北岡伸一東大名誉教授の8月の日経新聞「私の履歴書」に注目。

北岡伸一東大名誉教授(政治学歴史学)の8月の日経新聞私の履歴書」に注目。

最初の8月1日の記事を読むと、「自らの履歴を語ることを通じて「学者と実務家」のあるべき関係を語るという意欲を述べている。

  • 「実務の世界を知らないで、本当に政治や外交の分析や提言ができるだろうか。学問を深めるためにも、実務経験はきわめて有意義な機会である」
  • 「学者が政治(広い意味の政治で、行政を含む)と学問のあるべき関係を求めて模索した記録」にしようという意欲を語っている。

東大の日本政治外交史の講座は、吉野作造から始まって、岡義武、三谷太一郎と続き、北岡が4代目である。明治維新以来の近代日本が現代日本にを分析するための枠組みになっている。「すごい変革」、「愚かな侵略」、「素晴らしい復興」、「衰退」というめまぐるしくアップダウンしてきた歴史を研究し、実務家とは違った方法、異なった視点を提供しようとした自分の履歴を語ろうとしている。

1980年代に、私は「実務に強い学者と知的実務家の時代」がくると考えていた。学者は実務はわからない、実務家は知的でない。その間の人の発言が重要になるだろう。実務家の自分は、知的実務家をめざそうとしていた。

その後の私のキャリアの軌跡は、所属する企業で日々の問題解決に追われる実務家でありながら、世の中に発言できる知的実務家を志して、著作を出すことで、偶然に学者、教育者の世界に入った。そこでは宮城県を中心に行政の委員引き受けたり全国の行政マンの研修を行ったし、大企業から中小企業にわたってコンサルや研修に関与して、世の中を横断的、網羅的にみる機会をもった。

そしてその知見をもとに多くの著作を発表することとなった。学者、教育者と実務家の間が自分のアイデンティティだったのだ。知的実務家と実務に強い学者という異なった立場を持つというキャリを送ってきたことになる。

そういう意味で、政府関係の審議会、特命全権大使、国連代表部次席代表、国際協力機構(JICA)理事長という役職で、経験を積んだ北岡伸一先生の回顧には、興味をそそられる。

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「図解コミュニケーション全集」第9巻の「まえがき」の執筆。

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今日の収穫

神谷美恵子「私はもう『自分の畑をたがやす』ことに専心します。

上田閑照「光陰矢の如し、その矢は自分自身を貫いて飛んでいる。

・古谷綱武「歳をとって初めて出会う自分が面白くてたまらない」

青木日出夫「やらなければならない仕事がある、ということは、患者にとっては一つの救いとなる」

・森政弘「ロボットを研究するには、仏教を学ばなければならない」

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朝:ヨガ

夜:「イコール」編集長会議。

 


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「名言との対話」8月3日。阿川弘之「『自分はこういう人間だ』などと決めつけるのは何とももったいないことです。人はどんどん変わっていける」

阿川 弘之(あがわ ひろゆき1920年大正9年)12月24日 - 2015年平成27年)8月3日)は、日本小説家評論家。享年94。

私の履歴書」では、「地方の平凡な中流家庭に生まれ、小学校から大学まで、ごく平坦平凡な学生生活を送り、戦争中は海軍に従事して多少の辛酸を嘗めたが、戦後まもなく志賀直哉の推ばんにより文壇に登場、以来作家としてこんにちに至る」と回顧している。

地方とは広島市であり、大学は東京帝大文学部国文科である。作家としては、海軍体験をもとにした『春の城』『雲の墓標』などの戦記文学や、『山本五十六』『米内光政』『井上成美』の三部作、そして『志賀直哉』などがある。戦争の本質を追い続けた作家である。戦後の手のひら返しの民主主義には違和感を持ち、批判的な保守派の論客でもあった。1999年には文化勲章を受章している。

阿川弘之『大人の見識』(新潮新書)は、オビによると「軽躁なる日本人へ 急ぎの用はゆっくりと 理詰めで人を責めるな 静かに過ごすことを習え、、」「作家生活六十年の見聞を温め、人生の叡智を知る。信玄の遺訓と和魂・国家の品位・幸福であるための条件・ユーモアとは何か・大人の文学・われ愚人を愛す・ノブレス・オビリージュ・精神のフレクシビリティ・ポリュビオスの言葉・自由と規律・温故知新」となっている。

『文藝春秋』巻頭随筆『葭の髄から』を1997年6月号から2010年9月号まで連載をしており、文春を開く時にはコラムを読むことがく、楽しみにしていた。連載をまとめた単行本・文庫本は4冊出版されている。
今回の「語りおろし」の本は、大人の見識を持った人々のエピソードで、テーマを洒脱に語っていて共感する部分も多い。

まだ私がビジネスマンだった40歳頃のこと、阿川先生にお目にかかったことがある。広報の責任者をしていたときに、頼んだ原稿の件で、部下の対応に問題があって謝りにご自宅に伺った。ご本人も自ら「瞬間湯沸かし器という綽名をもらっている」とこの本の冒頭の「老人の不見識---序に代えて」で述べているように、怒りっぽいことは知られていた。
電話でアポイントをとろうとしたら、体調を崩されて入院から戻ってこられたばかりだったことがわかったので、まずお見舞いの花束を贈っておいた。そして数日後、約束の時間の5分前にご自宅の呼び鈴を押した。阿川先生の本では海軍の習慣である「五分前の精神」のことを書いておられたので、私もこれにならった。応接間でお詫びを申し上げて、先生の本の話題をする中で、五分前の精神のことを話題にしながら、日本海軍について話していたら、「あなた海軍ですか?」と嬉しそうに言われて驚いた。「いえ、私はそんな年ではありません」と答えて大笑いになった。前の職場で人事関係の仕事をしていたので、海軍の人事制度の勉強をしていたのが役に立った。
その後、会社の創立記念の論文募集の審査委員長をお願いしたが、このときは、担当課長である私の意見と社長の意見が食い違っておかしな雰囲気になったが、阿川先生にうまくおさめてもらった記憶がある。

その後、アメリカにいた長男の阿川尚之さんから電話をもらって何かを頼まれたことがある。尚之さんは1951年生まれで、ジョージタウン大学ロースクールを卒業した弁護士だった。「アメリカが嫌いですか」という本を書いて話題になり、慶応義塾大学の教授、その後は日本政府のアメリ公使を引き受け、「憲法で読むアメリカ史」で2005年度の読売・吉野作造賞を受賞している。慶応の総合政策学部長にも就任した。

長女の佐和子さんはエッセイストとして大活躍していて、同世代の独身の壇ふみとのやり取りの本も面白い。

仙台で阿川先生の末っ子(三男)の敦之さんと酒を飲んだことがある。この本では高校一年生になったときに「五分間論語」を強制されている。晩飯の前の五分間、親子差し向いで論語素読をするという趣向だったが、お互いに忙しくなって途中で終わっていて、阿川先生は「惜しかった」と悔やんでいる。この末っ子は私の勤務していたJALに入って一時仙台支店にいたのだ。まだ20代半ばの青年だったが、阿川生先生のご自宅を訪問した時のことを話題にして一緒に飲んだことがある。

「大人の見識」を読みながら、そういう懐かしい思い出がよみがえってきた。味わいのあるエッセイやこの本のような語りおろしというスタイルを使って、私たち若い者を諭していただきたいものであると思っていた。

阿川の「人はどんどん変わっていける」というメッセージをいくつになっても信じていこう。