の私には、その後の展開は知るよしもありませんが、今やるべきことは少しわかってきた感じはありました。
ともかくも、仕事と知研の二本足で立って行こうと、漠然とした方向感のもとで歩きはじめました。
その後の疾風怒濤の人生行路に、未知の対象に対する探検精神だけを頼りに向かっていきました。

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三島で行われる富士箱根伊豆国際学会の大会で登壇する。「地域DNAは人に在り」というテーマで話をするつもり。その準備。

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「名言との対話」11月12日。グレース・ケリー「人々を助けるために全力を尽くした女性と記憶されたい」

グレース・パトリシア・ケリー(Grace Patricia Kelly、1929年11月12日 - 1982年9月14日)は、アメリカ合衆国の女優、モナコ公国の公妃。

気品に満ちた容姿で「クール・ビューティー」  と賛美され女優として成功する。同時代のマリリン・モンローのセクシーな美貌とは対照的なスタイルだった。ハリウッド女優として「喝采」でアカデミー賞を受賞した翌年の人気絶頂時に、カンヌ国際映画祭で出会ったモナコレーニエ3世と結婚し、女優業から引退した。

モナコ公国妃となったグレース・ケリーは、凛とした佇まいと気品に満ちた容姿で、いまも世界中にファンを持っている。2014年に 映画「グレース・オブ・モナコ」を私も楽しんだことがある。

モナコ公国は、700年以上続く立憲君主国で、バチカンに次ぐ世界第二の小国である。国土は日本の皇居の2倍の2平方キロで、人口は3万6千人。このモナコ公国存亡の危機を救うために、一世一代の大芝居を演じるのがグレース・ケリーという設定だ。以下、あらすじ。

26歳の若さで引退を発表したオスカー女優グレース・ケリーモナコのプリンスとの「世紀の結婚」から6年たった。グレースは、いまだにモナコ宮殿のしきたりに馴染めずにいた。社交の場で女性が意見をすることを咎められ、夫のレーニエ大公からも控えめでいることを望まれる。そんなある日、グレースのもとにヒッチコック監督からハリウッド復帰の誘いを受ける。心動かされるグレースだったが、そのときモナコはフランスによって国家最大の危機に直面していた。愛する家族を守るため、そして宮殿で見失っていた自分を取り戻すため、覚悟を決めたグレースは、自分にしかできない秘策を考え出す。

この難役に挑んだプリンセスの感動の物語である。敵役のド・ゴールフランス大統領、ヒッチコック監督、親友のマリア・カラスなども登場する。ニコール・キッドマングレース・ケリーを見事に演じていた。

実際のグレースは、医療福祉制度の改革を行ったり、バレエをはじめとする文化芸術をサポートしたりしたことでモナコ公国の価値を大いに高める活動を行っている。

「森の中や小道、海沿いをひとりで散歩して、自然と調和することがとても好き。これはセラピーのようなもので、ひとりになることでリチャージできるのです」というグレースは、1日1時間の散歩を習慣づけており、南仏に咲き誇る花々や自然のなかに心の癒しを求めた。のちに日本庭園にも深い興味を抱くことになる。

グレース・ケリーは1981年に来日している。また、「グレース・ケリー公妃ダンスアカデミー」は、日本人ダンサー・森下洋子を輩出している。1994年にはグレースの遺志を引き継ぎ、モナコに日本庭園「雅園」(Grace Garden)が完成しているなど、日本とは縁が深い人だ。

1982年、52歳で自動車事故で短い生涯を終えている。「人々を助けるために全力を尽くした女性と記憶されたい」と、亡くなる2カ月前に語っていたという。「どういう人として記憶されたいか」は、「何を後世代に残すか」と同じく、自問すべき重要な問いである。グレース・ケリーはこの二つの問いに答えを出そうとしていた女性である。