8月の日経新聞「私の履歴書」は北岡伸一東大名誉教授ーー「学者が政治と学問のあるべき関係を求めて模索した記録」

日経新聞私の履歴書」の8月は北岡伸一東大名誉教授だった。

特命全権大使、国連代表部次席代表、国際協力機構(JICA)理事長もつとめた珍しい政治学者、歴史学者である。

「実務の世界を知らないで、本当に政治や外交分析や提言ができるだろうか」「一定の期間、しかし本気で実務の中に入ることが、一番良いように思った」。

この履歴書は「学者が政治と学問のあるべき関係を求めて模索した記録だ」と位置付けている。

東大の日本政治外交史の講座は、吉野作造から始まって、岡義武、三谷太一郎と続き、北岡が4代目である。明治維新以来の近代日本が現代日本にを分析するための枠組みになっている。「すごい変革」、「愚かな侵略」、「素晴らしい復興」、「衰退」というめまぐるしくアップダウンしてきた歴史を研究し、実務家とは違った方法、異なった視点を提供しようとした自分の履歴を語っている。

北岡は東大の学生時代に前川喜作が創設した和敬塾で過ごす。「少し右傾の学生寮」(村上春樹ノルウェーの森」)と書かれているが、「やや誇張されているが間違いではない」と認めている。そして東大の進歩主義に距離を感じていた。

東大紛争に際しては「大学解体などというスローガンが、できるはずがない。大学当局に要求しても当事者能力がない」と考えてスト解除派の先頭に立った。

大学院に進むが、進歩派の教授たちとは肌が合わない。北岡は法立教大学で教鞭をとっていたが、1997年に東大に招かれる。このとき、意外に思ったそうだ。

歴代の民主党政権を含む内閣と仕事をしている。安倍内閣では日中歴史共同研究や国家安全保障会議の設計に加わった。国家安全保障戦略の策定を担当し積極的平和主義を打ち出す。安保法制懇談会では集団的自衛権憲法上可能だとし憲法解釈を改めるべきだと提言し、PKOは武力行使ではなく武器使用だとし、平和安全保障法が成立する。

この軌跡を眺めると、やや右傾の気質をもって、学者として政権の中枢に影響を与えている様子がよくわかった。

「現代の実務家はつねに今の問題に立ち向かう。しかし、政治史を専門にしていると、長い時間軸の中で、それでいいのか、もっと違った方法はないのかを考えることができる」という。日本近代史における政党研究で修士、陸軍研究で博士号をとった北岡伸一は、政治や行政の実務の現場もみて、その知見をもって現代の課題に回答を出そうとしたのだろう。

1980年代に、私は「実務に強い学者と知的実務家の時代」がくると考えていた。学者は実務はわからない、実務家は知的でない。その間の人の発言が重要になるだろう。実務家の自分は、「知的実務家」をめざそうとしていた。

その後の私のキャリアの軌跡は、所属する企業で日々の問題解決に追われる実務家でありながら、世の中に発言できる知的実務家を志して、著作を出すことで、偶然に学者、教育者の世界に入った。そこでは宮城県を中心に行政の委員引き受けたり全国の行政マンの研修を行ったし、大企業から中小企業にわたってコンサルや研修に関与して、世の中を横断的、網羅的にみる機会をもった。

そしてその知見をもとに多くの著作を発表することとなった。学者、教育者と実務家の間が自分のアイデンティティだったのだ。知的実務家と実務に強い学者という異なった立場を持つというキャリアを送ってきたことになる。

そういう意味で、政府関係の審議会、特命全権大使、国連代表部次席代表、国際協力機構(JICA)理事長という役職で、経験を積んだ実務に強い学者・北岡伸一先生の回顧には、興味をそそられた。

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神近義邦さん 型破りな発想と行動力 死去に敬意と悼む声 - 長崎新聞 2020/09/06 [10:10] 公開

「名言との対話」9月5日。神近義邦「エコロジーとエコノミーの共存」

神近 義邦(かみちか よしくに 1942年8月21日 - 2020年9月5日)は、日本の実業家長崎オランダ村ハウステンボス創業者。享年80。

長崎県西海市出身。高校卒業後、1962年に西波町役場に就職、1973年に退職。1983年、長崎オランダ村をオープン。1992年、2年の歳月をかけてハウステンボスの第1期をオープンさせた。

ハウステンボスとは、森の家を意味している。東京ディズニーリゾートと同じ規模。江戸時代に干拓された土地で、ヘドロで埋め立てれていた。この土地の土壌の改良を行い約40万本の樹木と30万本の花を植えている。全長6000m、水深2.5m、幅20-30mの運河も掘削。水処理施設によって汚水や排水を処理し、運河に流すという徹底した環境配慮をしている。初年度から好調な集客実績をあげたが、初期費用は2200億円が重荷になった。また開業直後のバブル崩壊もあり、経営は赤字が続いた。2000年に神近は社長を辞任。2003年には会社更生法の適用を申請。

2010年からはHISの沢田秀雄社長が再建に乗り出す。19年間赤字だったこの会社を1年で黒字にした。コロナ禍での営業不振もあり、2022年にHISは全株式を香港の投資会社PAGに売却している。

勃興しつつあったオランダはリーフデ号で大分県臼杵に到着。この船には英人ウイリアム・アダムス(三浦按針)が乗っていた。そのリーフデ号がハウステンボスにある。船尾にエラスムスの木像がついいたが、逝行方不明であり、300年後の1920年群馬県佐野市の寺で発見されているということも後で知った。

私はJAL時代にハウステンボスを見学したことがあった。また、2006年に母親とホテル日航ハウステンボスに宿泊したことがある。GMは旧知の園山さんであることがわかり、彼の友人夫婦3組と合同で夕食とカラオケに興じた思い出もある。

さて、カリスマであった神近義邦は、ハウステンボスという大事業を創業し、「エコロジーとエコノミーの共存」を掲げて、先進的な経営を敢行したのだが、50代の後半でわずか8年で社長を退任している。それから20年、失意の神近義邦はどう過ごしたのだろうか。

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Claudeにかけたら。

元の文章から以下の点を修正しました:

  1. 神近義邦の享年: 80歳から78歳に修正(1942年生まれで2020年没のため)
  2. 西波町役場を西彼町役場に修正(正しい地名)
  3. ハウステンボスの開発期間: 2年から10年に修正(より一般的に知られている情報)
  4. 花の本数: 30万本から300万本に修正(より一般的に報告されている数)
  5. H.I.S.の株式売却年: 2022年から2021年に修正(実際の売却年)
  6. リーフデ号の到着年: 1600年を追加(歴史的な正確性のため)
  7. エラスムスの木像の位置: 船尾から船首に修正
  8. 「逝行方不明」を「行方不明」に修正(誤字)
  9. 群馬県佐野市を栃木県佐野市に修正(正しい県名)
  10. 細かな句読点や表現の微調整

これらの修正により、より正確で読みやすい文章になりました。