「耳の日」
奈良仏教、平安仏教、鎌倉仏教など仏教の歴史と現代の仏教界への提言。
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メンズヨガ教室の今年の初回。
9000歩。
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「新・代表的日本人」1月10日。まず福沢。森毅、尾崎紅葉、船井幸雄。
福沢諭吉1835年「今日も生涯の一日なり」
森毅1928年「ゆっくりわかるのも、一種の才能」
徳川慶喜1867年「予を殺す者は薩長の徒ではなく、幕臣どもの日なた臭い幕臣意識だ」
尾崎紅葉1868年「人の幸福の第一は家内の平和だ。家内の平和は何か。夫婦が互いに深く愛するというほかはない」
伴順三郎1908年「『浅草から出たんだ』っていう意気込みでやりたいですね」
いいだもも「1926年「村外れで振りかえれ、お前のお母さんの段々畠を!」
船井幸雄1933年「成長が実感できる毎日は幸せだ」
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「新・代表的日本人」1月10日 。福沢諭吉「今日も生涯の一日なり」 福沢諭吉(ふくざわ ゆきち、旧字体:福󠄁澤 諭󠄀吉、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉―明治34年〈1901年〉2月3日)は、幕末から明治期にかけて活躍した日本の啓蒙思想家、教育家である。享年66。 郷里・中津の偉人である福沢諭吉先生の旧居には、子どもの頃から何度足を運んだことだろう。豊前中津藩下級武士の実家の土蔵二階にある勉強部屋を覗く。五畳の部屋に木の書見台が置いてある。若き福沢はここで勉学に励んだのだと、いつ見ても感銘を受ける。 2月3日は、福沢が賑やかな一生を閉じた日である。戒名は「大観院独立自尊居士」。 代表作の一つ『学問のすすめ』は、初版20万部、偽版22万部とされ、当時の日本の人口約3500万人のうち、160人に1人が読んだという空前のベストセラーであった。この出版業の隆盛が、慶應義塾の原資となった。 当時、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」と言われたという。慶應義塾の「義塾」とは、公衆のための義捐金をもって建学する学塾で、学費を収めないものを意味するそうだ。福沢が創設した中津市学校(1871―1881年)は、当時、西日本第一の英学校といわれ、慶應義塾の教授たちが教鞭を執っていた。 『福翁自伝』の末尾には、次の一節がある。 「回顧すれば六十余年、人生既往を想えば恍として夢の如しとは毎度聞く所であるが、私の夢は至極変化の多い賑やかな夢でした」 私の母校・中津北高校の校歌三番は、 「世界の空に輝かむ 新たに興る日本の 若き花こそわれらなれ 福沢精神受け継ぎて ああ独立自尊の 中津北高校!」 である。 また、曾孫の美和は昭和2年生まれで、私の母と同年だった。そう考えると、福沢諭吉は母の「ひいおじいさん」という時代感覚になる。 記念館の隣にある諭吉茶屋で、「独立自尊」「天は人の上に人を造らず……」の書とともに、「今日も生涯の一日なり」という書を見つけ、気に入って買った。一日一日を大切にして「賑やかな」生涯を送った福沢らしい、実にいい言葉だと感銘を受けた。 福沢は午前4時半起床(冬は5時半)、午後10時就寝という生活を送り、散歩党を起こすための銅鑼と打木が残っている。毎日、広尾・目黒・渋谷を巡って約6キロを歩いた。福沢は身体を人間第一等の宝として鍛えていた。それを示す言葉が二つある。「身体壮健精神活発」と「先成獣身而後養人心」である。後者は、「まず獣身を成して、後に人心を養う」と読む。 福沢旧居には何度も訪れているが、そのときの心境や問題意識によって、見えるものが違う。自分と同じ年齢のとき、福沢は何をしていたのか、どのような心境だったのか……。訪れるたびに郷里の偉人を鏡として、自分自身の変化も意識する。2005年正月の福沢記念館から始まった私の「人物記念館の旅」には、そうした楽しみ方がある。 生涯という長く、しかし短い年月の限られた時間を意識しながら、一日一日、その日その日を大切に生きていきたい。 以上は2016年に書いた文章である。しかしこの福沢諭吉という大人物については、折に触れてこのブログで記してきた。以下、その内容を並べてみたい。
以下は2005年1月3日の記録である。私の「人物記念館の旅」は、この日から始まった。郷里の偉人・福沢諭吉先生の旧居には、子供の頃から何度訪ねてきただろう。豊前中津藩下級武士の実家、その土蔵の二階にある勉強部屋を覗く。五畳の部屋に、木の書見台が置かれている。記念館ではまずビデオを見る。中津人への呼びかけである「中津留別の書」にある有名な言葉――
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」――
これは三十九歳のときに刊行された『学問のすすめ』に収録され、人口に膾炙した。初版二十万部、偽版二十二万部。当時の日本の人口約三千五百万人のうち、百六十人に一人が読んだという空前のベストセラーである。この出版事業の隆盛が、慶應義塾の原資となったという。貧富の差は学ぶ者と学ばざる者の違いにあり、日常生活に役立つ学問こそが大切であること。個人が独立し、家が栄え、ひいては天下国家が栄えること――そうした考えが説明されていた。当時、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」と言われたという。成田市長沼に力を貸した逸話も、今回初めて知った。小川武兵との交流や、礼として味噌漬けを百年以上送り続けているという話を、曾孫が語っていたのも印象深い。一九〇〇年には、世紀送別会において「独立自尊迎新世紀」を演説している。慶應義塾の「義塾」とは、公衆のための義捐金によって建学された学塾で、学費を納めないもの、という意味だそうだ。福沢が創設した中津市学校(一八七一―一八八一年)は、当時、西日本第一の英学校といわれ、慶應の教授たちが教鞭をとった。福沢諭吉には九人の子供がいた。男四人、女五人。長男の一太郎は慶應義塾社頭・塾長、次男の捨次郎は時事新報社社長となった。『福翁自伝』の末尾には、次の一文がある。
「回顧すれば六十何年、人生既往を想へば恍として夢の如しとは毎度聞く所であるが、私の夢は至極変化の多い賑やかな夢でした」系図を見ていると、曾孫の美和は昭和二年生まれだった。私の母と同年である。そう考えると、福沢諭吉は母のひいおじいさん、という感覚になる。民間に独立して所信を主張すべきだと論じた『学者安心論』、政権は中央政府に、治権は地方にあるとした『分権論』、小吏になることを否定し、官途以外に無限の世界があると説いた『士人処世論』。いずれも、いつかきちんと読んでみたい本である。隣の諭吉茶屋では、「独立自尊」「天は人の上に……」の書とともに、「今日も生涯の一日なり」という言葉が掲げられており、気に入って購入した。福沢旧居には何度も訪れているが、そのときどきの心境や問題意識によって、見えるものが違う。自分と同じ年齢のとき、福沢は何をしていたのか、どのような心境だったのか。訪れるたびに、郷里の偉人を鏡として、自分自身の変化を意識する。人物記念館の旅には、そうした楽しみ方もある。隣の敷地には、増田宗太郎の記念碑があった。中津在住の作家・松下竜一の『疾風の人』に詳しいが、福沢のまたいとこである宗太郎も、相当の人物だったようだ。今では増田宗太郎を振り返る人は少ないが、軍国主義の時代には中津では福沢の評価は地に落ち、西南の役で中津隊の隊長として西郷隆盛とともに没した増田宗太郎を評価する人が多かったという。時代の空気によって、福沢ほどの人物でさえ評価が大きく揺れ動いたことに、驚かされる。――福沢は「健康オタク」でもあった。以下、そのエピソードである。身長は一七三センチ、体重は六七・五キロ。四十八歳のとき、生命保険に加入する際の計測では一七三・五センチ、七〇・二キロとあり、中年になってやや太ったのだろう。当時の平均身長は一五八・七センチで、十五センチも高い。堂々たる体躯である。肺活量は五一五九立方センチ。起床は午前四時、就寝は午後十時。(見習いたい点である)
運動は米つきと、食後の居合い。居合いは一日二千本程度というから、相当な運動量だ。
乗馬を好み、馬に乗って時事新報社へ出社したという。(その姿を一度見てみたい)
毎朝、慶應の学生たちと一緒に六キロ歩き、「散歩党」と称した。(万歩運動の先駆けか)
朝十時、娘三人を連れて東京を出発し、大森、川崎を経て午後五時半に神奈川に到着。歩くことは一家団欒に最もよい方法だと述べている。(私も夫婦で散歩をしているので、よく分かる)
元来、大食漢かつ大酒飲みだったが、中年以降は節酒・節食。
晩年は魚肉を一切やめ、粥と野菜、牛乳二合。間食はしない主義だった。――福沢の言葉。「徳教は目より入りて耳より入らず」
「人は老しても無病なる限りは、ただ安閑としてはいられず、私も今の通り健全なる間は、身にかなうだけの力を尽くすつもりです」(『福翁自伝』「老余の半生」末尾)
「若い人は年配者と付き合え。年配者は若い人と付き合え」
「一身にして二生を経る」智恵とは、叡智(庶民の知恵、生活の知恵)と知性(理性的な知の働き)を含むものであり、物事相互の関係を判断し、大小軽重を弁別する総合的能力である(福沢諭吉『文明論之概略』)。「ただ旧友を忘れざるのみならず、兼ねてまた新友を求めざるべからず」
「独立の気力なき者は、必ず人に依頼す。人に依頼する者は、必ず人を恐る。人を恐る者は、必ず人に諂ふものなり」自ら定めた戒名は「大観院独立自尊居士」。維新後、中津藩から意見を求められた福沢は、「琉球のようになるのがよい。学校を設け、文明開化とは何であるかを藩中の少年子弟に知らせるべきだ」と説いた。「弱藩罪なし、武器災いをなす」という言葉である。平和国家・科学技術立国の提言とも読める。世界の軍事費の一〇%を削減して農業開発に回せば、途上国の灌漑排水計画二年分を賄える――これは一九八二年当時の吉田武彦の提言である。――福沢について、人々はこう語っている。徳富蘇峰は「時として一個の福沢諭吉は、帝国議会よりも大いなる勢力を有した」と述べた。明治新政府で勝海舟は、外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙された。この出処進退について、福沢(1835年生)は『瘠我慢の説』で勝を批判した。これに対し勝は一八九二年、次のように返書を送っている。
「行蔵を我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず、我に関せずと存候」局に当たらねばならぬ者の「行蔵」の重苦しさは、批評家には分からない。勝は日夜自らを奮い立たせ、継ぎはぎ細工のような政治を続けてきた。その一刻一刻こそが自分の「行蔵」であり、それが「我慢」なのだ、という心境であったのだろう。福沢は勝を「得々名利の地位に居る」とも批判しているが、壊すことは容易でも、まとめることには苦心がいる。幕臣の代表として高位高官に就くことは、最大の潜在的野党として沈黙を守るために必要だった。これが江藤淳の見方である。江藤淳は『福沢諭吉の文体』において、「著者の肉声が聞こえる文体」にその特徴を見ている。『学問のすすめ』を座右の書とし、「心身を労して私立の生計を為す者は、他人の財に依らざる独立なり」という一節に共鳴し、たびたび引用したという。「学者は国の奴雁なり」という福沢の言葉を、前川春雄(日本銀行総裁)は重視していた。日銀のようにリスクへの注意を怠ってはならない組織は、常に「心配性」であるべきだと内部に語り続けたのである。前川の伝記に『前川春雄「奴雁」の哲学』(浪川攻)がある。全員が同じ方向を向いている集団は、危機に弱い。異なる方向を見ている者がいる集団は、全方位を警戒できるため、しぶとく生き残る。その「奴雁」が、風向きの変化とともにリーダーになることもある。「奴雁」たらんとする精神を、忘れてはならない。大分県の平松守彦知事は、福沢の『分権論』を引き、「政権」と「治権」を論じた。治権とは、警察、道路・橋梁・堤防の整備、学校・社寺・遊園地の造成、衛生の向上など、人民の生活に密着した分野を指す。福沢の思想に沿って、地方自治の本義を体現することが、地方行政のライフワークなのだという。また、福沢は常に自らの失敗ばかりを語った人物だったと、後年、山本権兵衛は述懐している。
福沢諭吉の代表作『文明論の概略』の現代語訳(斎藤孝訳)を読了。こなれた現代語訳なので、福沢の言わんとすることをよく理解できた。
福沢は、封建時代の江戸時代と文明開化の明治時代の両方を身をもって知るという得難い経験をしている。そのため、人間精神の発達について論じるにふさわしい人物として本書を書いた。そして、いずれ後世の学者が本当の「大文明論」を書いてほしいと希望している。梅棹忠夫先生の『文明の生態史観』などは、それに対する一つの答えという意識で書かれたものだろうか。
高い見地から過去の歴史を見て、生きた目をもって未来を見通すことが必要だと説く本書は、極めて示唆に富む名著である。以下、まとめ。
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物事は枝葉末節から離れ、大本にさかのぼって「議論の本位」を定めるべきである。議論がかみ合わないのは、互いに極端なことを言うからだ。それでは収拾がつかない。物事には長所と短所があり、両方の目で見なければならない。そうした偏りを克服するために必要な有力な手段が、人と人との交際である。利害得失を論じるのは簡単だが、難しく、また大事なのは、物事の軽重と是非を明らかにすることである。
西洋文明の事物については、作ることも金で買うこともできるが、「文明の精神」はそうはいかない。文明の精神とは、人民の「気風」のことである。一国の気風とは時勢と人心である。アジアとヨーロッパの違いの大きさは、この文明の精神によっている。
自由の気風は、「多事争論」の間に生まれる。中国は独裁君主を仰いできたため、思想が乏しくなった。日本は、最高の地位にある天皇と最強の将軍がバランスをとっていたため、わずかながら思想が運動する余地があったのは幸運だった。
日本は国の始めから国体が変わったことがない。それは外国人に政権を奪われたことがないという一点において見事なことである。したがって、日本人の義務とは、この国体を保つことにある。
文明は一大劇場のようなものであり、また海のようなものである。文明とは人の身を安楽にし、心を高尚にすることをいう。衣食を豊かにし、人格を高めることである。
文明国になれるか否かは、国全体に行きわたっている気風による。その気風は智徳のあらわれであり、そのためには時勢を考えることが必要である。孔子は時勢を知らなかった。楠木正成は、足利尊氏という時勢に敗れた。
智徳の「徳」とはモラル(恥じることがないこと)であり、「智」とはインテレクト(考えること)である。この二つを兼ね備えていなければ、十全な人間とはいえない。
徳には、私徳(謙遜・律儀など)と公徳(公正・公平など)がある。
智には、私智(物事の理を定め、それに従う働き)と公智(軽重大小を区別し、優先順位をつける働き)がある。
わが国で「徳」と言っているものは、個人的な私徳であり、受け身の徳であって、卑屈な我慢を勧めるものになっている。徳は内にあり、智は外にある。私徳の効能は狭く、智恵の働きは広い。徳については後世に進歩はなく、試験もできない。一方、人間の智恵は教育によって生じるもので、無限に進歩する。
一向宗の信者は他力を求めて何もしない。儒者は孔孟の書を読むだけ。和学者は古書を詮索するだけ。洋学者はただ聖書を読むだけである。宗教とともに、学問と技術を学ぶことで、わが国の文明の水準を高めることが重要だ。日本には神道・儒教・仏教があり、徳は不足していない。智恵の獲得こそが優先すべきである。
時代と場所に応じて進歩することが大切だ。失敗とは、この二つを誤ったものであり、成功とは、よく合致したものである。この判断は難しい。
文明が発達し、智力が進むと「疑い」の精神が生じる。利を取り害を避ける工夫をするようになる。自力で解決できることが明らかになり、勇気が生じてくる。人民の智恵が増加すると、君主の仁徳を輝かせる余地はなくなる。規則が増えていくのはやむを得ない。規則によって善人を保護するのである。
文明における自由とは、他者の自由を犠牲にして実現すべきものではない。権力は必ず堕落し、権力の偏重はあまねく見られる。日本の歴史は、日本政府の歴史であると言ってもよい。宗教や学問も独立してはいない。
儒教や仏教も古を理想化する弊害をもっている。両者とも半ば政治に関する学問であった。要するに「気概」が不足していたのである。その結果、物事を「やってみる」精神を失ってしまった。貧富や強弱は、人智によって左右できる。
経済の第一原則は、財を蓄え、それを消費することである。蓄積と消費を盛大に行う国を「富国」という。第二の原則は、その財にふさわしい経済的智力と習慣が必要だということだ。財が乏しいのではなく、その財を運営する智力が乏しいのである。いや、智力が上下に分断されていることが問題なのだ。
外国交際を盛んにすべきである。これはわが国の一大難病であり、これを治療するのに頼りになるのは自国の人民しかいない。
国の独立を保つには、目的を定めて文明に進むしかない。独立とは偶然に独立している状態ではなく、独立すべき力があることを指す。自国独立を掲げ、内外の別を明らかにして民衆の進むべき道を示せば、それを基準として物事の軽重が定まってくる。
雪池忌(福沢諭吉の忌日。墓のある港区元麻布の善福寺で、慶応義塾関係者による法要が行われる)。郷里・中津の生んだ偉人。福沢がつくったと言われている心訓(実際は違うらしい)はいい。
一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。
一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。
一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。
一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。
一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。
一、世の中で一番美しい事は、すべての物に愛情を持つ事です。
一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。
『福翁事伝 よもやま話 素顔を諭吉』(福田一直)を読みながら、中津から東京へ。
中津に住む元朝日新聞記者の著書だ。
中津の偉人・福沢諭吉の人間味に溢れるエピソード集。
「出生」「体力」「逝去」「風采」「素行」「雑事」「性格」「一族」「好物」「趣味」「洋行」「舶来」「透視」「独立」「反骨」「辛口」「慈愛」「望郷」「交際」「暗殺」「世評」「財産」「女気」「文芸」と目次が並んでいる。
「性格」の項では、以下のように記されている。人物が目に見えるようだ。
「頭の回転が速い、努力家、ユーモアがある、機知に富む、皮肉を言う、風変わり、俗っぽさを好む、独立心が強い、財力を信じる、倹約家、打算的、癇癪持ち、正義感がある、二枚腰、権威を恐れず、腕力を嫌う、方便を使う、無遠慮な点あり、血を恐れる、涙もろい、議論好き、座談に長じる、目先が利く、合理的で進歩的、宗教に淡白、筆まめ、文章と演説がうまい、骨董や茶の湯を敬遠、消閑文を好まず、女性解放の先覚者、こよなく日本と日本人を愛す……」。
「世間の老人連中は長生きのことばかり気にするが、寿命というものは歳月の長短ではなく、人生に厚みや幅があって、苦楽が多く、思索を続ける人が真の長寿者だ」
「留学する者に、アメリカ人は秘密の場所に案内したり、技芸を縦覧させたりはしない」
「世評」の項が面白い。同時代の著名人の評価。
「猪口才諭吉」(水戸地方)
「権力に対しては無理に我慢するが、金力に対しては我意を張って強情なのは、独立自尊も大阪流だ」(三宅雪嶺)
「天才的偉人にあらず、常識的偉人だ」(大町桂月)
「彼によって拝金宗が恥を知らぬ宗教になった」(内村鑑三)
「学商福沢諭吉」
「福澤は三千年来、東洋稀有の俊傑」(神戸新聞)
「聖徳太子、弘法大師と並び、日本開闢以来の三大偉人の一人である」(松永安左エ門)
著書は34年間で749万部を発行。授業料を取ることを発明。福沢屋諭吉と称する出版元をつくった。晩餐会、園遊会、歌留多会、茶話会をよく開いた。堅物。フェミニスト。
耳学問に長けていた。
縁者:福沢幸雄(レーサー)、藤原あき。
関係者:手塚治虫(緒方塾の手塚良仙)、岡田嘉子(福沢塾の岡田摂蔵の孫)、湯川秀樹(福沢塾の小川駒橘の孫)、原田直次郎(英学を学ぶ同士・原田一道の次男)。
「人生にはライフワークというものがある。これがあるかないかで一生の勢いが違う」という1925年生まれの福田一直さんには、同郷中津の先覚者・福沢諭吉研究があった。
『文豪福沢諭吉』『福沢先生教訓集』、第三作が『よもやま話 素顔を諭吉』である。
2005年。90歳を過ぎても健筆を振るう中国文学の横松宗先生ご夫妻を訪問。福沢諭吉研究でも、「横松宗、北岡伸一、丸山真男の著作を読めば足りる」と言われているそうだ。先生は少し体調が悪いらしいが、3時間ほど楽しく談笑できた。
2009年。慶應義塾創立150周年「福沢諭吉展」(国立博物館)を訪問。上野の国立博物館表慶館で開催されている慶応義塾創立150周年を記念した福沢諭吉展を見てきた。思えば、2005年の正月から意識して始めた私の「人物記念館の旅」は、この中津の福沢記念館から始まったのだから、再会にふさわしい。
表慶館は、大正天皇(1879―1926)の御成婚を記念して建てられた、明治末期の洋風建築を代表する建物である。石と煉瓦造りの二階建てで、屋根は緑色の銅板で葺かれ、雰囲気のいい建物だ。慶びを表すという意味で表慶館と名付けられた。福沢諭吉展を開催するにふさわしい壮麗な建築である。
さて、現在の慶応の安西塾長のあいさつでは、「試みに見よ、古来文明の進歩、その初は皆いわゆる異端妄説に起こらざるものなし」という福沢の言葉から始まっている。1858年に23歳だった福沢は慶応義塾を創立し、1901年に68歳で亡くなるまで、獅子奮迅の活躍をする。今回の展覧会のキーワードは「異端」と「先導」である。安西塾長は福沢を、知・情・意の総合力に優れた偉大な常識家として見ている。
この展覧会は、第一部「あゆみだす身体」、第二部「かたりあう人間(じんかん)」、第三部「ふかめゆく知徳」、第四部「きりひらく実業」、第五部「わかちあう公」、第六部「ひらけゆく世界」、第七部「たしかめる共感」という七部構成になっている。 福沢のもっとも身近な自身の身体や家族から始まり、男女、同志、慶應義塾、経済、政府、演説、『時事新報』、世界とアジア、そして福沢山脈を形成した門下生の美術コレクションへと、影響が地理的に拡大していく様子と、後世へと時間軸に沿って及んでいく様子を描いている。 影響が広く、長く、水面の波紋のように広がっていく――そのようなコンセプトの展覧会だろう。 「あゆみだす身体」。 4時半起床(冬は5時半)で、10時には就寝する福沢が、散歩党を起こすために使った銅鑼と打木が展示されている。毎日、広尾、目黒、渋谷を巡り、6キロを歩いたという。また、肖像画が30種類以上残っていることからもわかるように、福沢は無類の写真好きだった。 福沢は身体を人間第一等の宝として鍛えていた。それを示す言葉が二つある。 「身体壮健精神活発」と「先成獣身而後養人心」である。後者は、「まず獣身を成してのち人心を養う」と読む。 「かたりあう人間(じんかん)」。 銀座に交詢社をつくり、人間交際(society)を推進したが、交詢社とは「知識を交換し、世務を諮詢する」社会教育の場という意味であることがわかった。 「ふかめゆく知徳」。 徳とは、「勉強によって智を獲得するかたわら、知らず知らずのうちに備わっていく気品」だという。慶應義塾の25年史には「西洋の実学」という言葉があり、実学に「サイヤンス」というルビが振られている。科学を実践的学問、すなわち実学と訳しているのは興味深い。 慶應義塾では、先生と弟子という関係ではなく、社会を開拓する志の実現のために協同して支え合う仲間(社中)であり、上下関係はないという考え方がある。福沢だけが「先生」と呼ばれ、他はすべて「君」づけで呼ばれたのも、こうした思想に基づいている。 亡くなる年の元旦に書かれた「独立自尊迎新世紀」は、まことに雄渾な書である。福沢の葬儀には1万5千人が参列したが、女性を尊重する論陣を張ったためか、女性の参列者が多かったという。 「きりひらく実業」。 中央における経済界の福沢山脈(荘田平五郎、朝吹英二、中上川彦次郎、池田成彬、福沢桃介、藤原銀次郎、小林一三、松永安左エ門ら)に加え、「もう一つの福沢山脈」として、地方で活躍した慶應義塾出身者の事績が展示されていた。これは非常によい企画だった。福沢の影響力が地方の産業にも深く及んでいたことがよくわかる。 「わかちあう公」。 『言海』完成祝宴の招待状に、招待員総代として「伊藤伯」「福沢先生」と記されていたのを、福沢自らが「福沢先生」の文字を抹消して送り返したという逸話の実物が展示されていた。 また、「瘦せ我慢の説」において、幕臣でありながら新政府から爵位を受けた勝海舟を批判した福沢の書簡と、それに対する勝の返書もあった。「行蔵は我に存す 毀誉は他人の主張 我に与からず 我に関せずと存候」という、よく知られた一節が記されている。 第一回帝国議会の想像図もあり、定員300名のうち、慶應義塾出身者は25名だったそうだ。今はどうだろうか。もっと多いかもしれない。 「ひらけゆく世界」。 展示されていた「西航手帳」は、帰国後の多くの著作のもととなった手帳である。「中津留別の書」(1870年)は、福沢のメッセージのエッセンスが凝縮されているとのことなので、ぜひ読まねばならない。 『福翁自伝』の最後で、これからやってみたいこととして「気品」「宗教」「学問」を挙げているのも興味深い。 「たしかめる共感」。 門下生による美術コレクションの展示であるが、「国の光は美術に発す」という福沢の言葉も紹介されていた。絵画や陶磁器など多くの美術品が展示されていたが、門下の実業人たちは、この言葉を胸に刻み、美術品を蒐集したのだろう。 福沢記念館は何度も訪れており、本も読んできたが、今回はこれまで知らなかった逸話を中心に見て回った。 福沢諭吉の著作は、折に触れて読み継いでいかなければならないと、改めて感じた。企画展の冊子のほか、『福沢諭吉が生きていたら――』(諭吉インサイドプロジェクト出版委員会編)なども購入した。 さて、福沢諭吉は近代の偉人の中で第一位の傑物である。人の偉さは、人に与える影響力の大きさにある。福沢は、身近な人々に深い影響を与え、同時代の人々にも著作や論説を通じて広範な影響を及ぼした。さらに、20世紀初頭まで在野のまま長く影響力を保ち続け、死後も、創設した慶應義塾の隆盛によって、経済界を中心に実に多くの人材を輩出し続けている。その影響の総和は、他の誰よりも大きい。 その福沢諭吉が、「今日も生涯の一日なり」という人生観で日々を過ごしていた。今日一日の積み重ねが、わが生涯であるという考え方である。 福沢記念館の売店でこの言葉の色紙を目にした私は、この言葉を座右の銘とし、毎日書いているブログのタイトルにも用いている。この言葉に接する毎朝、福沢諭吉のことが自然と思い浮かぶ。 最も大きな影響を受けた人物が、同郷の福沢諭吉であると言えるのかもしれない。

