田町で「吉田敏夫さんをしのぶ会」。東京ステーションギャラリーでシャガール展。丸の内の日本興業倶楽部で坂村健先生の講演「オープンIOTの考え方と実践。IOTからIOSへ」。

9時半から人事委員会:専任教員選考。非常勤採用。

 12時から田町のJALシティで開催された「吉田敏夫さんをしのぶ会」に出席。

JAL広報部時代の先輩。100人弱の懐かしい面々が集った。吉田さんが幹事となった同窓会のような会となった。吉田さんの前後4年の人が大半で、私の同期は環と二人で最年少か。

吉田トシさんは個性豊かな豪傑。課長時代に社長に直言していた姿を思い出す。深く広く影響を与えた人物だった。偉い人だった。

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 奥様「60歳を過ぎてから体が悪くなってきた。心筋梗塞胃がん、最後は肺がん。俺は故郷で死ぬ、仙台に帰る。痛い、苦しい、グチも言わず見事だった。哲学者のように耐えていた。鳥が飛び立つようにサーと亡くなった。」。日記から「天命を受けて最善の努力。人間的な姿。天命と戦う。凡庸だけど反抗心。人生は山。」

羽根田「剛胆。磊落。気配り」

新町「砂漠のオアシス。三屋清左衛門残日禄から」

梶「彼には日航は器が小さかったか。日本一の広報マン」

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終了後は、環君とコーヒーを飲みながら歓談。

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夜のセミナーまで時間があったので、まず東京ステーションギャラリーで「シャガール展」をみる。

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 次に、丸善オアゾで本を3冊購入し、名物の早矢仕ライスを食べる。

手塚治虫書店あり。

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 19時:寺島文庫リレー講座は坂村健先生の「オープンIOTの考え方と実践。IOTからIOSへ」。坂村先生は東大退官の後、東洋大学情報連携学部長に就任。

東洋大学創始者井上円了(1858-1919年)。東大文学部哲学科一期生。哲学館。妖怪退治。社会不安を統計データで解消していく。哲学とは人生や世界観の根本原理を考えること。設計図。実用性。心の近代化が必要と説いた。哲学館事件で退任し生涯学習に転身。5400回の講演行脚。(井上円了記念館は一度訪問したが休みだったので再度訪れよう)

・日本は少子高齢化人工知能が迫ってくる。世界では小学校からプログラミングを教えている。プログラミングは簡単になってきた。開発環境。ネットでクラウドにつなぐ。設備も持つ必要はない。少しプログラミングを学べば凄いことができる。日本の法律はポジティブリスト型でありイノベーションが起こしにくい。ハンコ、印紙。紙も電子も。ETCも現金も。全部やろうとするからできない。アメリカはネガティブリスト型の法体系。書いていないことはやっていい。インターネットは自由に使える。

・中国:モバイルペイメント(アリペイ・Wechat)。スマホがお金・通貨。QRコード。乞食への恵みもQRコード。現金を持たない社会へ。mobike(シェアリング自転車)。どこで乗ってもどこで降りてもOK.QRコードの組み込み。1年500万台。世界中100都市。一日2500万回。道路の混雑状況のビッグデータを自治体に提供。クラウドですぐれたユー材にはインセンティブを与える仕組み。IOTはコンピュータを組み込んだ物のネットワーク。違反者は拒絶。途家(Tuija)はシェアハウスのマッチングサービス。利用者を遠隔監視。罰金の自動引き落とし。

・オープンなIOT:IOTという言葉に収斂してきた。インターネットでモノを繋ぐ。普及のカギはオープン性だ。APIの公開。クローズではダメ。「オープンIOT]。APIエコノミー。系列や業界を超えるVCMプラットフォーム。IOTからIOS(service)へ。

・坂村の開発したトロンは世界標準として全世界に展開。米国の学会に知的所有権を寄贈。ハヤブサ、H2ロケット、デジカメ、プリンター、FAX,楽器、クラウンのエンジンなどにもトロンが採用されている。

・AIはIOTにとって重要。大量データをAIで解析。ロボット化っも重要。強化す学習。プログラミングなしでトライさせて学習させる。並列学習ですべてのロボットが成功を共有する。ロボット同士の勝負を繰り返すとロボット自身が定石をつくる。脳のニューラルネットワーク

・新しい教育が必要だ:論理性の強化。AIと問題をつなぐプログラミングを少し学べばよい。基礎学力としてのプログラミング。文・芸・理融合。高い専門性とチーム連携力の高い人材。

東洋大学赤羽キャンパス(隈研吾坂村健):INIAD。mooks.電子図書館。オンドセンサー、鍵、、ペーパーレス、、、。連携(コラボレーション)。自分で考える力。多様性。社会人教育の必要性。プログラミングとコミュニケーションは1年生の必修。

 

「名言との対話」11月15日。歌川国芳「「西洋画は真の画なり。世は常にこれに倣わんと欲すれども得ず嘆息の至りなり

歌川 国芳(うたがわ くによし、寛政9年11月15日1798年1月1日) - 文久元年3月5日[2]1861年4月14日))は、江戸時代末期の浮世絵師

歌川国芳は、北斎、広重と同じ江戸後期を生きた浮世絵師。広重とは同年生まれ。日本橋染物屋に生まれ、10代で歌川豊国の弟子となったが、30代で人気絵師になるという遅咲きだった。

浮世絵専門の太田美術館で「破天荒の浮世絵師 歌川国芳」展を観た。国芳は63歳で亡くなるが、年譜を見ると48-52歳の間が最も仕事が活発だ。

2010年に府中美術館で開催された「歌川国芳--奇と笑いの木版画」展。7年経ってこちらの構えも違っているせいか、国芳の現代的なスタイルに感銘を受けた。歌川国芳は、豊国門下で、兄弟子は国貞(三代豊国)。41歳の頃、河鍋暁斎が7歳で入門している。国芳の画風を暁斎が展開したのだ。「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年も弟子であり、その画系は芳年年方清方深水という風に昭和期にまで続いている。

老中水野忠邦による天保の改革では、質素倹約、風紀粛清の号令の元、浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受けるが、国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。国芳を要注意人物と徹底的に幕府からマークされている。

武者絵の国芳」と言われたが、武者絵以外にも役者絵、美人画、名所絵など様々な作品を世に残している。西洋画に注目してその写実技法を取り入れ、リアリティの強い作品を生んだ。「相馬の古内裏」という作品に描かれている巨大なガイコツは「西洋の解剖学の書物を研究した成果」と言われている。ユーモアに富み、気骨のある、そして進取の気象に富んだ痛快な人物像が浮かんでくる。