橘川幸夫フェスに参加。

今日は橘川さんの誕生日。それにあわせて開催された橘川幸夫フェスに参加しました。

50名ほどの年齢、男女、場所をまたいだ縁者が集合し、3時間ほどそれぞれが橘川さんのことを語るという趣向です。

私はミニ橘川幸夫論を提示。「橘川幸夫は新型コロナである。感染力が強い。致死率は低い。常に変異を続けている」。ワクチンは無駄であり、治療薬は間に合わない、この言い忘れた。

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今日の収穫 渋沢栄一 『致知』2022年3月号。特集「渋沢栄一に学ぶ人間学

人の生涯をして価値あらしむるは、一に繫りてその晩年にある。古人の句に「天意夕陽ヲ重ンジ、人間晩晴ヲ貴ブ」というはすこぶるわが意を得たものである。人の一生に疎かにしてよいという時はない。一分一秒といえども、貴重の時間たるに相違ないが、その中でも、余は晩年がもっとも大切であると思う。若い時に欠点のあった人でも、晩年が美しければ、その人の価値は上がるものである。

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今日のヒント  渋沢栄一 『致知』2022年3月号。特集「渋沢栄一に学ぶ人間学

今日順境に在るがゆえに、明日もまたしかりと思うことなかれ。今日幸福なるがゆえに明日もまたしかりと思うことなかれ。

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0.9万歩。整体。

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「名言との対話」2月4日。伊藤深水「今日頑張った褒美に明日がやってくる」

伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4日 - 1972年(昭和47年)5月8日)は、大正昭和期の浮世絵師、日本画家、版画家。享年74。

東京深川生まれ。父の死去により小学校3年で中退し奉公に出る。看板屋、職工、1908年より東京印刷の活字工として働く。1911年、日本画家の鏑木清方に入門。深水という雅号は深川の水から命名された。1912年、巽画会展に初入選。1914年、再興第1回院展で入選。東京印刷を退社。

1915年、文展に入選。伝統的技法による新版画運動に参加。1919年好子と結婚。1927年、深水画塾を設立。1932年、人物画の再興を目指し「青々会」を設立。戦時中は海軍報道班員。1948年、『鏡』で日本芸術院賞。鎌倉に転居し、日月社で後進を育成。1958年、日本芸術院会員。

伊東深水は、北斎、広重と同じ江戸後期を生きた浮世絵師の歌川国芳、その弟子で「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年、水野年方、そして近代日本画の巨匠・鏑木清方の流れの中にある。また、深水の門人には昭和の挿絵の第一人者で、「専太郎美人」を描き続けた岩田専太郎がいる。浮世絵の伝統は江戸時代から続いているのだ。

たまたま2022年2月5日に、六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催中の「ボストン美術館所蔵 THE HEROES 刀剣X浮世絵ーー武者たちの物語」展をみる機会があった。伊東深水を念頭に置きながら、伊東深水が流れをくむ国芳らの武者絵を堪能した。

深水は妻の好子をモデルにした好作品があるが、1935年には料亭の女将・勝田麻起子との間に雪会という女児を設けている。後の女優・朝丘雪路である。非嫡出子であるが、深水は溺愛した。お嬢様育ちのおっとりしたキャラと天然発言が人気を集めた。雪路は津川雅彦結婚、津川の兄長門浩之、その妻の南田洋子と縁せきになっている。

「今日頑張った褒美に明日がやってくる」は、名言色紙を販売する「千言堂」の色紙の言葉である。「偉人たちが残した名言、長く語り継がれてきた格言、ことわざ、それらは、人生の道標となり、前向きに生きる力となります」「希望、勇気、信念、自信を与え、励まされる言葉を厳選、専属書道家が直筆、お届けしています」と店主からのメッセージがある。こういう商売もあるのだ。この伊藤深水の言葉は、「千言堂」で発見した。伊東の信条だったのだろう。