今日は、宮脇綾子から始まり、宮脇綾子で終わった日となった。
午前:東京ステーションギャラリーの「宮脇綾子の芸術」展。
とても込んでいた。先週のNHK「日曜美術館」で放映されたためのようだ。女性がほとんど。あたたかい、やさしいアップリケ。心温まる作品。一介の主婦の身で40歳からはじめ、人気が出て95歳まで膨大な作品をつくった。
午後
芝公園で東京マラソンをはじめて見学。3.8万人が参加した。晴れ渡った絶好のコンディションの中、ランナーの列が延々と続くことに驚いた。。外国人も多い。2人ほど体調を崩して手当を受けていた。
芝公園で娘夫婦と孫たちと待ち合わせ。ここはポールを使った演舞のコーナー。
芝増上寺。法然の浄土宗の7つの大本山の一つ。徳川家の菩提寺。
「月かげ乃いたらぬ里はなけれどもふかむる人のこころにぞすむ」(浄土宗の宗歌)
「池の水ひとのこころに似たりけりにごりすむことさだめなければ」(法然)
芝東照宮。徳川家康。1617年、増上寺の境内に創建。還暦を迎えた徳川家康が自ら命じて彫刻させた等身大の寿像がご神体として祀られている。
夜
NHK・BS『べらぼう』「玉菊燈籠 恋の地獄」
NHK・Eテレ『日曜美術館』「アップリケを芸術に高めた宮脇綾子」
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「名言との対話」3月2日。久世光彦「うまくやろうと思うな。その先に広い世界はない」
久世 光彦(くぜ てるひこ、1935年4月19日 - 2006年3月2日)は、日本の演出家、小説家、実業家、テレビプロデューサー。テレビ制作会社「株式会社カノックス」創業者。享年70。
13歳。中学で文芸部。映画少年で年間150-200本の映画を見る。21歳。一浪し東大文学部入学(美学科)。演劇サークル「劇団駒場」を結成。25歳。KRテレビ(後のTBSテレビ)入社。27歳。ドラマ演出家としてデビュー。29歳、「七人の孫」を演出。この番組で、向田邦子がシナリオライターでデビュー。35歳。「時間ですよ」。38歳。プロデューサーもつとめる。39歳。「寺内貫太郎一家」、「時間ですよ」がともに視聴率が30%を超える。43歳。「七人の刑事」。
44歳。TBSを退社。映画監督としてデビュー。52歳。「昭和幻燈録」で小説家デビュー。56歳。「世にも奇妙な物語」。57歳。「華岡清洲の妻」。芸術選奨文部大臣賞受賞。59歳。「蝶とヒットラー」。「1934年冬−−乱歩」で山本周五郎賞。作詞した「無言坂」(香西かおり)がレコード大賞を受賞。63歳。紫綬褒章。65歳。久世塾を開き、ドラマ作家を育成。「粛々館日録」で泉鏡花文学賞。69歳。「大遺言書」。スポニチ芸術文化大賞ウランプリ。70歳、逝去。
久世光彦は、「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「悪魔のようなあいつ」などの国民的テレビ番組をつくりあげた辣腕の人である。80年代以降、つまり40代半ばからは映像制作会社の社長となり、50代に入ると優れた小説やエッセイを書きいくつかの賞を取っている。映像と文学の世界を自由自在に往復した人だ。
テレビという新しいメディアを縦横に使って、ありあまる才気で自己を十分に表現した人だった。50代に入ると優れた小説やエッセイを書き、芸術選奨文部大臣賞、山本周五郎賞、泉鏡花文学賞などを受賞している。映像と文学の世界を自由自在に往復した人だ。
2009年に世田谷文学館で開催された企画展「久世光彦 時を呼ぶ声」をみた。「この度、ボクの古い映画を上映して下さるとのこと、少し照れくさいが、わたしの仲間だった久世光彦さんの展覧会も開催されると伺い大変うれしく、世田谷文学館には感謝申し上げたい。、、」と最晩年の名優・森繁久彌が挨拶文をパンフに書いている。
「一番美しいものは、いちばん凶凶(まがまが)しいものと背中合わせにいるものだ。きれいなものを見たかったら、怖い思いをしなくてはならない。私は十歳の夏の夜、それをはじめて知ったのだった。」
一緒に仕事をした芸能人の久世に関する言葉があった。俳優の竹中直人は、久世が漱石の「行人」を映画にした、それを竹中とやりたいと言っていたとし、「ぼくが監督として映画にする」、と言っている。森光子は、久世に「少年の目」を感じている。また、台湾の飛行機事故で亡くなった向田邦子とのコンビは、亡くなったあとも「向田邦子新春スペシャル」として年に一度テレビをつくっている。
作詞した曲のリストを数えてみると、200曲にも及んでいる。天知真理の「ひとりじゃないの」、郷ヒロミの「真夜中のヒーロー」なども久世の作品である。「生涯の望みは自分が死んで50年100年たっても残る歌を書きたい」という言葉も残っている。詩を書くことが好きだったのだ。
亡くなる直前の2006年2月9日のインタビュー映像が流れており、70歳の久世の姿を見て、言葉を聞いた。岸田劉生の描いた「麗子」の絵を論じている。怖い、気味が悪い、魔物といった表現で「麗子」を語っている。この映像の中で、「映像を文章に移したというところがある」と語っていた。それが久世の文章の強みだったのだろう。
棚に並べてある数を数えると、56冊に及んでいる。その仕事の量と質の高さは驚くばかりだ。
自分の中には、文学少年と映画少年と演劇少年という3人の少年がいた。文学少年は小説を書いてある程度満足し、映画少年はテレビ番組で満足したが、演劇少年は意外に執念深い奴だったとも回想している。
「マイ・ラスト・ソング」という企画も興味深い。「あなたは最後に何を聴きたいか」というテーマで1992年から「諸君!」に連載し、それは14年も続いた。200曲以上を取り上げたが、こういった企画にも人生の本質を見る眼を感じる。
「文学の仕事」は、「見たもの聴いたもの、美しいと思ったもの、怖かったもの、脅えながら犯してしまった小さな罪や春の夜の悪い夢」の記憶に結びついている。
「書林逍遥」には、「(太宰は)文章の名人だったが、「句読点」の達人でもあった」とある。
生涯の師と仰いでいたのは、俳優の森繁久弥だった。1964年の「七人の侍」のアシスタントディレクターのときからの付き合いとなる。二まわりほど若い久世が、晩年を迎えた森繁の回想を書き留めながらそれを自分の文章にしていくという『大遺言書』という本になる。
『大遺言書』『今さらながら 大遺言書』『「さらば 大遺言書』という連作を二日間で読み切った。不思議な書である。森繁久彌が「語り」、久世光彦が「文」を書いたという形の本である。インタビューでもなければ、共著でもない。確かに久世光彦の文章なのだが、この二人の位置関係は、表紙や奥付で久世光彦の名前がほんの少しだけ下がっているところに現れているとも見える。この微妙な配慮がいい。
テレビという新しいメディアを縦横に使って、ありあまる才気で自己を十分に表現した人だった。私は久世光彦という人物をみて、「美しいもの」に対する執念を感じた。大学で美学を専攻したこともその現れではないだろうか。その久世は、師匠・森繁久弥よりも早くこの世を去ってしまう。
久世光彦は「うまくやろうと思うな。その先に広い世界はない」と語っている。後先のことは考えずに、その都度、全力投球をせよ、と聞こえる。全力投球したあとに、思いがけない広い世界にでることがあるということだろう。私は久世光彦という人物に「美しいもの」に対する執念を感じている。大学で美学を専攻したこともその現れだろう。映像と文章という手段を使って、上手に表現しようというのではなく、美しいものをとことん追求した人生だった。創造的な業績をあげ続けた仕事師の仕事と人生の極意だと受け止めたい。