菅茶山記念館--黄葉夕陽村舎を率いた儒学者、漢詩人、教育者。

菅茶山記念館。広島県福山市神辺町。菅茶山は、儒学者漢詩人、教育者。

「菅茶山先生顕彰碑」には、記念祭が行われた年号が記載してある。大正15年没百年祭。昭和54年没五十年祭。昭和60年没百六十年祭。平成3年没百六十五年祭。平成10年生誕二百五十年祭。平成15年生誕二百五十五年祭。平成20年生誕二百六十年祭。

平成3年までの記念祭は「没後」であるが、平成10年からは「生誕」に変えている。昭和54年の百五十年祭あたりから、意識的に、郷土の偉人を顕彰して地域に元気を与えようという運動が活発になっていることをうかがわせる。茶山という号は、神辺茶臼山(現在、要害山)から採った。

茶山は80歳で没している長寿の人だった。年譜を繰ると、65歳「黄葉夕陽村舎詩」前編刊行。66歳「三原梅見之記」が成る。67歳主君の命で江戸へ。71歳大和。吉野、京都に遊ぶ、「大和行日記」が成る。73歳「室町誌」が成る。76歳「黄葉夕陽村舎詩」後編刊行。以上にみるように晩年まで執筆意欲は保ったままだ。

江戸時代の神辺山陽道の宿場町として栄え、旅人、参勤交代の大名らも行き交う町で、茶山の塾には著名な文人墨客が立ち寄り、江戸後期に教育と文化が花開いた。同世代、異世代の、儒学者、画人、洋学者と交友している。

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 19歳、京都遊学し、それ以降遊学は6回に及んだ。1775年28歳、私塾を開設。「黄葉夕陽村舎」として知られた。1797年には福山藩の郷校となり、神辺学問所、廉塾と名を改める。塾は3室20畳の講堂、居宅、寮舎、祠堂、書庫からなる。「日本外史」を書いて松平定信仁に献上した頼山陽(1780-1832)も都講(塾頭)をしていた。1801年には福山藩の儒官となり、藩校弘道館での講釈、そして2回の江戸詰を命ぜられている。藩主阿部正精直属の教授となり、「福山志料」、「福山藩附属問状答書」をまとめた。「宋詩に学べ」という文芸復興運動を起こし、「当世随一の詩人」と評された。

 ユーモアとペーソスのある独特の作風の福山出身の小説家・井伏鱒二(1898-1993)は、「「廉塾」ーすまい訪問」という作品を書いている。

記念館の館内には塾の規約、茶山の詩などさまざな陳列物があるが、珍しい資料も展示してある。

 1809年に3歳年長の伊能忠敬の測量隊が神辺に滞在したときには茶山は面会している。1811年の伊能隊の九州測量からの帰路には伊能忠敬から銅板の万国図が贈られた。「諸国漫遊に生涯をささげられたことをうらやましく思う」と褒め称えている。箱田良助(1790-1860)は17歳で伊能忠敬門下になり一番弟子となった。旗本の榎本家の株を買い旗本になる。その息子が榎本舞武揚(1836-1908)。

「筆のすさび」四巻には、来訪者から聞いた話題や茶山の考えが記されている。その中に岡山の浮田幸吉が、1875年、日本で初めて空を飛んだ話が紹介されている。f:id:k-hisatune:20180914052102j:image

 

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研究室:秘書と打ち合わせ。

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「名言との対話」9月13日。小牧正英「鹿踊りや剣舞が大好きだ」

小牧 正英(こまき まさひで、1911年9月25日 - 2006年9月13日)は、日本のバレエダンサー振付家である。

 小牧は岩手県江刺郡岩谷堂町江刺市を経て、現在の奥州市)で生まれた。21歳、画家を志してパリ留学を計画し、大連まで行く。ハルピンバレエ学校に入学したのち、上海バレエ・リュスに入団して同バレエ団で主要な役柄を踊った。

1946年、上海から引き揚げてきた小牧は、同年の東京バレエ団の結成に参加した。小牧が引き揚げの際に持ち帰ったバレエ音楽の楽譜を基にして『白鳥の湖』全幕を日本初演。小牧は振付・演出とともに主演も務めた。1947年には小牧バレエ団を結成して、さまざまなバレエ作品を上演。1954年に日劇で上演された『火の鳥』では、当時の世界的バレリーナノラ・ケイタイトルロールを踊り、小牧がイワン王子を踊って、公演期間中の24日間を通して満席になったという。小牧は谷桃子(谷バレエ団代表)、太刀川瑠璃子(スターダンサーズ・バレエ代表)ほか、日本バレエ界における舞踏家や指導者を多数育てた。演劇・映画方面でも、岸恵子、十朱幸代ほかが、小牧バレエ団でのレッスンを経て芸能界入りして活躍した。1958年の日本バレエ協会設立に当たっては、発起人の一人を務めている。

世界最初のバレエ団、ロシアンバレエ団の主宰者であったディアギレフの歴史的なバレエを継承している数少ないダンサーである小牧正英を核として、古典バレエの普及を図ろうと、1987年、東京小牧バレエ団として新たなスタートを切った。東京小牧バレエ団は、小牧正英の芸術的理想を継承しながら、観客を楽しませることができ、かつクオリティが高い日本有数のバレエ団として、文化芸術の発展に寄与している。現在は国際バレエアカデミア バレエ団と名称を変更している。

郷里の  江刺地方と周辺の地域では、鹿踊りや鬼剣舞などが古くから伝えられてきていた。その多くの伝統芸能は、今なお継承され盛んであるが、小牧は郷里の「鹿踊りや剣舞が大好きだ」と述べて、鹿踊りや剣舞をモチーフにした創作バレエを演じている。小牧は粘り強くバレエというテーマを粘り強く生涯追い続けた人物だ。風土と人物の関係を考えさせられる。